この小さな集団においても、 吉賀谷を偉い宗教家だと思わせるカリスマ性もあったのだけれど、 それよりも極
東の島国で培われてきた、 避妊薬 日本民族だけが持つ特異な感性の、 原始宗教がそのままの形で受け継がれてきた素朴
な信仰心で、 天皇を神として仰ぐことを教え込まれたのが、 大いに作用したのに違いなかった。
吉賀谷の偉大さは、 精神的なものよりも、 女性を信じさせる実際的な行為にもあって、 神代の時代から男根を
崇拝してきた民族の末裔が、 吉賀谷を媒体として、 祭るべき神を必要としたのだ、 ともいえるかもしれない。
女性のほうが大きな尻を据えて即物的に構えていると、 その尻に敷かれて存在感の乏しい男性は、 吉賀谷を疑
うことに忸怩とするようになる。
そして、 男の狡さでもあったが、 移民社会での女性に対する価値観は、 伝統を重んじる故郷でよりも、 いっそ
う強かったから、 亭主関白は表向きで、 家庭内では嬶天下である女性を統御し得ると、 ほとんど一つの団体の長 コンドーム
たり得るのは容易いことだった。
悪人にはマゾイズム的人間が多いのだが、 吉賀谷もその例に漏れず、 恐怖心を利用して、 礼儀だとか、 避妊薬 けじめ 媚薬女性用精力剤
だとか、 形式的な規制を押しつけ、 隊員がそれを違背することを懼れて汲々としている姿を観ることで、 快感を
得ていた。
そのもっともたるものが、 断食だった。吉賀谷は、 隊員とその家族たちが、 どういう反応をみせるかに、 多い
なる興味を持って、 暮れが押し詰まった十二月二十日に、 第一回目の断食日を言い渡した。
すぐに反応を示したのは、 とうぜん子どもたちで、
腹減ったよう
お腹空いたよう
と言う泣き声が、 あちらこちらで聴こえたが、
男のくせして、 情けない声を出すな
と親が抑えるだみ声のほうが、 苦痛のために捻れていた。
ねえ、 父ちゃん、 女の子は泣いてもいいのぉ
女でも駄目だ
でも、 いま父ちゃん、 男のくせにって言ったよ
女でも泣いてないのに、 男のくせにって言ったんだ
女は腹空かないの
空くさ、 誰でも
じゃあどうして、 泣かないの
空腹を忘れるためにも、 話しているほうがいいんだ、 と惟っているのだろう、 子どものしつこさにも煩がらず
、 話し相手になっていた。
女は、 男より勁いんだよ
母親も、 いい機会だと惟って、 加わってくる。
嘘だい、 男のほうが強いよ
男の子が、 負けずに言い返す。
日本人は男も女も勁いんだ
男親は、 事勿れと惟って中庸を取る。
じゃあ、 どうして男が威張ってるの
2011年12月20日星期二
2011年11月24日星期四
滋養強壮 熊野は
柳子が、 支配人のところに駆け寄って、 手を振って抗議する。
支配人は、 柳子のほうに見向きもせず、 まっすぐ頸を立てて、 茂を荷台で押さえつけている黒人青年三人を乗せたまま、 精力剤 車を急発進させる。もうもうと砂煙が立って、 周囲に居たガイジンたちも日本人たちも、 いっせいに後退り、 鼻と口を手で覆う。
しばらく日本人は呆然としていたが、
「おい、 みんな、 熊野だ、 熊野のところへ行くんだ」
と叫んだ龍一の声に、 はっと目覚めたように、 ちょっと身構えたあと、 どどどっ、 と駆け出してゆく。
自動車は広い道を走らなければならないけれど、 人はコーヒー畑のなかを突っ切って行けるから、 熊野のところに行き着くのはどちらが早いともいえない。
細くて小さくて敏捷な柳子は、 即効勃起薬 コーヒー樹のあいだを掻い潜るようにして走る。
走りながら柳子は、 急いでブラジル語を覚えなければならない。鷹彦さんから特訓を受けなければならない。ペドロをもっともっと活用しなければならない、 としきりに思う。
こんどのことで、 痛切に言葉の必要性を感じたのだ。言葉が通じないばかりに、 小森のおじさんが狂人にされてしまっているのだから。
コーヒー畑を斜めに突っ切って走る人たちよりも、 自動車のほうが早くて、 ほかのものを大きく引き離して走ってきた柳子が、 熊野の家に着いたときには、 もう支配人が車から降りるところだった。
熊野も、 なにごとが起こったのかと思ったのだろう、 戸口に顔を見せていた。
柳子が息せき切って到着すると、 支配人が熊野を叱責していて、 熊野が、 弁解がましいというのではなくて、 案外に横柄な口調で言い返していたから、 へええ、 熊野さんてわりかし偉いところがあるんだなあ、 と思いながら聴いていた。
聴くといっても、 ふたりの会話のほとんどは理解できないのだけれど、 「コモリ」とか「ジャポネイス」とか、 さきほど覚えたばかりの「ロッコ」だとか、 馬の世話をしてもらうときにペドロから教えてもらう断片的なブラジル語を拾い集めて、 単語と単語のあいだは判断でつなぎ合わせて、 支配人が小森を気違い病院に入れると主張し、 熊野が小森は気違いではないと主張しているらしいのが、 おぼろげながらわかってくる。
そこに小森の子供たちにつづいて、 龍一もやっと到着して、
「どうなった」
と喘ぎ喘ぎ、 柳子に訊ねる。
「支配人と熊野さんが言い争っているだけでわからない」
柳子の言うのを聴いて、 龍一は呆れる。呆れながら支配人と熊野のあいだに頸を入れて、
「熊野さん、 ふたりが言い争っていても埒があくものですか、 どうして監督と小森さんを
突き合わせて尋問しないんですか」
と詰る。
当然そうすべきなのを、 支配人が頭から熊野の怠慢だの、 すぐに気違い病院に小森を入れるだの、 新移民の監視を厳しくするなどと、 一方的な言い分で抑えてくるから、 自分自身の立場を擁護するためにだけ懸命になっていたのを、 熊野は反省する。
