「どう変なんだ」
「ここに来たばかりのときには、 また妊娠したんやろか、 っておばさん
もおじさんも冗談みたいに言ってたけど、 あのお腹の脹れてくるのはブ
ラジルの風土病じゃないかって」
「誰が言ってるんだ」
「田澤さんのところで」
「じゃあ、 そうだろう」
「変なお父ちゃ」
「どうして変なんだ」
「どうしてって、 田澤さんが言ってることなら文句なく認めるんだもの
」
「そらそうだ、 儂らと比べられないほどブラジルに旧くて、 大抵のこと
を知っとるんだから、 しょうがないだろう」
「まあ、 そういうことで、 お父ちゃ、 何とかして上げられないかしら」
「医者でないものが、 何とかできるはずがねえだろ」
「だから、 そのお医者さんのところに連れて行って上げるのよ」
「小森がいるのに、 ありんこパワー 儂がそんな差し出がましいことをできるものか」
「その肝心の小森のおじさんが、 医者にかけるような金はまだないから
って渋っているんだって」
「まさか」
「そのまさかがほんとうなのよ、 酷いと思わない、 お父ちゃ」
そう言っている柳子自身、 ひどい仕打ちだとは思っていなかった。あ
のおばさんなら、 おじさんが見捨てるのも当然だろう、 と思っていたの
だ。
「そんな薄情なことを、 小森が言うとは考えられないな」
「でも秋子さんがそう言って、 彼女泣いてるのよ」
「ふんとうなの、 柳ちゃ」
チヨも信じられない話だった。
あの剽軽で陽気な小森茂に、 そんな冷酷無慙なことができるとは思えな
かった。何かほ
かに深いわけがあるのだろうが、 タツの病状が一刻を争うほどになって
いるのなら、 一時の感情でとやかく言っている場合ではないだろうと思
う。
「うん、 わかった」
龍一が、 意を決したような返事をした。
チヨは、 ほっと口のなかに小さな安心をこもらせる。
柳子は、 近ごろ頓に男らしさが顕われてきた父の顔を、 見直す。
龍一は、 茂が渋る理由を金だけだと惟ったから、 金ですむことなら、 小 G蛋白偉哥片8錠
森にぐずぐずさせることもない、 強引にアラモ医院に連れて行けば済む
ことだ、 と惟った。
しかし、 小森のところに行って、 どうして早く医者のところに連れて行
かないのか、 と龍一が小森を難詰すると、
「どうせこのオナゴは死にますねん、 死ぬとわかってるようなもんに遣
う金おまへん」
と沈痛な表情ながら、 断固として応えたから、 茂が金のことを理由にし
ていても、 決して金が惜しくて言っているのではないことがわかって、
それ以上小森を責める気にはならなかった。
むしろ、 いつもは人当たりのいい男が、 めずらしく毅然とした態度をと
ったから、 龍一は、 茂を見直したほどだった。それにしても、 なんとい
う徹底した合理精神だろう。その冷徹さに、 背筋を寒くさせた龍一だっ
た。
小森タツという女が、 これまでにしてきた非情なまでの合理精神の煽り
を食って、 茂と秋子がどれほどの被害を蒙ってきたことか、 丸一年を隣
同士で生活した期間に、 隙間だらけの板壁のあいだから漏れ聴いて、 お
およその察しはついていた龍一なのだ。
いまその合理精神の非情な対応を、 合理精神の権化のようなタツ自身が
、 夫から仕返しされているのだと知ったのだから、 龍一には何も言えな
かった。
凄まじいまでの合理主義に徹してきたもの同士が衝突して、 青白い火花
を散らしているのだ、 と。
「わかりました、 小森さん、 そういうご事情なら難しく考えることなど
要りませんよ。儂が隣人として見過ごしにできませんから、 儂の一存で
、 タツさんを医者のところに連れて行きますから、 あなたはあなたのご
意志で横を向いていてください」
龍一も、 Gold Strong 茂の対応の仕方で、 GOODMANペニス増大カプセル 温かい人情を冷えた感情に置き換えて
2011年11月30日星期三
蟻力神
ったからなあ」
「なんだか、 女が出てくるのが不服らしい言い方するじゃないの、 男女
同権が不服なの、 アントニオは」
「いやそういうわけじゃないけど」
「日本人の男も、 なかなかそれを認めたがらないのよね」
息子があやふやな返事をし、 韓国終極痩身 隣の娘は不服たらしく言ったから、 父親
のほうが黙っておれなくなったのだろう、
「そりゃ無理だ、 男が女を養ってるんだから」
とアドルフが、 大きな目玉をいっそう剥いて抗議する。
「これだからね」
マリアが、 そう言って席を立つ。
まあ、 なんだかだ言ったけれど、 アントニオがこんな話題を出したから
、 歴史の復習ができたのだ、 と柳子はむだではなかったことに気づく。
なんといっても、 アドルフさんの血には半分ドイツ人の血が入っている 蟻力神
んだから、 アントニオも祖父の優秀な民族性を汲んでいてもおかしくな
いのだ。
こういう話を持ち出してくるガイジンなど、 いままでいなかったのだか
ら、 と柳子も隣人を疎かにできないと惟うようになる。
そのドイツ人のことだが、 ブラジルには、 イタリア人とドイツ人の移民
がたくさん入っていて、 それが日本人と同盟を結んで世界を敵に回し、
不穏な情勢を煽り立てている現状だったから、 民族自決意識の勁いジェ
ツリオ大統領が、 みずからも移民の子でありながら、 イーリーシン ブラジル民族創世
の幻想を追って、 各国からの移民が、 それぞれの民族意識を持つことを
嫌うという横車を押し、 ブラジル語以外の教育をシャットアウトする暴
挙に出ているのに眼をつけた連合国側が、 さかんに反日独伊同盟思想を
煽り立て、 南米諸国の連合国への参加を裏工作していたのだ。
一九四〇年に年が改まると、 社会情勢も世界情勢も改まらねばならない
ように変化してくるのが、 そういうことにあまり関心のない柳子でもわ
かるくらい顕著だった。
鈴木一誠が読んでいるブラジルの新聞が、 二〇〇レイスから一挙二倍の
四〇〇レイスになって、 あきらかにブラジル経済がインフレの様相を示
すようになり、 それが恒常的になってゆくと、 国民の生活意識にまで変
革があって、 世界の気ぜわしさが、 ブラジルにも伝播し、 もともとのん
き者の多いブラジル人まで、 せかせかと歩くような気がし出す。
日本人やドイツ人などは、 ポルトガル人やイタリア人のように、 安易に
