、 憂鬱そうに、 一瞬笑顔を消してしまったのは、 「夜逃げ」という言葉
の重さを感じたからだろうか。
それにしても、 おじさんと秋子さんの夜逃げの話を、 皆が知っていると
いうほうがおかしい。
「お父ちゃ、 誰が夜逃げするっていうのかしら、 わたしたちの小屋の裏
で、 夜通し見張ってるなんて気分悪いわねえ」
柳子は、 正面から突っかかって行くのを止めて、 搦め手から訊いてみる
。
「別に儂らだけを見張ってるわけじゃないさ、 夜番はあちらこちらにい
るんだから」
「あら、 そうだったのぉ、 あっちこっちで見張ってたの。わたし、 知ら
なかった。いつからなの」
「ずっとさ」
「ずっとって」
「ずっとむかしの、 奴隷時代からだろう」
「なんだあ、 そうかあ、 そういうことだったのか」
柳子の愁眉はとたんに啓く。秋子さんは、 精力剤 二人だけの秘密をばらしたり 滋養
はしなかったのだ。わたしもいっしょに夜逃げしようと相談したことを
、 おじさんも父に報せてはいなかったのだ。父は一般論として言ったま
でだったのだ、 と。
奴隷制時代は、 奴隷の逃亡は財産の損失だから見張っていたのだろうが
、 いまも見張りつづけているのは、 奴隷制の風習の名残からだけではな
かった。
外国からの移民の導入にも、 輸送費や施設費や移殖民協会に納付する分
担金やら、 コーヒー収穫までに、 莫大に消費する生活費を掛売りしてあ
るのだから、 コーヒー収穫までに逃げられると、 農場側の損失は大きい
のだ。
各農場主が納付している移住事業の分担金は、 大半が移住者の福祉のた
めというのが名目だったが、 それはあくまで建前であって、 納付金のほ
とんどは官吏や協会幹部に着服されて、 移住者は建前だけの善意に浴す
るどころか、 損失分を負担させられて、 安い賃金に抑えられ、 食料や生
活必需品に暴利を掛けられてきたのだった。
内国移民のガイジンの逃亡もあったが、 日本人移民は、 ほとんどが出稼
ぎ者だったから、 少しでも条件のいいところを求めて移動するし、 引き
抜きもあって、 案外に夜逃げが頻繁に、 かつ巧妙に行われていた。
そういう事情だけではないだろうが、 どこの農場でも、 カッパンガと呼
ぶ用心棒を雇っていた。彼らカッパンガはならず者だから、 事件の起こ
らないうちは、 火酒を飲み、 博打をし、 女を手込めにしたりして、 プロ
ブレマも起こすのだが、 見張り番として雇わないわけにもいかず、 まさ
しく必要悪というところで、 柳子が、 暗闇に蹲っている獣の気配を直感
的に感じたのも、 あながち間違いではなかった。
しかし、 柳子の好奇心は、 それを上回っていて、 強壮剤 見張り番の実態を見極
めてやろうと思い立つ。
今夜はのんきに夜空を仰いで星の流れを追ったりしないで、 地上で蠢く
見張り番を見詰ていなければならないからと、 柳子はこっそり板囲いの 漢方薬
簡易便所に入り込み、 これを造っ
たとき、 外から覗かれるのを嫌って、 新聞紙で塞いだ節穴を探して、 指
を入れ、 穴を開け直す。
そこに眼を当て、 眼を凝らして、 闇を探ると、 ああ、 あそこに居る。ぽ
っと赤い光が膨張したから、 すぐに見張り番の居場所は分かった。はじ
めてそれに気づいたときには、 獣の眼だろうか、 などとみずから恐怖心
の起こるようなことを思ったが、 それがヒトであり、 見張り番だとわか
ったいまは、 その膨張したり収縮したりするものは、 見張り番が喫って
いる煙草の火だ、 とすぐに判断できるのだからおかしなものだった。
そればかりではなかった。その赤い火がぼうっと膨張したときに浮かび
上がる黒い人影の輪郭も見えるし、 彼が抱えているものが銃だとわかる
のだから、 人間の意識というか、 感覚というか、 視覚能力というものも
、 ふしぎなものだと思う。
そんなことをのんきに考えていたが、 考え直してみると、 そこに今夜
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