支配人は、 農場労働者の不満が募ってストライキに入られたり、 暴動に発展することを怖れて、 監督と労働者のあいだに争いが起こると、 言い訳などを聞いておらず、 直ちに労働者を追放したり、 こんどのような状況のときには精神異常と決め付けたほうが早期解決になると考えているから、 そのことだけに捉われていたのだ。
とくに精神異常者は、 農場から速やかに排除しなければ、 ほかの労働者に不安材料を与える要因になるし、 支配人自身の立場を脅かす原因になるから、 事情聴取などという無駄な時間を惜しんだ。
イタリア人やドイツ人労働者は、 リーダーを立てて交渉に当たることに慣れていたが、 日本人はまだそういう労働争議の解決方法を採らず、 個人的な問題として、 夜逃げをしたり、 ペニス増大 契約違反の罰金を支払って出てゆくものが多かった。
その点で、 熊野のように、 幼児のときに来て、 二世と同じようにブラジルの習慣を身につけているものは、 上下関係を意識しすぎる日本人にはできないことだが、 ガイジンとの話し合いにおいて、 雇用主と使用人とが対等な立場に立って物が言えた。
龍一の提案を支配人に伝え、 苦々しい顔をする支配人に構わず、 滋養強壮 熊野は、 荷台の底に惨めな恰好でくず折れている茂を助け起こし、
「ほれ小森しゃん、 しっかりせんね、 あんたどぎゃんしてこういうことになったんか、 説明ばしてやらんね」
と、 やさしい声をかける。
「どぎゃんして、 言われて、 わてにもさっぱりわからしまへん、 どこでどう間違うたんやら。そやけど、 あんまりひどおまっせ、 なんでわてを寄ってたかってぎゅうぎゅう押さえつけて苛めなあきまへんのんだっしゃろ」
「あんた、 気違いにされとるばってん、 暴れんように押さえつけとるたい」
「なんでわてが気違いにされなあきまへんのんだす」
「それを訊いとるばい、 なんで気違いにされたんたいね」
「そやさかい、 わても訊いてますねんがな、 なんでわてが気違いにされなあきまへんのかて」
「あんたらええ加減にしなはらんかいな、 ふたりがなんでや、 なんでや訊き合いしとっていつになったら埒あきまんのや、 あほらしい」
茂と熊野のどちらもが、 なぜこういうことになったのかと、 訊ね合ってる、 ばからしい問答に痺れを切らして、 タツが非難する。
「監督が腰を抜かして起き上がれないようになった原因はなになんです」
龍一が、 ひとつの事例を出して、 説明する糸口を与える。
支配人は、 柳子のほうに見向きもせず、 まっすぐ頸を立てて、 茂を荷台で押さえつけている黒人青年三人を乗せたまま、 精力剤 車を急発進させる。もうもうと砂煙が立って、 周囲に居たガイジンたちも日本人たちも、 いっせいに後退り、 鼻と口を手で覆う。
しばらく日本人は呆然としていたが、
「おい、 みんな、 熊野だ、 熊野のところへ行くんだ」
と叫んだ龍一の声に、 はっと目覚めたように、 ちょっと身構えたあと、 どどどっ、 と駆け出してゆく。
自動車は広い道を走らなければならないけれど、 人はコーヒー畑のなかを突っ切って行けるから、 熊野のところに行き着くのはどちらが早いともいえない。
細くて小さくて敏捷な柳子は、 即効勃起薬 コーヒー樹のあいだを掻い潜るようにして走る。
走りながら柳子は、 急いでブラジル語を覚えなければならない。鷹彦さんから特訓を受けなければならない。ペドロをもっともっと活用しなければならない、 としきりに思う。
こんどのことで、 痛切に言葉の必要性を感じたのだ。言葉が通じないばかりに、 小森のおじさんが狂人にされてしまっているのだから。
コーヒー畑を斜めに突っ切って走る人たちよりも、 自動車のほうが早くて、 ほかのものを大きく引き離して走ってきた柳子が、 熊野の家に着いたときには、 もう支配人が車から降りるところだった。
熊野も、 なにごとが起こったのかと思ったのだろう、 戸口に顔を見せていた。
柳子が息せき切って到着すると、 支配人が熊野を叱責していて、 熊野が、 弁解がましいというのではなくて、 案外に横柄な口調で言い返していたから、 へええ、 熊野さんてわりかし偉いところがあるんだなあ、 と思いながら聴いていた。
聴くといっても、 ふたりの会話のほとんどは理解できないのだけれど、 「コモリ」とか「ジャポネイス」とか、 さきほど覚えたばかりの「ロッコ」だとか、 馬の世話をしてもらうときにペドロから教えてもらう断片的なブラジル語を拾い集めて、 単語と単語のあいだは判断でつなぎ合わせて、 支配人が小森を気違い病院に入れると主張し、 熊野が小森は気違いではないと主張しているらしいのが、 おぼろげながらわかってくる。
そこに小森の子供たちにつづいて、 龍一もやっと到着して、
「どうなった」
と喘ぎ喘ぎ、 柳子に訊ねる。
「支配人と熊野さんが言い争っているだけでわからない」
柳子の言うのを聴いて、 龍一は呆れる。呆れながら支配人と熊野のあいだに頸を入れて、
「熊野さん、 ふたりが言い争っていても埒があくものですか、 どうして監督と小森さんを
突き合わせて尋問しないんですか」
と詰る。
当然そうすべきなのを、 支配人が頭から熊野の怠慢だの、 すぐに気違い病院に小森を入れるだの、 新移民の監視を厳しくするなどと、 一方的な言い分で抑えてくるから、 自分自身の立場を擁護するためにだけ懸命になっていたのを、 熊野は反省する。
支配人は、 農場労働者の不満が募ってストライキに入られたり、 暴動に発展することを怖れて、 監督と労働者のあいだに争いが起こると、 言い訳などを聞いておらず、 直ちに労働者を追放したり、 こんどのような状況のときには精神異常と決め付けたほうが早期解決になると考えているから、 そのことだけに捉われていたのだ。