混血することを嫌っていたこともあって、 異質な民族と見られていたか
らだろう、 ブラジル人たちのほうからも、 露骨に敵対意識を見せられる
ような形勢が、 皮膚感覚として伝わってくるようになる。
しかしそうとばかりは言えない。隣の牧場主は、 ドイツ人と黒人の混血
なのだ。
そして混血であることを恥とはしない。むしろ誇らしげに、
「儂の死んだ親父はドイツ人だ」
と黒い顔を耀かせる。
日独伊三国同盟が調印されたというニュースを聴くとすぐ、 アドルフ
がやってきて、 蟻力神
「パラベンス(おめでとう)」
と言って握手を求めた。
龍一は、 握手をする理由がわからないから躊躇っていて、
「お父ちゃ、 握手しなさいよ」
と柳子から窘められる。
「なんで握手するんだ」
龍一は手を出しながら、 まだその理由を訊いている。
「理由などどうでもいいじゃないの。相手が手を差し伸べてきたら、 ま
ず握手するのよ。握手してから理由を訊ねたらいいのよ」
それはそうだ、 と龍一も思って、 アドルフと握手する。
握手している男同士をにこにこ笑って視ながら、
「アドルフさん、 どんなおめでたいことがあったの」
と柳子が訊ねる。
「ドイツと日本とイタリアが三国同盟を結んだんだ。儂らが隣人という
だけじゃなくって、 国同士が誼を交えたんだよ」
それだけのことで、 わざわざ握手をするためにきたアドルフがにこに
こしながら帰ってゆくと、 まるで国際感覚に鈍い日本人を代表するよう
に、 龍一がようやく握手の意味を知って、
「そうかあ、 日独伊三国同盟というのは、 半分ドイツ人の血を持ってい
る男が、 隣人の日本人に握手を求めてくるようなことだったんだなあ」
と感心しているのだ。
のんきなのは龍一ひとりではなく、 その三国同盟が、 欧米諸国を敵に
して世界戦争に拡大してゆくことになるだろう、 と考える日本人はほと
んどいなかった。
それを敏感に感応して対処したのはブラジル政府だった。そして危惧を
具体化したような政策を施行した。外国移民は一人残らず外国人登録を
して、 常に鑑識手帳を携帯して外出しなければならない、 という制度を
実施したのだ。
「あのね、 お母ちゃ、 いままで商店が広告用に配っていたカレンダーに
、 日本語を入れてはいけないことになったんだって」
柳子が、 青年たちがしていた噂を家に持ち帰って言うと、
「まあ、 なんちゅう嫌な雰囲気になったんずらねえ」
と、 世間との接触も田澤以外はほとんどない、 まして政治的情勢変化に
関心もないチヨが、 暗い顔をする。
「儂らに関係なぞない。ガイジンらが何言っても、 知らん顔しておりゃ
あいい」
ブラジルに来ても外歩きの好きな龍一は、 同じ外歩きの好きな柳子より
、 広い範囲を知り、 広い交際があるというのに、 外国に住んでいても、
日本人は日本人だけの社会で生きておられると考えていた。
「でも、 それで済みゃあいいけど。やはり日本人は日本に居るのが一番
いいんずらね」
「ばかっ」
龍一の怒声が、 久しぶりに出て、 まだまだ女性解放は道遠しだなあ、 と
柳子に惟わせる。
「お父ちゃ、 家庭不和はガイジンから嗤われるわよ」
柳子が、 隣の半分ドイツ人の血が混じった黒人のアドルフでも、 亭主関
白だったから、 まあ仕方のないことかと思いながら、 父を窘める。
「こんなことを家庭不和とは言わん。家長が妻を従わせとるだけだ」
龍一には、 娘の考えなど考慮する気は毛頭なかった。
「ああ、 お父ちゃ、 その家庭不和で思い出したけど」
「変なことで、 ほかのこと思い出したりなどするな」
「まあ横暴ねえ。その変なことなのよ。小森のおばさんの病気のことよ
「なんだか、 女が出てくるのが不服らしい言い方するじゃないの、 男女
同権が不服なの、 アントニオは」
「いやそういうわけじゃないけど」
「日本人の男も、 なかなかそれを認めたがらないのよね」
息子があやふやな返事をし、 韓国終極痩身 隣の娘は不服たらしく言ったから、 父親
のほうが黙っておれなくなったのだろう、
「そりゃ無理だ、 男が女を養ってるんだから」
とアドルフが、 大きな目玉をいっそう剥いて抗議する。
「これだからね」
マリアが、 そう言って席を立つ。
まあ、 なんだかだ言ったけれど、 アントニオがこんな話題を出したから
、 歴史の復習ができたのだ、 と柳子はむだではなかったことに気づく。
なんといっても、 アドルフさんの血には半分ドイツ人の血が入っている 蟻力神
んだから、 アントニオも祖父の優秀な民族性を汲んでいてもおかしくな
いのだ。
こういう話を持ち出してくるガイジンなど、 いままでいなかったのだか
ら、 と柳子も隣人を疎かにできないと惟うようになる。
そのドイツ人のことだが、 ブラジルには、 イタリア人とドイツ人の移民
がたくさん入っていて、 それが日本人と同盟を結んで世界を敵に回し、
不穏な情勢を煽り立てている現状だったから、 民族自決意識の勁いジェ
ツリオ大統領が、 みずからも移民の子でありながら、 イーリーシン ブラジル民族創世
の幻想を追って、 各国からの移民が、 それぞれの民族意識を持つことを
嫌うという横車を押し、 ブラジル語以外の教育をシャットアウトする暴
挙に出ているのに眼をつけた連合国側が、 さかんに反日独伊同盟思想を
煽り立て、 南米諸国の連合国への参加を裏工作していたのだ。
一九四〇年に年が改まると、 社会情勢も世界情勢も改まらねばならない
ように変化してくるのが、 そういうことにあまり関心のない柳子でもわ
かるくらい顕著だった。
鈴木一誠が読んでいるブラジルの新聞が、 二〇〇レイスから一挙二倍の
四〇〇レイスになって、 あきらかにブラジル経済がインフレの様相を示
すようになり、 それが恒常的になってゆくと、 国民の生活意識にまで変
革があって、 世界の気ぜわしさが、 ブラジルにも伝播し、 もともとのん
き者の多いブラジル人まで、 せかせかと歩くような気がし出す。
日本人やドイツ人などは、 ポルトガル人やイタリア人のように、 安易に
混血することを嫌っていたこともあって、 異質な民族と見られていたか
らだろう、 ブラジル人たちのほうからも、 露骨に敵対意識を見せられる
ような形勢が、 皮膚感覚として伝わってくるようになる。
