しかし、 タツが、 あんな青白い文学青年と鷹彦を軽蔑したことには腹が立つし、 旺盛な生活力のある男と言う言葉の裏に描いているのが熊野だろうと思われるから、 すごく不潔な感じを受けて、 柳子は胸のなかまで汚され
た思いがする。
タツから青白い文学青年と蔑視されている鷹彦は、 コーヒー畑で作業していても一向に陽に焼けず、 精力剤 ますます青白くなってゆくように思ったのは、 小森茂の気違い騒ぎがあった次の日曜日に、 鷹彦と逢ったときだった。
昼食後すぐだったから、 まだ鷹彦は小屋にいるだろうと思って訪ねると、 じいんと肌に沁み込んでくるような肌寒さを感じる薄暗がりのなかで、 なにをしていたのか、 冴えない顔をして出てきた。
鷹彦は、 慌てたような様子で、
「いつもの川辺りに行こうか」
と誘う。
「病気だったんですかあ、 まだ咳をしておられるようですけど」
「なに、 もういいんだけど。柳ちゃんとは明るい場所で話さなくちゃあ」
鷹彦は、 無理しているような笑い顔をつくって言う。
「陽の当たる場所のほうが躰にもいいと思います」
そんなことは、 わたしが言わなくてもわかっていることだけれど、 こんな薄暗がりのなかに逼塞している鷹彦の心の暗さを思って言わずにはおられなかった。
午前中は、 こんなところで、 文子さんとふたりきりでいるのだ、 と思うと、 日本語とブラジル語を教えているのだとわかっていても、 なんとなく隠微な感じを受けてしまう。それが鷹彦の健康をいっそう害する原因ではないのか、 と。
その文子は自給用の畑に出ていて、 二戸一棟の小屋のなかに人気がないと思うと、 柳子は息苦しさを覚えはじめる。
「なんだか鷹彦さんの躰、 湿気ているみたいですよ」
柳子は冗談にして、 気分の開放を図る。
しかし、 川辺に抜ける雑木林のなかも、 まだ雨が乾ききっていなくて、 ずくずくしていた。地面が水分を含んでいて、 一歩一歩、 足がめり込む。
柳子は今日も革の長靴を履いていたから、 泥濘から足を抜くのに力が要るだけだったが、 ズック靴の鷹彦は靴を脱いで、 裸足になって歩かなければならなかった。
そんな鷹彦が、 ときおり柳子に手をかすために差し伸べる。それがうれしくて、 甘えた気持ちで柳子は、 鷹彦の手を握って、 どきりとする。あまりにも鷹彦の手が冷たかったから。
「ブラジル語のわかる人がいなかったから、 小森のおじさんは危うく気違い病院に入れられそうになったんですよ」
鷹彦が、 熊野のように、 積極的に日本人の面倒を見てやろうという親切心がないことを、 残念に思いながら、 柳子が言うと、
「風邪を引いて寝ていたんだ」
という鷹彦は、 まだ軽い咳をしていた。
「それでですね、 わたし、 鷹彦さんからブラジル語の特訓を受けたいって切実に思ったんです。でも躰の具合がそんなに悪いと無理ですねえ、 午前中は文子さんの家庭教師で疲れるだろうし、 午後またわたしにというのは」
「ブラジル語を教えるぐらいならだいじょうぶだよ。ぼくのは完全なブラジル語じゃないんだけど、 よかったら教えてあげるよ」
「スペイン語とポルトガル語はあまり違わないんでしょ」
「日本人同士でも通じないような、 日本の方言ほどは違わないけど」
「そうですね、 鹿児島弁や沖縄の言葉は、 わたしには外国語ですものねえ」
「こんどの小森さんの一件は、 なんでもないことが、 言葉が通じないばかりにひどいことになるという、 いい例だったよね」
「そうなんです、 あとで大笑いしたんですけど、 いちじはどうなることかと、 みな泣きそうになってたんですよ」
「須磨子さんは」
「中村さんは大きな面積受け持ってるから、 うんと離れたところに居て、 知らなかったらしいですよ」
そんな話がおわらないうちに、 ふたりは小川の縁に出た。
ぱっと開けた視界に、 気持ちまで開けて、 薄暗い小屋のなかから、 鷹彦さんを連れ出してよかったと惟う。
ずっと遠いところの、 人の話し声が聴こえるほどの静けさだった。
遥か彼方で鳴くロバの声が、 世の中の悲しみを一身に背負っているような切なさで聴こえてくる。
川面を吹き渡る風に促され、 柳子は鷹彦のほうを見て、 いつも決まっているように見定めた場所に座る。
いそいそとした気持ちを隠し切れずに足を伸ばしながら、 鷹彦がどのくらいの間隔を置いて座るかなあ、 と意識過剰になっている自分自身がおかしくなる。
意識過剰といえば、 いままで鷹彦の周囲を煩わしていた文子と秋子と須磨子の三人が、 このごろ鷹彦とのあいだの距離を、 少し離したように思う。
秋子は、 このあいだ告白したことで、 完全に熊野のほうに傾いてゆくことがわかったし、 須磨子はいっそう熱心 滋養に教会に通うようになって、 強壮剤 鷹彦を慕う気持ちを、 キリストか、 キリストの下僕である牧師のほうに移したようだし、 日曜日の午前中べったり鷹彦の傍にいた文子も、 近頃は叔父らといっしょに自給用の畑に出て行くようになっていた。その変化に理由があるのかどうか、 と柳子が考えていると、
「ほんとうに好きなのは、 柳ちゃんひとりだよ」
と鷹彦が言ったことばが、 漢方薬 理由かもしれない、 それならそれで、 こちらの態度も変化させなければならないだろう。
柳子は、 鷹彦の過去はどうあれ、 いま言った言葉に嘘はないだろう。
鷹彦の声があまりにもしんみりしていたし、 やさしかったし、 風はさわやかだったし、 小鳥の囀りが涼やかだったから。
鷹彦がときおりする、 遠慮がちな咳払いさえ気にしなければ、 こんな幸せなことはないとしみじみ思った。
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