とくに精神異常者は、 農場から速やかに排除しなければ、 ほかの労働者に不安材料を与える要因になるし、 支配人自身の立場を脅かす原因になるから、 事情聴取などという無駄な時間を惜しんだ。
イタリア人やドイツ人労働者は、 リーダーを立てて交渉に当たることに慣れていたが、 日本人はまだそういう労働争議の解決方法を採らず、 個人的な問題として、 夜逃げをしたり、 ペニス増大 契約違反の罰金を支払って出てゆくものが多かった。
その点で、 熊野のように、 幼児のときに来て、 二世と同じようにブラジルの習慣を身につけているものは、 上下関係を意識しすぎる日本人にはできないことだが、 ガイジンとの話し合いにおいて、 雇用主と使用人とが対等な立場に立って物が言えた。
龍一の提案を支配人に伝え、 苦々しい顔をする支配人に構わず、 滋養強壮 熊野は、 荷台の底に惨めな恰好でくず折れている茂を助け起こし、
「ほれ小森しゃん、 しっかりせんね、 あんたどぎゃんしてこういうことになったんか、 説明ばしてやらんね」
と、 やさしい声をかける。
「どぎゃんして、 言われて、 わてにもさっぱりわからしまへん、 どこでどう間違うたんやら。そやけど、 あんまりひどおまっせ、 なんでわてを寄ってたかってぎゅうぎゅう押さえつけて苛めなあきまへんのんだっしゃろ」
「あんた、 気違いにされとるばってん、 暴れんように押さえつけとるたい」
「なんでわてが気違いにされなあきまへんのんだす」
「それを訊いとるばい、 なんで気違いにされたんたいね」
「そやさかい、 わても訊いてますねんがな、 なんでわてが気違いにされなあきまへんのかて」
「あんたらええ加減にしなはらんかいな、 ふたりがなんでや、 なんでや訊き合いしとっていつになったら埒あきまんのや、 あほらしい」
茂と熊野のどちらもが、 なぜこういうことになったのかと、 訊ね合ってる、 ばからしい問答に痺れを切らして、 タツが非難する。
「監督が腰を抜かして起き上がれないようになった原因はなになんです」
龍一が、 ひとつの事例を出して、 説明する糸口を与える。
2011年11月23日星期三
不感症 茂男にしてはどちらかというと白すぎた膚も
変な家庭環境をつくって、 人との交際もまともにしない家族構成のなかにいても、 それだけでは人間生きてゆくのにあまりにも淋しすぎるのだろう。なんとか外部との接触をつくりたいし、 同性の友人も欲しいのにちがいない。
そういう同情は持ったけれど、 どうしても須磨子と親しくする気にはなれなかった。ぜったいこんな人とは交際したくないというほどの嫌悪感からではなく、 なんとなく好きになれないという程度の嗜好範囲のことだったが、 それは彼女があまりにも熱心なキリスト教信者だと思う違和感が心の底にあるからだろう。彼女のものの考え方や生き方に、 人に影響を与えたがる、 思い上がった独善性があるのが、 こちらの心の琴線に触れるから反撥してしまうのだ、 と惟う。
「ブラジル語は、 鷹彦さんが教えてくれることになってますから」
柳子が意識して冷淡に振る舞ったのは、 これ以上なんだかだと接近を図ってこられてはいやだと思ったからだった。
「あら、 そうだったの。あの人もスペイン語を勉強してきているのね」
「こちらの新聞が読めるらしいですよ」
「そう、 じゃあ」
須磨子が少しは表情をずらせたけれど、 案外うるさく言わないで、 すたすたと教会への坂道を上っていったから、 柳子はほっとするとともに、 なにかしら彼女の心の底にわだかまっているものが視えるような気がして、 気味悪かった。
須磨子は、 まるで何かに向かって挑戦するかのように、 まっすぐ背を立てて、 一歩一歩ぐいぐいと押し出すような歩き方をする。それが見ているものに畏敬の念を起こさせる。
須磨子が向かって行く方角に、 高台に建っている教会の塔の、 三角錐の屋根の上にある十字架が、 ここからも視えるのだけれど、 視る日によって、 その十字架が白く光ったり金色に輝いたり、 ちがって視えるのは、 その日の天気と視たときの太陽の位置によるのだろう。
いまは白金に光っていて、 じっと視ておれない威圧感を感じさせる。その居丈高な十字架の様子に反撥を覚えたとき、 ああそうか、 キリスト教会が、 須磨子にあんな態度を取らせていたのだ、 と柳子は気づく。
そして、 あの傲慢さに挫けない姿勢をこちらも持ちつづけなければならないと思う。
「若いうちだけだ。相手を恐れず率直にものが言えるのは。歳取ると自分自身を欺いても人と迎合して生きて行かなければならなくなるんだから」
こういうことを言う父を、 柳子はもののわかった人だと思う。ただ、 のうのうと女遊びをしていただけではないのだろう。そういう自堕落だった生活のなかで、 人間関係の機微に触れることもあったのだろう。
まだ十字架は眩い光を放っていたが、 十字架の先端を燃え立たせている太陽の位置がずれてゆくのを、 柳子は意地になって待ちつづける。じっと視線を固定させていると、 太陽のほうが根負けして折れ曲がり、 ゆるゆると揺れながら逃げてゆくから、 勝ち誇った気分になれる。
須磨子がこんなことを知ったら、 「あなたはなんという強情な子なんだろう」と言うだろう、 と思っておかしくなる。
柳子は、 鷹彦とはちがって、 人との交際を煩わしいと思ったことはなかった。須磨子のように、 相手の気持ちを考慮せず、 自己主張ばかりする人は、 こちらの言いたいことを聴いてくれる心の広さがないから、 つまらないと思うから嫌なのだ。