しかしそうとばかりは言えない。隣の牧場主は、 ドイツ人と黒人の混血
なのだ。
そして混血であることを恥とはしない。むしろ誇らしげに、
「儂の死んだ親父はドイツ人だ」
と黒い顔を耀かせる。
日独伊三国同盟が調印されたというニュースを聴くとすぐ、 アドルフ
がやってきて、 蟻力神
「パラベンス(おめでとう)」
と言って握手を求めた。
龍一は、 握手をする理由がわからないから躊躇っていて、
「お父ちゃ、 握手しなさいよ」
と柳子から窘められる。
「なんで握手するんだ」
龍一は手を出しながら、 まだその理由を訊いている。
「理由などどうでもいいじゃないの。相手が手を差し伸べてきたら、 ま
ず握手するのよ。握手してから理由を訊ねたらいいのよ」
それはそうだ、 と龍一も思って、 アドルフと握手する。
握手している男同士をにこにこ笑って視ながら、
「アドルフさん、 どんなおめでたいことがあったの」
と柳子が訊ねる。
「ドイツと日本とイタリアが三国同盟を結んだんだ。儂らが隣人という
だけじゃなくって、 国同士が誼を交えたんだよ」
それだけのことで、 わざわざ握手をするためにきたアドルフがにこに
こしながら帰ってゆくと、 まるで国際感覚に鈍い日本人を代表するよう
に、 龍一がようやく握手の意味を知って、
「そうかあ、 日独伊三国同盟というのは、 半分ドイツ人の血を持ってい
る男が、 隣人の日本人に握手を求めてくるようなことだったんだなあ」
と感心しているのだ。
のんきなのは龍一ひとりではなく、 その三国同盟が、 欧米諸国を敵に
して世界戦争に拡大してゆくことになるだろう、 と考える日本人はほと
んどいなかった。
それを敏感に感応して対処したのはブラジル政府だった。そして危惧を
具体化したような政策を施行した。外国移民は一人残らず外国人登録を
して、 常に鑑識手帳を携帯して外出しなければならない、 という制度を
実施したのだ。
「あのね、 お母ちゃ、 いままで商店が広告用に配っていたカレンダーに
、 日本語を入れてはいけないことになったんだって」
柳子が、 青年たちがしていた噂を家に持ち帰って言うと、
「まあ、 なんちゅう嫌な雰囲気になったんずらねえ」
と、 世間との接触も田澤以外はほとんどない、 まして政治的情勢変化に
関心もないチヨが、 暗い顔をする。
「儂らに関係なぞない。ガイジンらが何言っても、 知らん顔しておりゃ
あいい」
ブラジルに来ても外歩きの好きな龍一は、 同じ外歩きの好きな柳子より
、 広い範囲を知り、 広い交際があるというのに、 外国に住んでいても、
日本人は日本人だけの社会で生きておられると考えていた。
「でも、 それで済みゃあいいけど。やはり日本人は日本に居るのが一番
いいんずらね」
「ばかっ」
龍一の怒声が、 久しぶりに出て、 まだまだ女性解放は道遠しだなあ、 と
柳子に惟わせる。
「お父ちゃ、 家庭不和はガイジンから嗤われるわよ」
柳子が、 隣の半分ドイツ人の血が混じった黒人のアドルフでも、 亭主関
白だったから、 まあ仕方のないことかと思いながら、 父を窘める。
「こんなことを家庭不和とは言わん。家長が妻を従わせとるだけだ」
龍一には、 娘の考えなど考慮する気は毛頭なかった。
「ああ、 お父ちゃ、 その家庭不和で思い出したけど」
「変なことで、 ほかのこと思い出したりなどするな」
「まあ横暴ねえ。その変なことなのよ。小森のおばさんの病気のことよ
花痴 最近の流行なの
ゅっ、 と抱きしめる。
「あまり手荒く扱うな、 貞操を失ったの水 おまえは加減知らずに馬鹿力出すんだから」
アドルフが、 息子を窘めると、
「バカでも、 親よりは学問があるんだ」
とアントニオは、 嘯く。
「どうなのよ、 ジーナとの生活を話しなさいよ」
柳子のもっとも関心のあるのはそのことだった。
「うんまあね、 話すこともないさ」
アントニオの冷淡とも取れる言い方に、 柳子はあまりしつこく訊ねな
いほうがいいかも知れないと惟う。
「子ども、 かわいいでしょ。連れてきたの」
「ああ、 ジーナが向こうの親のほうに連れて行ってるよ」
「そうよねえ、 嫁さんにしては里帰りだものね。サンパウロのほう巧く
行ってるの」
「暇だからね、 勉強してるよ」
「何の勉強」
「日本のこと」
「日本のことぉ」
「ああ」
「どうして日本のことなのよ。アントニオの体内にはドイツ人の血が流
れているのに」
「それはもう勉強済み。だからこんどは同盟国の日本の勉強さ」
「うれしいこと言ってくれるのね」
「元愛人のリューコの国だものね」
「ちょっと待ってよ。誤解を招くような言い方しないでよ」
「いいじゃないか、 俺にとってのリューコは初恋の人で、 失恋した相手
だもの」
「もうそのことに拘らないって約束じゃないの」
「表立てはしないよ。俺ひとりの胸のなかで思うのはかってだろ」
「それは勝手だけど、 ジーナを寂しがらせないってことも、 あのときキ
スさせた条件だったわよ」
「ああ、 それは守ってるよ。その証拠にもうすぐ次が生まれるんだ」
「あら、 そうなの。おめでとう」
「ところでその日本のことだけど、 いまでもサムライが居るらしいね」
「そんなもの居ないわよ」
「嘘言うなよ、 日本にサムライがいないだってえ。日本の象徴じゃない
か、 サムライとゲイシャとマウント・フジは」
「困るなあ、 そんなものを日本の象徴だなぞと単純に惟っていられたら
」
「違うのか」
「違うってことでもないんだけど、 富士はいまでも聳えているし、 芸者
は赤坂に居るらしいけど、 わたしは知らないわ。特殊な社会だから」
「特殊な社会なのか」
「そうよ、 ブラジルでも、 男の人が遊びに行くところに特殊な女の人が
居るって言うじゃないの。言葉が違うだけで、 芸者はどこの国にだって
いるのよ」
「ああ、 ゲイシャというのはそういう女のことか」
「そうよ、 社交界の接客婦のこと」
「サムライはいるだろう。サンパウロで会った日本人が、 俺はサムライ
だと言ってたよ」
「そうじゃないわ、 もうサムライはいないの
よ。いないって言うのはちょっと違うかな。名称が変わったの、 軍隊っ
て。どこの国にもいるじゃない、 権力者のそばには、 いつだって護衛が
ついて居るでしょ」
