「わたしは何も悪いことなぞした覚えはないわ。わたしが生まれたときから罪を背負っているということは、 わたしの両親が悪人だということになるようですけど」
と強い口調で言い返す。
「そういう意味ではありません。人間はみな罪深いものなのです。原罪を背負っているのです。だから常に悩み多く苦しみ悶えて生きているから神に救いを求めるのです」
「わたしは悪いことなぞしませんし、 生活を楽しんでいますし、 神さんなんかなくても生きられます」
「それを傲慢というのです。思い上りです。あなたはまだほんとうの苦しみを知らないからそういうことを言うのです。いまに神を求めるような苦難に遭遇するでしょう。そのときになってからでは遅いのです。いまから信仰を深めて地獄に落ちる」と言ったところで、 須磨子はすばやく胸に十字を切ってから、 あとをつづける。「ようなことにならないように祈りつづけなければなりません」
たしかにこの人は幸せな人にちがいないだろう。祈ることで救われると思っているのだから。
ああ、 そうだ、 長野のお祖母さんが同じようなことを言ってたなあ、 と憶い出す。
「念仏を唱えておると、 どんな苦痛もやすまるでなあ」と。
須磨子の言っていることも、 お祖母さんが言ってたように単純だし、 それを単純に信じられる人たちも幸せな人たちなのはわかるけれど、 柳子にはまだ苦痛の実態がわからないのだから、 どうしても抽象的に聴こえる。
「この世の中が善人ばかりになってしまうと退屈するんじゃありませんかぁ。悪人ばかりが右往左往しているからおもしろいんだと思いますけど」
そのときふと、 皮肉に言った良三叔父のことばが脳裡に浮かんだから、 柳子はそのまま口移しにして言う。
そして言ったあとで気がつく。ああ、 そうだ。この人自身が大きな罪の意識を背負っているから神に許しを乞わなければならないのだ、 と。
「須磨子さんはご自分が罪深いことをなさってるから、 クリスチャンになられたんじゃないですかぁ」
柳子は、 須磨子の痛いところを抉ったつもりだったが、
「そうですわ。わたしは罪深い女ですから、 神に許しを乞わなければならないのです」
とあっさり彼女が認めたから、 拍子抜けしてしまう。
「そこがわたしにはわからないんですけど、 罪を犯して神に助けを求めるより、 罪を犯さないようになさったらいいと思うんですけどねぇ」
「人間は弱いものですから、 罪だとわかっていても犯してしまうのです」
「そうでしょうねぇ、 射精障害 弱いんでしょうねぇ。わたしには須磨子さんがそんなに弱い人には視えないんですけど。わたしは祈るよりも格闘します。自分の弱さや醜さと戦ってゆくほうが生活に充実感があると思うんです」
「そういう考えも傲慢なのですよ。そう思って生きられる人は幸せです。いや、 不幸ですよ」
「どちらなんですかぁ」
「どちらもです。無知の幸せと知り得たものの不幸です」
「わたしのお父さんも同じこと言ってます。クリスチャンじゃないですけど。知らぬが仏だって」
「仏と神とはちがいます。神はこの世にただお一人だけです。ほかの信仰は邪教です」
それまで黙って聴いていた龍一が、 避妊 むっとする。周章ててチヨが止めようとしたけれど遅かった。
「儂らは先祖代々、 定額山善光寺の信者ですから、 宗旨替えはしません。あそこは宗派を超越した心の広いお寺です。キリストのような自分だけが神だなんぞというほうが、 よほど傲慢で独善でしょう。柳子にもそういう心の狭い宗教は信仰させませんので、 どうぞお引き取りください」
ぴしっと龍一に言われて、 須磨子はいっしゅん顏を青くさせたが、
「ご不幸なご家庭です」
と捨て台詞を吐いて背を向けたから、
「あんたらの家庭ほどじゃない。人のことを言うより自分の家庭をまともにしなされ」
と龍一はことばを浴びせた。
「お父ちゃ、 そんねん向きになって言わなくてもいいずらに」
チヨが、 後ろから夫を引っ張る。
「変な人ねぇ」
須磨子がまだ梯子段を下り切らないうちに柳子が言ったから、 彼女の耳に届いたかもしれなかった。
「ふん、 人の家庭に不愉快を撒きにきやがって、 なにがご不幸か。ご不幸はそっちのことじゃ。夫婦がいっしょに寝ていない家庭のほうがよっぽど不幸じゃないか」
龍一は憤懣やる方なく、 独り言のようにぶつぶつ言いつづけていた。
「お父ちゃ、 いま言ったことほんとうなのぉ」
柳子が、 性欲欠乏 父の言葉尻を捉えて訊ねる。
「いま言ったことってなんだ。儂がなに言った」
龍一は自身がなにを言ったのかも覚えていなった。
「夫婦がいっしょに寝ていないって言ったじゃないのぉ」
「そんなこと言ったか」
ほんとうに覚えていないのか、 避妊薬 とぼけているのかわからなかった。
「言ったわよぉ」
「そうか、 じゃあ聴かなかったことにしろ」
「どうして聴かなかったことにするのよぉ」
「人の無責任な噂だからだ」
「まあ、 お父ちゃって勝手ねぇ、 自分が言っておいて、 わたしに聴かなかったことにしろだなんて」
「みんな自分の都合のいいように生きとるんだ」
「呆れたぁ。でも、 そういえば、 キリスト教も自分の都合のいいように捏ち上げたものだって、 良三叔父さんが言ってた」
柳子が良三の名を不用意に口にしたから、 龍一が、 ちょっと顔色を動かせたが、 なにも言わなかった。
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