だから、 須磨子の偏った個性に影響されるよりは、 鷹彦の知性に触れていたほうがいいと思う。
そのほかに、 時間のあるかぎりこの農場のなかを散策しているほうが、 いままで知らなかったいろいろなことを知って、 ブラジルにきたことの意味をみつけられる、 と思う。
まだまだ目新しいことが、 その辺りにいっぱいあるのだから。
お母さんが胆を潰すような、 淫猥なことも多いけれど、 と柳子はくすんと笑って、 広大な風景のなかへ溶解して行くときの恍惚感に浸る。
日曜日も祭日もお構いなしに働く日本人たちは、 でき得るかぎり人生を楽しんで生きようとするブラジル人気質には、 特異な人種に見えるらしいが、 自給用の畑を耕し、 種を播き、 野菜を作って、 食生活を豊かにするという意味が、 彼らにも徐々に理解されてきて、 働き蜂とキリギリスのイソップ物語を思い出したのだろうか、 北伯からの内国移民の労働者のなかにも、 避妊薬 日本人を真似て、 余暇に土を耕し、 種を播くものがではじめる。
彼らはキアボといい、 媚薬女性用精力剤 日本人はオクラと呼称するものの種を播くものが多かった。
もうブラジル第一回移民の笠戸丸からおおかた三十年のあいだに、 日本人が農業の神様だという称賛の声はブラジルじゅうに広がっていて、 ここのブラジル人たちも知っていた。
新しくこの農場に入ってきた日本人移民の働きぶりも例外ではなかった。
川田と竜野と中村は、 日本で使っていた鍬や鋤をそのまま持ってきていたし、 内藤も主に養蚕をしていたといっても代々農家で、 チヨなどは家事のほかに、 野菜畑もつくっていたのだから、 性欲欠乏症 小森以外のものは、 みなお手のものなのだ。
いや、 まったくの都市生活者で、 鍬を手にしたことがなかったという小森も、 そう遠くない先祖は河内の百姓だったのだから、 日本人本来の農耕民族の血は受け継いでいる。
その血が伝統的な農作業について、 本家帰りをしたのにちがいなかった。身体的に労働に慣れ、 精神的な動揺もどうやら落ち着いてくると、 地にしっかり足がつき、 腰を据える様子が彼らにも見えてくる。
それはあながち諦めだけではなく、 なんとしてでも頑張ってやらなければ、 たとえ金を残せなくても、 食生活を維持して行けないのだからという必死さが、 意気込みになって、 筋肉に顕われてきているふうだった。
十一月には「ビッコ・ド・バット」といって、 コーヒー樹の畦間に二十五センチほどの深さの切り込みを縦横に通す作業があった。
そうすることによって旧根が切断され、 そこから新しい根が発生して旺盛な地下水の吸収作用を起こすから、 コーヒー樹の葉が一段と濃いみどりになるのだ、 と植物の生態に詳しくないものも、 教えられて納得する。
「まあ、 同じことですね、 盆栽なぞと」
龍一は、 放逸な生活をしているのに、 若いときから盆栽をいじる趣味があって、 親を苦笑させていたから、 コーヒー樹の根切りから連想したのだろう。
十二月に入ると、 その効果が顕われて、 いっそう葉のみどりが目に沁みるようになっていた。
そして、 ぼつぼつ雨季に入って、 まだ小さかったコーヒーの実が、 日毎に膨らんできているのがわかるほどだった。
自然現象の芽吹きや結実は人体にも影響してくるのにちがいなく、 娘たちのこころの華やぎを誘って、 徐々に調子づいてきている作業のなかに、 彼女らの笑い声が弾けたりする。
龍一の黒い口髭が、 それほど目立たなくなるほどに顏が日焼けしてきていたし、 不感症 茂の、 男にしてはどちらかというと白すぎた膚も、 火傷して爛れたように赤褐色になっていた。
「まあまあ、 柳ちゃんもこんがりとケツネ色に焼けはって」
タツからそう言われた柳子が、 タツの言う「ケツネ色」が何色なのかわからなくて、 狐につままれたように怪訝な表情をする。
「お父ちゃ、 ケツネ色ってどんな色なのぉ」
龍一もいっしゅん考えてから、
「ああ、 パンがちょうどいい色に焼けたときの色だろ」
と教える。
「なんだぁ、 狐色のことじゃないのぉ」
柳子が騙されたような気がして言うと、
「おんなじことだすがな」
とタツは、 自身の発音の訛りには気がつかない。
そういうタツの声から、 ついこのあいだまでの刺々しさがなくなっているのに、 チヨは気づいた。
いつも苛々していて、 なにごとにつけても夫に楯突き、 自分一人が女王のように振る舞っていた尖った声の、 角が落ちているばかりではなく、 狐顔の目尻の釣り上がったきつい感じの美人だったのが、 陽に灼けた顔色がそのきつさを和らげてもいた。
「秋子も夏子も、 羽二重餅みたいな肌しとったのに台無しやな」
声に、 台無しという悲哀感は篭もっていなくて、 むしろそれを悦んでいるような、 楽しそうな声に聴こえた。
柳子が観る感じでは、 秋子や夏子の陽灼けした顏は、 台無しというよりも、 ちょうどいい具合に輪郭がついてきたように思える。
むしろそういうタツのほうが、 気の毒なほど陽灼けがつよくて、 せっかくの妖艶さが翳ってしまっている。
太陽は、 美人でも不美人でも、 肥っていても痩せていても、 平等に灼きつけてくる。
それなのに、 人は同等に灼け焦げない。それぞれの肌の色素がちがうからか、 竜野や中村の家族は一様に、 すぐに黒人に近い色になったけれど、 川田の家族はそれほど陽に灼けた感じがなく、 鷹彦などは青白いままのように見えた。まあ強いて言えば、 鼻の頭が赤くなった程度だろうか。
内藤の家族は狐色で、 小森の家族が火傷色という灼け方だった。