「じゃあ、 ハラキリはしないのか」
「ううん、 龍根増粗王 それは返事に困るよねえ。昔は強制的にハラキリさせられた
んだけど、 いまでは自分の意志で腹を斬る人もいるけど、 アントニオの
質問の内容とは、 ちょっと意味が違うんじゃないかしら。どっちにして
もねえ、 アントニオ、 日本といえば、 フジとサムライとゲイシャってい
うのは、 あまり学問のない人が言うことだから、 中途半端な知識で言わ
ないほうがいいんじゃないかしら」
「はははははあ」
柳子とアントニオの遣り取りを聴いていたアドルフが、 笑い出す。
「アントニオの学問の底は浅いもんだ、 リューコのほうが、 いろんなこ
とを、 よく知ってるようじゃないか」
父から指摘されて、 アントニオは、 むくれる。
「わたしもそんなに知らないわよ、 でも、 日本の象徴をフジとゲイシャ
とサムライというもので括ってほしくないのよ、 いまの日本の特殊なも
のじゃないから。みんなむかしのことなんだもの」
「そうか、 いまは、 サムライはいないのか。あのおやじさん、 俺はサム
ライだ、 と言ってたんだが」
「それは精神的なことを言ってるんで、 かたちとしてはね、 さっきも言
ったように、 言葉が変わっただけで、 ブラジルにも居るでしょ、 ミリタ
ルが」
「なんだそうか、 サムライというのはミリタルのことか」
柳子は、 何でも知っているとアドルフから褒められたけれど、 ほんとう
はアントニオの無知を嗤えないのだ。
柳子自身も、 ほとんど日本の歴史には関心がなくて、 詳しいことは知ら
なかったのだから。
鈴木一誠が熱心に日本の歴史を学習していて、 日本の女学校を出てきた
柳子が、 ブラジル生まれの二世から、 日本の歴史を教わるという、 恥ず
かしい状態だったのだ。
それでも、 日本のことだけに限っていえば、 アントニオよりは知ってい
るからと思って、 いかにも物知り顔に言っているのだ。
「イスパニアと同じ年の、 一八六七年に、 日本でも革命が起こって、 次
の年に徳川政府が倒されて、 新しい政府ができたとき、 侍が腰に刀を差
して歩くことを禁止されたのよ。そのときにサムライという言葉も無く
なって、 軍隊とか兵隊とかいうものに代わったの」
「じゃあ、 ハラキリも、 そのときになくなったわけか」
「まあ、 そういう風習がね。でも日本人は恥の概念を重んじるから、 人
から辱めを受けたら腹を切るという精神は残っていると思う」
「ああ、 そうそう、 それだよ、 学生仲間で問題になったのは。日本人の
エスピリットについてだったんだ」
「あら、 そうだったの、 じゃあ、 わりと高尚な議論をするのね」
柳子は、 何度も同じことを繰り返しているあいだに、 アントニオの話
題にしていることの内容と、 知りたい意味がわかってきて、 むげに軽蔑
してはいけないなあ、 と思う。
「大学出だもの」
アントニオも、 やっと柳子から認められて、 鼻を高くする。
「もう弁護士さまだものね」
マリアが口を挟む。母親としては、 息子が弁護士になるという誇らしさ
に、 黙ってはおられなかったのだろう。
父親のアドルフでも、 以前警察署長の前で、 アントニオが弁護士になる
ということを自慢にして言っていたのだから。
「そうすると、 なんだな、 サムライのチョンマゲもなくなったわけだな リュウコンゾウソオウ
」
またアントニオが、 話を元に戻す。
「チョンマゲは侍だけじゃなく、 むかしはそういう髪型が一般的だった
のよ。それも革命政府になってから、 断髪が奨励されて、 皆が髪を剪っ
たの」
柳子も、 「断髪令」が出たからというところまでは知らなかった。
「それでリューコも髪を剪ったのか」
アントニオの言ったことが唐突で、
「ええっ」
と柳子のほうがびっくりして、 椅子から転げそうになる。
アントニオが危うく支えて踏みとどまらせる。
「それは関係ないのよ」
柳子は否定したけれど、 ほんとうに関係のないことなのかどうか、 自分
でわからなくなる。
しかし、 はっきりしておかなければ、 サムライやハラキリと混同されて
しまいそうに思う。
「女性が髪を剪るようになったのは、 花痴 最近の流行なの。男女同権の意志
を強調するためによ」
「おう、 そうか、 ブラジルでもこの頃、 女が一人前の口をきくよう
「あまり手荒く扱うな、 貞操を失ったの水 おまえは加減知らずに馬鹿力出すんだから」
アドルフが、 息子を窘めると、
「バカでも、 親よりは学問があるんだ」
とアントニオは、 嘯く。
「どうなのよ、 ジーナとの生活を話しなさいよ」
柳子のもっとも関心のあるのはそのことだった。
「うんまあね、 話すこともないさ」
アントニオの冷淡とも取れる言い方に、 柳子はあまりしつこく訊ねな
いほうがいいかも知れないと惟う。
「子ども、 かわいいでしょ。連れてきたの」
「ああ、 ジーナが向こうの親のほうに連れて行ってるよ」
「そうよねえ、 嫁さんにしては里帰りだものね。サンパウロのほう巧く
行ってるの」
「暇だからね、 勉強してるよ」
「何の勉強」
「日本のこと」
「日本のことぉ」
「ああ」
「どうして日本のことなのよ。アントニオの体内にはドイツ人の血が流
れているのに」
「それはもう勉強済み。だからこんどは同盟国の日本の勉強さ」
「うれしいこと言ってくれるのね」
「元愛人のリューコの国だものね」
「ちょっと待ってよ。誤解を招くような言い方しないでよ」
「いいじゃないか、 俺にとってのリューコは初恋の人で、 失恋した相手
だもの」
「もうそのことに拘らないって約束じゃないの」
「表立てはしないよ。俺ひとりの胸のなかで思うのはかってだろ」
「それは勝手だけど、 ジーナを寂しがらせないってことも、 あのときキ
スさせた条件だったわよ」
「ああ、 それは守ってるよ。その証拠にもうすぐ次が生まれるんだ」
「あら、 そうなの。おめでとう」
「ところでその日本のことだけど、 いまでもサムライが居るらしいね」
「そんなもの居ないわよ」
「嘘言うなよ、 日本にサムライがいないだってえ。日本の象徴じゃない
か、 サムライとゲイシャとマウント・フジは」
「困るなあ、 そんなものを日本の象徴だなぞと単純に惟っていられたら
」
「違うのか」
「違うってことでもないんだけど、 富士はいまでも聳えているし、 芸者