いよいよブラジルの夏がまっ盛りになってきて、 大地にあるもののすべてを灼き尽くそうと、 ありったけの太陽熱で焙りつづける。
灼かれた大地は、 その熱を最大限に利用して、 照り返し、 太陽に協力して、 物皆すべてを天火のなかに放りこみ、 消滅させるべく努力する。
それでもまだタツや秋子や夏子の美貌は、 陽灼けなりにその美形を保っていて、 相対的な芸術的均整を崩すことはなかった。
ここの農場の貧しい労働者の女たちのなかにも、 ミケランジェロやダ・ヴィンチが彫刻したように、 見事な姿態を露わにしている。白人女の豊満な乳房。黒人女の隆起した臀部などは、 日本人の男を、 どぎまぎさせ、 油を塗ったような黒人男の筋肉の盛り上がりには、 女たちが魅せられて、 視線の遣り場に困る。
そんな日本人の眼にやさしいのは、 しっくりした美を保っている小森の女たちの、 大和絵の伝統的な美形だった。
子供の時に移民してきて、 そんな日本の伝統を知らなくても、 血にそれを持っているからだろう、 熊野は、 小森の女たちに目移りがして、 足繁く彼女らが働く畑に通ってくる。
ガイジンの女に食傷していて、 秋子らに新鮮な食欲をそそられるからだろうが。黒くなったといっても、 黒人の女たちと比べると、 まだまだ透明な釉薬をかけた有田焼を想わせる秋子らの肌が、 いっそう魅力的だったからに違いなかった。
「まあなんぼ黒うなっても、 アフリカから出稼ぎにきてはる黒い人らよりは、 すこしはましだすがな」
茂が冗談のように言ったことばのどこが気に刺さったのか、 虫の居所が悪かったのだろうか、 いつもはおとなしい秋子が変に引っ掛かって、 本気になって言う。
そういう同情は持ったけれど、 どうしても須磨子と親しくする気にはなれなかった。ぜったいこんな人とは交際したくないというほどの嫌悪感からではなく、 なんとなく好きになれないという程度の嗜好範囲のことだったが、 それは彼女があまりにも熱心なキリスト教信者だと思う違和感が心の底にあるからだろう。彼女のものの考え方や生き方に、 人に影響を与えたがる、 思い上がった独善性があるのが、 こちらの心の琴線に触れるから反撥してしまうのだ、 と惟う。
「ブラジル語は、 鷹彦さんが教えてくれることになってますから」
柳子が意識して冷淡に振る舞ったのは、 これ以上なんだかだと接近を図ってこられてはいやだと思ったからだった。
「あら、 そうだったの。あの人もスペイン語を勉強してきているのね」
「こちらの新聞が読めるらしいですよ」
「そう、 じゃあ」
須磨子が少しは表情をずらせたけれど、 案外うるさく言わないで、 すたすたと教会への坂道を上っていったから、 柳子はほっとするとともに、 なにかしら彼女の心の底にわだかまっているものが視えるような気がして、 気味悪かった。
須磨子は、 まるで何かに向かって挑戦するかのように、 まっすぐ背を立てて、 一歩一歩ぐいぐいと押し出すような歩き方をする。それが見ているものに畏敬の念を起こさせる。
須磨子が向かって行く方角に、 高台に建っている教会の塔の、 三角錐の屋根の上にある十字架が、 ここからも視えるのだけれど、 視る日によって、 その十字架が白く光ったり金色に輝いたり、 ちがって視えるのは、 その日の天気と視たときの太陽の位置によるのだろう。
いまは白金に光っていて、 じっと視ておれない威圧感を感じさせる。その居丈高な十字架の様子に反撥を覚えたとき、 ああそうか、 キリスト教会が、 須磨子にあんな態度を取らせていたのだ、 と柳子は気づく。
そして、 あの傲慢さに挫けない姿勢をこちらも持ちつづけなければならないと思う。
「若いうちだけだ。相手を恐れず率直にものが言えるのは。歳取ると自分自身を欺いても人と迎合して生きて行かなければならなくなるんだから」
こういうことを言う父を、 柳子はもののわかった人だと思う。ただ、 のうのうと女遊びをしていただけではないのだろう。そういう自堕落だった生活のなかで、 人間関係の機微に触れることもあったのだろう。
まだ十字架は眩い光を放っていたが、 十字架の先端を燃え立たせている太陽の位置がずれてゆくのを、 柳子は意地になって待ちつづける。じっと視線を固定させていると、 太陽のほうが根負けして折れ曲がり、 ゆるゆると揺れながら逃げてゆくから、 勝ち誇った気分になれる。
須磨子がこんなことを知ったら、 「あなたはなんという強情な子なんだろう」と言うだろう、 と思っておかしくなる。
柳子は、 鷹彦とはちがって、 人との交際を煩わしいと思ったことはなかった。須磨子のように、 相手の気持ちを考慮せず、 自己主張ばかりする人は、 こちらの言いたいことを聴いてくれる心の広さがないから、 つまらないと思うから嫌なのだ。
だから、 須磨子の偏った個性に影響されるよりは、 鷹彦の知性に触れていたほうがいいと思う。
そのほかに、 時間のあるかぎりこの農場のなかを散策しているほうが、 いままで知らなかったいろいろなことを知って、 ブラジルにきたことの意味をみつけられる、 と思う。
まだまだ目新しいことが、 その辺りにいっぱいあるのだから。
お母さんが胆を潰すような、 淫猥なことも多いけれど、 と柳子はくすんと笑って、 広大な風景のなかへ溶解して行くときの恍惚感に浸る。
日曜日も祭日もお構いなしに働く日本人たちは、 でき得るかぎり人生を楽しんで生きようとするブラジル人気質には、 特異な人種に見えるらしいが、 自給用の畑を耕し、 種を播き、 野菜を作って、 食生活を豊かにするという意味が、 彼らにも徐々に理解されてきて、 働き蜂とキリギリスのイソップ物語を思い出したのだろうか、 北伯からの内国移民の労働者のなかにも、 避妊薬 日本人を真似て、 余暇に土を耕し、 種を播くものがではじめる。
彼らはキアボといい、 媚薬女性用精力剤 日本人はオクラと呼称するものの種を播くものが多かった。
もうブラジル第一回移民の笠戸丸からおおかた三十年のあいだに、 日本人が農業の神様だという称賛の声はブラジルじゅうに広がっていて、 ここのブラジル人たちも知っていた。
新しくこの農場に入ってきた日本人移民の働きぶりも例外ではなかった。
川田と竜野と中村は、 日本で使っていた鍬や鋤をそのまま持ってきていたし、 内藤も主に養蚕をしていたといっても代々農家で、 チヨなどは家事のほかに、 野菜畑もつくっていたのだから、 性欲欠乏症 小森以外のものは、 みなお手のものなのだ。
いや、 まったくの都市生活者で、 鍬を手にしたことがなかったという小森も、 そう遠くない先祖は河内の百姓だったのだから、 日本人本来の農耕民族の血は受け継いでいる。
その血が伝統的な農作業について、 本家帰りをしたのにちがいなかった。身体的に労働に慣れ、 精神的な動揺もどうやら落ち着いてくると、 地にしっかり足がつき、 腰を据える様子が彼らにも見えてくる。
それはあながち諦めだけではなく、 なんとしてでも頑張ってやらなければ、 たとえ金を残せなくても、 食生活を維持して行けないのだからという必死さが、 意気込みになって、 筋肉に顕われてきているふうだった。
十一月には「ビッコ・ド・バット」といって、 コーヒー樹の畦間に二十五センチほどの深さの切り込みを縦横に通す作業があった。
そうすることによって旧根が切断され、 そこから新しい根が発生して旺盛な地下水の吸収作用を起こすから、 コーヒー樹の葉が一段と濃いみどりになるのだ、 と植物の生態に詳しくないものも、 教えられて納得する。
「まあ、 同じことですね、 盆栽なぞと」
龍一は、 放逸な生活をしているのに、 若いときから盆栽をいじる趣味があって、 親を苦笑させていたから、 コーヒー樹の根切りから連想したのだろう。
十二月に入ると、 その効果が顕われて、 いっそう葉のみどりが目に沁みるようになっていた。
そして、 ぼつぼつ雨季に入って、 まだ小さかったコーヒーの実が、 日毎に膨らんできているのがわかるほどだった。
自然現象の芽吹きや結実は人体にも影響してくるのにちがいなく、 娘たちのこころの華やぎを誘って、 徐々に調子づいてきている作業のなかに、 彼女らの笑い声が弾けたりする。
龍一の黒い口髭が、 それほど目立たなくなるほどに顏が日焼けしてきていたし、 不感症 茂の、 男にしてはどちらかというと白すぎた膚も、 火傷して爛れたように赤褐色になっていた。
「まあまあ、 柳ちゃんもこんがりとケツネ色に焼けはって」
タツからそう言われた柳子が、 タツの言う「ケツネ色」が何色なのかわからなくて、 狐につままれたように怪訝な表情をする。
「お父ちゃ、 ケツネ色ってどんな色なのぉ」
龍一もいっしゅん考えてから、
「ああ、 パンがちょうどいい色に焼けたときの色だろ」
と教える。
「なんだぁ、 狐色のことじゃないのぉ」
柳子が騙されたような気がして言うと、
「おんなじことだすがな」
とタツは、 自身の発音の訛りには気がつかない。
そういうタツの声から、 ついこのあいだまでの刺々しさがなくなっているのに、 チヨは気づいた。
いつも苛々していて、 なにごとにつけても夫に楯突き、 自分一人が女王のように振る舞っていた尖った声の、 角が落ちているばかりではなく、 狐顔の目尻の釣り上がったきつい感じの美人だったのが、 陽に灼けた顔色がそのきつさを和らげてもいた。
「秋子も夏子も、 羽二重餅みたいな肌しとったのに台無しやな」
声に、 台無しという悲哀感は篭もっていなくて、 むしろそれを悦んでいるような、 楽しそうな声に聴こえた。
柳子が観る感じでは、 秋子や夏子の陽灼けした顏は、 台無しというよりも、 ちょうどいい具合に輪郭がついてきたように思える。
むしろそういうタツのほうが、 気の毒なほど陽灼けがつよくて、 せっかくの妖艶さが翳ってしまっている。
太陽は、 美人でも不美人でも、 肥っていても痩せていても、 平等に灼きつけてくる。
それなのに、 人は同等に灼け焦げない。それぞれの肌の色素がちがうからか、 竜野や中村の家族は一様に、 すぐに黒人に近い色になったけれど、 川田の家族はそれほど陽に灼けた感じがなく、 鷹彦などは青白いままのように見えた。まあ強いて言えば、 鼻の頭が赤くなった程度だろうか。
内藤の家族は狐色で、 小森の家族が火傷色という灼け方だった。
いよいよブラジルの夏がまっ盛りになってきて、 大地にあるもののすべてを灼き尽くそうと、 ありったけの太陽熱で焙りつづける。
灼かれた大地は、 その熱を最大限に利用して、 照り返し、 太陽に協力して、 物皆すべてを天火のなかに放りこみ、 消滅させるべく努力する。
それでもまだタツや秋子や夏子の美貌は、 陽灼けなりにその美形を保っていて、 相対的な芸術的均整を崩すことはなかった。
ここの農場の貧しい労働者の女たちのなかにも、 ミケランジェロやダ・ヴィンチが彫刻したように、 見事な姿態を露わにしている。白人女の豊満な乳房。黒人女の隆起した臀部などは、 日本人の男を、 どぎまぎさせ、 油を塗ったような黒人男の筋肉の盛り上がりには、 女たちが魅せられて、 視線の遣り場に困る。
そんな日本人の眼にやさしいのは、 しっくりした美を保っている小森の女たちの、 大和絵の伝統的な美形だった。
子供の時に移民してきて、 そんな日本の伝統を知らなくても、 血にそれを持っているからだろう、 熊野は、 小森の女たちに目移りがして、 足繁く彼女らが働く畑に通ってくる。