は赤坂に居るらしいけど、 わたしは知らないわ。特殊な社会だから」
「特殊な社会なのか」
「そうよ、 ブラジルでも、 男の人が遊びに行くところに特殊な女の人が
居るって言うじゃないの。言葉が違うだけで、 芸者はどこの国にだって
いるのよ」
「ああ、 ゲイシャというのはそういう女のことか」
「そうよ、 社交界の接客婦のこと」
「サムライはいるだろう。サンパウロで会った日本人が、 俺はサムライ
だと言ってたよ」
「そうじゃないわ、 もうサムライはいないの
よ。いないって言うのはちょっと違うかな。名称が変わったの、 軍隊っ
て。どこの国にもいるじゃない、 権力者のそばには、 いつだって護衛が
ついて居るでしょ」
「じゃあ、 ハラキリはしないのか」
「ううん、 龍根増粗王 それは返事に困るよねえ。昔は強制的にハラキリさせられた
んだけど、 いまでは自分の意志で腹を斬る人もいるけど、 アントニオの
質問の内容とは、 ちょっと意味が違うんじゃないかしら。どっちにして
もねえ、 アントニオ、 日本といえば、 フジとサムライとゲイシャってい
うのは、 あまり学問のない人が言うことだから、 中途半端な知識で言わ
ないほうがいいんじゃないかしら」
「はははははあ」
柳子とアントニオの遣り取りを聴いていたアドルフが、 笑い出す。
「アントニオの学問の底は浅いもんだ、 リューコのほうが、 いろんなこ
とを、 よく知ってるようじゃないか」
父から指摘されて、 アントニオは、 むくれる。
「わたしもそんなに知らないわよ、 でも、 日本の象徴をフジとゲイシャ
とサムライというもので括ってほしくないのよ、 いまの日本の特殊なも
のじゃないから。みんなむかしのことなんだもの」
「そうか、 いまは、 サムライはいないのか。あのおやじさん、 俺はサム
ライだ、 と言ってたんだが」
「それは精神的なことを言ってるんで、 かたちとしてはね、 さっきも言
ったように、 言葉が変わっただけで、 ブラジルにも居るでしょ、 ミリタ
ルが」
「なんだそうか、 サムライというのはミリタルのことか」
柳子は、 何でも知っているとアドルフから褒められたけれど、 ほんとう
はアントニオの無知を嗤えないのだ。
柳子自身も、 ほとんど日本の歴史には関心がなくて、 詳しいことは知ら
なかったのだから。
鈴木一誠が熱心に日本の歴史を学習していて、 日本の女学校を出てきた
柳子が、 ブラジル生まれの二世から、 日本の歴史を教わるという、 恥ず
かしい状態だったのだ。
それでも、 日本のことだけに限っていえば、 アントニオよりは知ってい
るからと思って、 いかにも物知り顔に言っているのだ。
「イスパニアと同じ年の、 一八六七年に、 日本でも革命が起こって、 次
の年に徳川政府が倒されて、 新しい政府ができたとき、 侍が腰に刀を差
して歩くことを禁止されたのよ。そのときにサムライという言葉も無く
なって、 軍隊とか兵隊とかいうものに代わったの」
「じゃあ、 ハラキリも、 そのときになくなったわけか」
「まあ、 そういう風習がね。でも日本人は恥の概念を重んじるから、 人
から辱めを受けたら腹を切るという精神は残っていると思う」
「ああ、 そうそう、 それだよ、 学生仲間で問題になったのは。日本人の
エスピリットについてだったんだ」
「あら、 そうだったの、 じゃあ、 わりと高尚な議論をするのね」
柳子は、 何度も同じことを繰り返しているあいだに、 アントニオの話
題にしていることの内容と、 知りたい意味がわかってきて、 むげに軽蔑
してはいけないなあ、 と思う。
「大学出だもの」
アントニオも、 やっと柳子から認められて、 鼻を高くする。
「もう弁護士さまだものね」
マリアが口を挟む。母親としては、 息子が弁護士になるという誇らしさ
に、 黙ってはおられなかったのだろう。
父親のアドルフでも、 以前警察署長の前で、 アントニオが弁護士になる
ということを自慢にして言っていたのだから。
「そうすると、 なんだな、 サムライのチョンマゲもなくなったわけだな リュウコンゾウソオウ
」
またアントニオが、 話を元に戻す。
「チョンマゲは侍だけじゃなく、 むかしはそういう髪型が一般的だった
のよ。それも革命政府になってから、 断髪が奨励されて、 皆が髪を剪っ
たの」
柳子も、 「断髪令」が出たからというところまでは知らなかった。
「それでリューコも髪を剪ったのか」
アントニオの言ったことが唐突で、
「ええっ」
と柳子のほうがびっくりして、 椅子から転げそうになる。
アントニオが危うく支えて踏みとどまらせる。
「それは関係ないのよ」
柳子は否定したけれど、 ほんとうに関係のないことなのかどうか、 自分
でわからなくなる。
しかし、 はっきりしておかなければ、 サムライやハラキリと混同されて
しまいそうに思う。
「女性が髪を剪るようになったのは、 花痴 最近の流行なの。男女同権の意志
を強調するためによ」
「おう、 そうか、 ブラジルでもこの頃、 女が一人前の口をきくよう
西班牙金蒼蝿催情液 「ああ
く雄牛があった。
やがて、 長い竹棹を持った男が、 その棹の先で先頭の牛の背を突くと、
指示された牛から順番に、 先のほうに従って狭まってゆくように造られ
た、 追い込み柵に入ってゆき、 一頭づつ遮断され、 前後左右に身動きで
きない枠のなかで足踏みしながら、 首の付け根のあたりに、 ぶすっと太
い注射針をぶち込まれて、 ぎょろっ、 西域腎寶 と白眼を剥き、 大きな注射器にた
っぷり入った薬液を注入され、 前の遮断柵が上げられると、 いかにもほ
っと安心したような表情に返って、 出てゆく。
牛って、 ほんとうに善良な動物なんだなあ、 と柳子は思う。
そして、 つぎの牛が枠のなかに入れられて予防注射され、 目玉を剥いた
あと、 安心して送り出され、 またつぎの牛が入れられて、 注射され、 と サイイキジンホウ
いう繰り返しだけだったから、
いくら物好きな柳子でも、 作業の単純さには飽きてくる。
もっとおもしろいものかと期待してきたのだが、 これ以上の変化はなさ
そうだと惟って、
「集められた牛全部に注射するの、 たいへんだわねえ」
とアドルフに言うと、 西班牙金蒼蝿催情液