ガイジンの女に食傷していて、 秋子らに新鮮な食欲をそそられるからだろうが。黒くなったといっても、 黒人の女たちと比べると、 まだまだ透明な釉薬をかけた有田焼を想わせる秋子らの肌が、 いっそう魅力的だったからに違いなかった。
「まあなんぼ黒うなっても、 アフリカから出稼ぎにきてはる黒い人らよりは、 すこしはましだすがな」
茂が冗談のように言ったことばのどこが気に刺さったのか、 虫の居所が悪かったのだろうか、 いつもはおとなしい秋子が変に引っ掛かって、 本気になって言う。
避妊薬 とぼけているのかわからなかった
「わたしは何も悪いことなぞした覚えはないわ。わたしが生まれたときから罪を背負っているということは、 わたしの両親が悪人だということになるようですけど」
と強い口調で言い返す。
「そういう意味ではありません。人間はみな罪深いものなのです。原罪を背負っているのです。だから常に悩み多く苦しみ悶えて生きているから神に救いを求めるのです」
「わたしは悪いことなぞしませんし、 生活を楽しんでいますし、 神さんなんかなくても生きられます」
「それを傲慢というのです。思い上りです。あなたはまだほんとうの苦しみを知らないからそういうことを言うのです。いまに神を求めるような苦難に遭遇するでしょう。そのときになってからでは遅いのです。いまから信仰を深めて地獄に落ちる」と言ったところで、 須磨子はすばやく胸に十字を切ってから、 あとをつづける。「ようなことにならないように祈りつづけなければなりません」
たしかにこの人は幸せな人にちがいないだろう。祈ることで救われると思っているのだから。
ああ、 そうだ、 長野のお祖母さんが同じようなことを言ってたなあ、 と憶い出す。
「念仏を唱えておると、 どんな苦痛もやすまるでなあ」と。
須磨子の言っていることも、 お祖母さんが言ってたように単純だし、 それを単純に信じられる人たちも幸せな人たちなのはわかるけれど、 柳子にはまだ苦痛の実態がわからないのだから、 どうしても抽象的に聴こえる。
「この世の中が善人ばかりになってしまうと退屈するんじゃありませんかぁ。悪人ばかりが右往左往しているからおもしろいんだと思いますけど」
そのときふと、 皮肉に言った良三叔父のことばが脳裡に浮かんだから、 柳子はそのまま口移しにして言う。
そして言ったあとで気がつく。ああ、 そうだ。この人自身が大きな罪の意識を背負っているから神に許しを乞わなければならないのだ、 と。
「須磨子さんはご自分が罪深いことをなさってるから、 クリスチャンになられたんじゃないですかぁ」
柳子は、 須磨子の痛いところを抉ったつもりだったが、
「そうですわ。わたしは罪深い女ですから、 神に許しを乞わなければならないのです」
とあっさり彼女が認めたから、 拍子抜けしてしまう。
「そこがわたしにはわからないんですけど、 罪を犯して神に助けを求めるより、 罪を犯さないようになさったらいいと思うんですけどねぇ」
「人間は弱いものですから、 罪だとわかっていても犯してしまうのです」
「そうでしょうねぇ、 射精障害 弱いんでしょうねぇ。わたしには須磨子さんがそんなに弱い人には視えないんですけど。わたしは祈るよりも格闘します。自分の弱さや醜さと戦ってゆくほうが生活に充実感があると思うんです」
「そういう考えも傲慢なのですよ。そう思って生きられる人は幸せです。いや、 不幸ですよ」
「どちらなんですかぁ」
「どちらもです。無知の幸せと知り得たものの不幸です」
「わたしのお父さんも同じこと言ってます。クリスチャンじゃないですけど。知らぬが仏だって」
「仏と神とはちがいます。神はこの世にただお一人だけです。ほかの信仰は邪教です」
それまで黙って聴いていた龍一が、 避妊 むっとする。周章ててチヨが止めようとしたけれど遅かった。
「儂らは先祖代々、 定額山善光寺の信者ですから、 宗旨替えはしません。あそこは宗派を超越した心の広いお寺です。キリストのような自分だけが神だなんぞというほうが、 よほど傲慢で独善でしょう。柳子にもそういう心の狭い宗教は信仰させませんので、 どうぞお引き取りください」
ぴしっと龍一に言われて、 須磨子はいっしゅん顏を青くさせたが、
「ご不幸なご家庭です」
と捨て台詞を吐いて背を向けたから、
「あんたらの家庭ほどじゃない。人のことを言うより自分の家庭をまともにしなされ」
と龍一はことばを浴びせた。
「お父ちゃ、 そんねん向きになって言わなくてもいいずらに」
チヨが、 後ろから夫を引っ張る。
「変な人ねぇ」
須磨子がまだ梯子段を下り切らないうちに柳子が言ったから、 彼女の耳に届いたかもしれなかった。
「ふん、 人の家庭に不愉快を撒きにきやがって、 なにがご不幸か。ご不幸はそっちのことじゃ。夫婦がいっしょに寝ていない家庭のほうがよっぽど不幸じゃないか」
龍一は憤懣やる方なく、 独り言のようにぶつぶつ言いつづけていた。
「お父ちゃ、 いま言ったことほんとうなのぉ」
柳子が、 性欲欠乏 父の言葉尻を捉えて訊ねる。
「いま言ったことってなんだ。儂がなに言った」
龍一は自身がなにを言ったのかも覚えていなった。
「夫婦がいっしょに寝ていないって言ったじゃないのぉ」
「そんなこと言ったか」
ほんとうに覚えていないのか、 避妊薬 とぼけているのかわからなかった。
「言ったわよぉ」
「そうか、 じゃあ聴かなかったことにしろ」
「どうして聴かなかったことにするのよぉ」
「人の無責任な噂だからだ」
「まあ、 お父ちゃって勝手ねぇ、 自分が言っておいて、 わたしに聴かなかったことにしろだなんて」
「みんな自分の都合のいいように生きとるんだ」
「呆れたぁ。でも、 そういえば、 キリスト教も自分の都合のいいように捏ち上げたものだって、 良三叔父さんが言ってた」
柳子が良三の名を不用意に口にしたから、 龍一が、 ちょっと顔色を動かせたが、 なにも言わなかった。
と強い口調で言い返す。
「そういう意味ではありません。人間はみな罪深いものなのです。原罪を背負っているのです。だから常に悩み多く苦しみ悶えて生きているから神に救いを求めるのです」
「わたしは悪いことなぞしませんし、 生活を楽しんでいますし、 神さんなんかなくても生きられます」
「それを傲慢というのです。思い上りです。あなたはまだほんとうの苦しみを知らないからそういうことを言うのです。いまに神を求めるような苦難に遭遇するでしょう。そのときになってからでは遅いのです。いまから信仰を深めて地獄に落ちる」と言ったところで、 須磨子はすばやく胸に十字を切ってから、 あとをつづける。「ようなことにならないように祈りつづけなければなりません」
たしかにこの人は幸せな人にちがいないだろう。祈ることで救われると思っているのだから。
ああ、 そうだ、 長野のお祖母さんが同じようなことを言ってたなあ、 と憶い出す。
「念仏を唱えておると、 どんな苦痛もやすまるでなあ」と。
須磨子の言っていることも、 お祖母さんが言ってたように単純だし、 それを単純に信じられる人たちも幸せな人たちなのはわかるけれど、 柳子にはまだ苦痛の実態がわからないのだから、 どうしても抽象的に聴こえる。
「この世の中が善人ばかりになってしまうと退屈するんじゃありませんかぁ。悪人ばかりが右往左往しているからおもしろいんだと思いますけど」
そのときふと、 皮肉に言った良三叔父のことばが脳裡に浮かんだから、 柳子はそのまま口移しにして言う。
そして言ったあとで気がつく。ああ、 そうだ。この人自身が大きな罪の意識を背負っているから神に許しを乞わなければならないのだ、 と。
「須磨子さんはご自分が罪深いことをなさってるから、 クリスチャンになられたんじゃないですかぁ」
柳子は、 須磨子の痛いところを抉ったつもりだったが、
「そうですわ。わたしは罪深い女ですから、 神に許しを乞わなければならないのです」
とあっさり彼女が認めたから、 拍子抜けしてしまう。
「そこがわたしにはわからないんですけど、 罪を犯して神に助けを求めるより、 罪を犯さないようになさったらいいと思うんですけどねぇ」
「人間は弱いものですから、 罪だとわかっていても犯してしまうのです」
「そうでしょうねぇ、 射精障害 弱いんでしょうねぇ。わたしには須磨子さんがそんなに弱い人には視えないんですけど。わたしは祈るよりも格闘します。自分の弱さや醜さと戦ってゆくほうが生活に充実感があると思うんです」
「そういう考えも傲慢なのですよ。そう思って生きられる人は幸せです。いや、 不幸ですよ」
「どちらなんですかぁ」
「どちらもです。無知の幸せと知り得たものの不幸です」
「わたしのお父さんも同じこと言ってます。クリスチャンじゃないですけど。知らぬが仏だって」
「仏と神とはちがいます。神はこの世にただお一人だけです。ほかの信仰は邪教です」
それまで黙って聴いていた龍一が、 避妊 むっとする。周章ててチヨが止めようとしたけれど遅かった。
「儂らは先祖代々、 定額山善光寺の信者ですから、 宗旨替えはしません。あそこは宗派を超越した心の広いお寺です。キリストのような自分だけが神だなんぞというほうが、 よほど傲慢で独善でしょう。柳子にもそういう心の狭い宗教は信仰させませんので、 どうぞお引き取りください」
ぴしっと龍一に言われて、 須磨子はいっしゅん顏を青くさせたが、
「ご不幸なご家庭です」
と捨て台詞を吐いて背を向けたから、
「あんたらの家庭ほどじゃない。人のことを言うより自分の家庭をまともにしなされ」
と龍一はことばを浴びせた。
「お父ちゃ、 そんねん向きになって言わなくてもいいずらに」
チヨが、 後ろから夫を引っ張る。
「変な人ねぇ」
須磨子がまだ梯子段を下り切らないうちに柳子が言ったから、 彼女の耳に届いたかもしれなかった。
「ふん、 人の家庭に不愉快を撒きにきやがって、 なにがご不幸か。ご不幸はそっちのことじゃ。夫婦がいっしょに寝ていない家庭のほうがよっぽど不幸じゃないか」
龍一は憤懣やる方なく、 独り言のようにぶつぶつ言いつづけていた。
「お父ちゃ、 いま言ったことほんとうなのぉ」
柳子が、 性欲欠乏 父の言葉尻を捉えて訊ねる。
「いま言ったことってなんだ。儂がなに言った」
龍一は自身がなにを言ったのかも覚えていなった。
「夫婦がいっしょに寝ていないって言ったじゃないのぉ」
「そんなこと言ったか」
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「言ったわよぉ」
「そうか、 じゃあ聴かなかったことにしろ」
「どうして聴かなかったことにするのよぉ」
「人の無責任な噂だからだ」
「まあ、 お父ちゃって勝手ねぇ、 自分が言っておいて、 わたしに聴かなかったことにしろだなんて」
「みんな自分の都合のいいように生きとるんだ」
「呆れたぁ。でも、 そういえば、 キリスト教も自分の都合のいいように捏ち上げたものだって、 良三叔父さんが言ってた」
柳子が良三の名を不用意に口にしたから、 龍一が、 ちょっと顔色を動かせたが、 なにも言わなかった。
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