「ああ、 Gold fly リューコが最後になると、 待ち疲れるだろうから、 先にリュー
コの尻に一本注射しておこうか」
と笑いながら言う。
傍に居た牧夫頭や牧夫たちが、 わっ、 といっせいに笑声を上げる。
「おう、 ノー、 御免蒙ります」
大袈裟に肩をすぼめて、 柵から飛び降り、 柳子が逃げ出すのを、 ほんと
うに惧れを抱いてのことだと惟って、 男たちの笑い声が一段と高くなっ
た。
柳子は、 帰る機会ができたので、
「じゃあ、 また」
と意味のない挨拶をして、 退散するつもりだったが、
「リューコ、 ちょっと待ちなよ」
とアドルフが呼び止め、 牧夫頭にあとを頼んで、 柳子と肩を並べる。
並べるといっても、 横に並んで歩くという意味であって、 大きなアドル
フと小さな柳子の肩が、 並べられるはずはない。
「ついでに、 肉を持って帰りなよ」
アドルフが肉に託けて、 母を悦ばしたい気持ちが、 ひしひしとわかる。
以前からアドルフが、 母に非常な好意を寄せているのを、 柳子は勘づい
ていたのだ。
もちろんそれは、 アドルフがほんとうに敬虔なクリスチャンで、 雑じり
気のない隣人愛を持っているらしかったから、 彼の邪な感情からではな
く、 純粋に母に対する人間的な慈しみだろうと解釈していたのだが。
アドルフが誘うままに、 彼の家のなかに入ると、 アドルフの後妻のマリ
アが、
「コーヒー喫むね」
と言葉遣いは大雑把だが、 感情は細やかなのが、 素朴さのなかにもわか
る応対をして、 甘いばかりであまりおいしくはないコーヒーを、 淹れに
かかる。
おいしくなくても、 おいしいと言うのが、 礼儀だというのは、 日本も外
国も同じらしいから、 柳子は、 にこにこして待つ。
そこに、 のそっ、 と部屋からアントニオが出てきた。
「なんだ、 帰ってたのか」
アドルフが、 無愛想に言う。
「ああ」
アントニオは、 眠たそうな声で、 父に向かっては同じように無愛想に返
事して、
「おお、 リューコ、 久しぶりだな」
と手を出してきて、 柳子も仕方なく出した小さな手を、 ぎゅっ、 と力を
込めて握る。
「そんなに勁く握ったら、 わたしの細い指が砕けてしまうわよ」
柳子が抗議すると、 抗議されるのがうれしいように、
「おお、 ごめんごめん」
と口では謝っても、 柳子の背にまで腕を回して、 さらに力を込めて、
やがて、 長い竹棹を持った男が、 その棹の先で先頭の牛の背を突くと、
指示された牛から順番に、 先のほうに従って狭まってゆくように造られ
た、 追い込み柵に入ってゆき、 一頭づつ遮断され、 前後左右に身動きで
きない枠のなかで足踏みしながら、 首の付け根のあたりに、 ぶすっと太
い注射針をぶち込まれて、 ぎょろっ、 西域腎寶 と白眼を剥き、 大きな注射器にた
っぷり入った薬液を注入され、 前の遮断柵が上げられると、 いかにもほ
っと安心したような表情に返って、 出てゆく。
牛って、 ほんとうに善良な動物なんだなあ、 と柳子は思う。
そして、 つぎの牛が枠のなかに入れられて予防注射され、 目玉を剥いた
あと、 安心して送り出され、 またつぎの牛が入れられて、 注射され、 と サイイキジンホウ
いう繰り返しだけだったから、
いくら物好きな柳子でも、 作業の単純さには飽きてくる。
もっとおもしろいものかと期待してきたのだが、 これ以上の変化はなさ
そうだと惟って、
「集められた牛全部に注射するの、 たいへんだわねえ」
とアドルフに言うと、 西班牙金蒼蝿催情液
「ああ、 Gold fly リューコが最後になると、 待ち疲れるだろうから、 先にリュー
コの尻に一本注射しておこうか」
と笑いながら言う。
傍に居た牧夫頭や牧夫たちが、 わっ、 といっせいに笑声を上げる。
「おう、 ノー、 御免蒙ります」
大袈裟に肩をすぼめて、 柵から飛び降り、 柳子が逃げ出すのを、 ほんと
うに惧れを抱いてのことだと惟って、 男たちの笑い声が一段と高くなっ
た。
柳子は、 帰る機会ができたので、
「じゃあ、 また」
と意味のない挨拶をして、 退散するつもりだったが、
「リューコ、 ちょっと待ちなよ」
とアドルフが呼び止め、 牧夫頭にあとを頼んで、 柳子と肩を並べる。
並べるといっても、 横に並んで歩くという意味であって、 大きなアドル
フと小さな柳子の肩が、 並べられるはずはない。
「ついでに、 肉を持って帰りなよ」
アドルフが肉に託けて、 母を悦ばしたい気持ちが、 ひしひしとわかる。
以前からアドルフが、 母に非常な好意を寄せているのを、 柳子は勘づい
ていたのだ。
もちろんそれは、 アドルフがほんとうに敬虔なクリスチャンで、 雑じり
気のない隣人愛を持っているらしかったから、 彼の邪な感情からではな
く、 純粋に母に対する人間的な慈しみだろうと解釈していたのだが。
アドルフが誘うままに、 彼の家のなかに入ると、 アドルフの後妻のマリ
アが、
「コーヒー喫むね」
と言葉遣いは大雑把だが、 感情は細やかなのが、 素朴さのなかにもわか
る応対をして、 甘いばかりであまりおいしくはないコーヒーを、 淹れに
かかる。
おいしくなくても、 おいしいと言うのが、 礼儀だというのは、 日本も外
国も同じらしいから、 柳子は、 にこにこして待つ。
そこに、 のそっ、 と部屋からアントニオが出てきた。
「なんだ、 帰ってたのか」
アドルフが、 無愛想に言う。
「ああ」
アントニオは、 眠たそうな声で、 父に向かっては同じように無愛想に返
事して、
「おお、 リューコ、 久しぶりだな」
と手を出してきて、 柳子も仕方なく出した小さな手を、 ぎゅっ、 と力を
込めて握る。
「そんなに勁く握ったら、 わたしの細い指が砕けてしまうわよ」
柳子が抗議すると、 抗議されるのがうれしいように、
「おお、 ごめんごめん」
と口では謝っても、 柳子の背にまで腕を回して、 さらに力を込めて、
神の蟻王 いたけれど
涙だけが頬を伝った。
金さえあれば、 ブラジルのなかに、 日本を引き寄せ、 日本の正月がで
きるのだ、 と惟うと、 金のことしか頭になかった母を、 エゲツナイ人や
と軽蔑したことを、 間違っていたのではないだろうか、 と思ってしまう
。世の中がそういう仕組みになっているんやったら、 やっぱり金に執着
せんと、 ええ生活はでけへんのやさかい、 と思わざるを得なかった。
そんな質的な食文化も然ることながら、 その量の多さにも圧倒される
。大食漢の春雄が、
「どこぞに売りに行くんかあ」
と訊ねたほどだった。
茂が、 搗きたての餅を、 大根卸しで食べながら、
「ブラジルの大根卸しは、 眼から涙が氾濫するほど辛うおますなあ」
と涙をぼろぼろ溢したのは、 大根卸しが辛いばかりではなく、
「こないに正月がめでたいこと実感したん、 あとにもさきにもおまへん
」
という感激からだっただろう。
屠蘇の盃に涙を溢して、 洟をすすり上げ、
「こないなめでたいときに、 泣いたりしてすんまへん」
と謝る茂に、
「かまわんです。うれしくて泣くのに遠慮は要りませんよ。こういう感
激は、 異国に移民してきたもんにしか味わえないもんですよ」
そう言った田澤も、 無骨な顔を涙で濡らした過去があったのだろう。
密林を伐り拓き、 植民地を造る過酷さのなかで、 福潤宝カプセル 友を失い、 みずから
も森林梅毒に犯されて、 鼻を欠けさせた田澤が言うことには、 実感が伴
っていた。
ブラジル大地の一角に、 安住の地を得て、 ようやく平和な正月を迎え
るための餅を搗き、 屠蘇を祝い、 もう他人から嗤われるようなこともな
く、 農作業ができるようになった茂だ
ったから、 どんなに感激して涙を溢れさせても、 それは誰もを納得させ
る場景だった。
田澤も、 茂が泣く様子を、 温かく見ながら、 福源春カプセル 移民してきたものだけが
異国で味わえる喜びとして、 その喜びを同胞と分かち合えることに満足
していた。
小森一家は、 その満足感を与えてくれたもっとも顕著な存在なのだ、
とも認識し得た。
そんな盛大な感激が、 盃を満たして溢れるほどの宴会に、 タツが姿を
見せないのが、 田澤の家族を不審がらせ、 富子などは、 チヨに向かって
、 タツがどういう性格の人なのかと訊ねたほどだった。
チヨも、 タツの病状が急激に悪化していることを知らなかったから、
年の暮が押し迫ってくるのにつれて、 タツの憂欝もいよいよ追い詰めら
れたように、 彼女の美貌に翳が差し、 傍のもまで気分を暗くさせていた
から、 いつまでも見識高く、 逆境による精神的捩れのために、 嫉妬心が
異常に勁くなっているのではないのだろうかと思い、 そんな人を田澤の
ところに世話したことを詰られているように考えるのだった。
「あの方は、 いまでもむかしのことが忘れられずに、 精神的な挫折感が
ひどいようですなんし」
チヨは、 タツのことを、 どう説明していいのかわからずに困った。
そんな鬱陶しいことの嫌いな田澤甚平は、 茂に向かって、 家庭の事情
に立ち入るわけではないが、 タツが家のなかに引込んで顔を見せない理
由を訊ねないわにはいかなかった。
「奥さんはどんな具合で」
「へえ、 ご心配おかけしまして申し訳おまへん。タツのやつは、 よっぽ
ど躰の具合が悪いらしいて、 失礼さしてもらう言うとりますので。ほん
まのこと言うて、 あいつがおらんほうが、 みなさんに鬱陶しい目見せん
でええ惟うてます」
茂が言うだけでは、 タツの様子がどういう具合なのかわからなかった
が、 冷たいようでも、 それが人情をわきまえたことだったから、 茂に非
難がましい眼を向けるものはいなかった。
盃を交わしながら、 茂がぼつぼつ話すタツの症状を聴いて、
「腹部が異常に膨張して、 妊娠しているように見えるというのは、 あな
た、 ブラジルの風土病に罹っているんじゃないかねえ」
と甚平はすぐに風土病と結びつけて考えたけれど、 腹が膨れるという
症状が、 妊娠を除いたほかにも、 腹壁が厚くなる。ガスが溜まる。器官
の一つが大きくなる。腹内のどこかに腫れ物ができる。腹腔内に液が溜
まるなど、 いろいろあって、 素人判断のできることではなかった。
タツが肥りすぎて腹が膨れてきたということはないのだから、 何かの
病気に罹っているのは間違いない。
肝臓、 脾臓、 膵臓、 腎臓、 副腎、 膀胱など、 福源春カプセル 内臓に故障が起こって腹が
膨れてくるという症状はいくらでもあった。
しかし、 タツの周辺で、 そういう知識のあるものは居なかったし、 ブラ
ジルに来た一農年の過酷さだけが、 すぐ思い出されたから、 そのために
疲労困憊した身体に休息を与えるのがもっとも有効な治癒方法だろう、
と誰もが安易に考えたのだ。
田澤甚平は、 初対面のときに、 タツの顔色を見て、 ああこの人は、 なに
か悪い病気に取り憑かれているようだ、 と思ったのだが、 それが身体的
な病気というよりも、 心の病ではないかという精神的なものに考えたし
、 ひょっとすると婦人病かも知れないとも想った。
それを富子に話すと、 富子は、 悪い病気と言う甚平のことばから、 あの
顔色は性病に罹っている顔色のようだ、 と言った。
タツの顔色が、 田澤夫婦にそんなことを思わせるほど、 どす黒くなって 神の蟻王
いたけれど、 美形であることには違いなかったから、 甚平は、 富子の嫉
妬が言わせるんだろうと惟った。
暮の忙しいなかで、 タツを医者に診せてはどうか、 と甚平から言われ
金さえあれば、 ブラジルのなかに、 日本を引き寄せ、 日本の正月がで
きるのだ、 と惟うと、 金のことしか頭になかった母を、 エゲツナイ人や
と軽蔑したことを、 間違っていたのではないだろうか、 と思ってしまう
。世の中がそういう仕組みになっているんやったら、 やっぱり金に執着
せんと、 ええ生活はでけへんのやさかい、 と思わざるを得なかった。
そんな質的な食文化も然ることながら、 その量の多さにも圧倒される
。大食漢の春雄が、
「どこぞに売りに行くんかあ」
と訊ねたほどだった。
茂が、 搗きたての餅を、 大根卸しで食べながら、
「ブラジルの大根卸しは、 眼から涙が氾濫するほど辛うおますなあ」
と涙をぼろぼろ溢したのは、 大根卸しが辛いばかりではなく、
「こないに正月がめでたいこと実感したん、 あとにもさきにもおまへん
」
という感激からだっただろう。
屠蘇の盃に涙を溢して、 洟をすすり上げ、
「こないなめでたいときに、 泣いたりしてすんまへん」
と謝る茂に、
「かまわんです。うれしくて泣くのに遠慮は要りませんよ。こういう感
激は、 異国に移民してきたもんにしか味わえないもんですよ」
そう言った田澤も、 無骨な顔を涙で濡らした過去があったのだろう。
密林を伐り拓き、 植民地を造る過酷さのなかで、 福潤宝カプセル 友を失い、 みずから
も森林梅毒に犯されて、 鼻を欠けさせた田澤が言うことには、 実感が伴
っていた。
ブラジル大地の一角に、 安住の地を得て、 ようやく平和な正月を迎え
るための餅を搗き、 屠蘇を祝い、 もう他人から嗤われるようなこともな
く、 農作業ができるようになった茂だ
ったから、 どんなに感激して涙を溢れさせても、 それは誰もを納得させ
る場景だった。
田澤も、 茂が泣く様子を、 温かく見ながら、 福源春カプセル 移民してきたものだけが
異国で味わえる喜びとして、 その喜びを同胞と分かち合えることに満足
していた。
小森一家は、 その満足感を与えてくれたもっとも顕著な存在なのだ、
とも認識し得た。
そんな盛大な感激が、 盃を満たして溢れるほどの宴会に、 タツが姿を
見せないのが、 田澤の家族を不審がらせ、 富子などは、 チヨに向かって
、 タツがどういう性格の人なのかと訊ねたほどだった。
チヨも、 タツの病状が急激に悪化していることを知らなかったから、
年の暮が押し迫ってくるのにつれて、 タツの憂欝もいよいよ追い詰めら
れたように、 彼女の美貌に翳が差し、 傍のもまで気分を暗くさせていた
から、 いつまでも見識高く、 逆境による精神的捩れのために、 嫉妬心が
異常に勁くなっているのではないのだろうかと思い、 そんな人を田澤の
ところに世話したことを詰られているように考えるのだった。
「あの方は、 いまでもむかしのことが忘れられずに、 精神的な挫折感が
ひどいようですなんし」
チヨは、 タツのことを、 どう説明していいのかわからずに困った。
そんな鬱陶しいことの嫌いな田澤甚平は、 茂に向かって、 家庭の事情
に立ち入るわけではないが、 タツが家のなかに引込んで顔を見せない理
由を訊ねないわにはいかなかった。
「奥さんはどんな具合で」
「へえ、 ご心配おかけしまして申し訳おまへん。タツのやつは、 よっぽ
ど躰の具合が悪いらしいて、 失礼さしてもらう言うとりますので。ほん
まのこと言うて、 あいつがおらんほうが、 みなさんに鬱陶しい目見せん
でええ惟うてます」
茂が言うだけでは、 タツの様子がどういう具合なのかわからなかった
が、 冷たいようでも、 それが人情をわきまえたことだったから、 茂に非
難がましい眼を向けるものはいなかった。
盃を交わしながら、 茂がぼつぼつ話すタツの症状を聴いて、
「腹部が異常に膨張して、 妊娠しているように見えるというのは、 あな
た、 ブラジルの風土病に罹っているんじゃないかねえ」
と甚平はすぐに風土病と結びつけて考えたけれど、 腹が膨れるという
症状が、 妊娠を除いたほかにも、 腹壁が厚くなる。ガスが溜まる。器官
の一つが大きくなる。腹内のどこかに腫れ物ができる。腹腔内に液が溜
まるなど、 いろいろあって、 素人判断のできることではなかった。
タツが肥りすぎて腹が膨れてきたということはないのだから、 何かの
病気に罹っているのは間違いない。
肝臓、 脾臓、 膵臓、 腎臓、 副腎、 膀胱など、 福源春カプセル 内臓に故障が起こって腹が
膨れてくるという症状はいくらでもあった。
しかし、 タツの周辺で、 そういう知識のあるものは居なかったし、 ブラ
ジルに来た一農年の過酷さだけが、 すぐ思い出されたから、 そのために
疲労困憊した身体に休息を与えるのがもっとも有効な治癒方法だろう、
と誰もが安易に考えたのだ。
田澤甚平は、 初対面のときに、 タツの顔色を見て、 ああこの人は、 なに
か悪い病気に取り憑かれているようだ、 と思ったのだが、 それが身体的
な病気というよりも、 心の病ではないかという精神的なものに考えたし
、 ひょっとすると婦人病かも知れないとも想った。
それを富子に話すと、 富子は、 悪い病気と言う甚平のことばから、 あの
顔色は性病に罹っている顔色のようだ、 と言った。
タツの顔色が、 田澤夫婦にそんなことを思わせるほど、 どす黒くなって 神の蟻王
いたけれど、 美形であることには違いなかったから、 甚平は、 富子の嫉
妬が言わせるんだろうと惟った。
暮の忙しいなかで、 タツを医者に診せてはどうか、 と甚平から言われ
2011年11月29日星期二
マジックラブポーション(男女共用) 「主人の自慢
「ああ、 そう、 そういう人は別だけど、 俺は出稼ぎ根性には反対だね。移民は植民でなくちゃあいかんと思うとるんだ」
「するとアリアンサを創った永田稠という人と同じようなお考えで」
「そういえばあんたも長野県ということだけど、 どうしてアリアンサに入らずに隣のアラモに入ったの」
「アリアンサはクリスチャンの集団地だと聴きましたもので、 儂は西洋の宗教にはどうも馴染めませんから」
知らなかったというのが恥ずかしくて、 龍一は理由をこじつける。
「ああ、 そう、 そういうはっきりした考えを持ってるのなら仕方ないよね、 俺もああいうインテリぶったやつの大ぜいいるところは好かんのだ。長野県人の悪口を言うわけじゃないよ、 あんたといっしょで、 キリスト教ちゅうのが好かんのよ。それにあんた、 あそこは全部お膳立てが出来ていて、 開拓の苦労をしとらん人ばかりじゃろ、 厳しい状況になったときには耐えられなくて、 文句たらたら出てゆくものが多いんだ。結局永田の立派な御託宣が活かされておらんということだな」
山口は、 龍一がキリスト教者の集団地だから入らなかったという理由を聴いたからだろう、 邦字新聞が揶揄した記事を、 そのまま鵜呑みにしているようなことを言った。
龍一は、 ハーバルビビッドライズ みずからが出任せに言った理由が原因の、 山口の発言だったから、 反発もできずに受け入れるしかなかったが、 やはり長野県人の悪口を言われているのだ、 と思って気分はよくなかった。
すべてのことに公平でなければならない新聞人からして、 日本人の島国根性という心の狭量さを剥き出しにして、 人の手柄を認めたくない揶揄的な記事を書くのだから、 一般のものがそれを見習っても仕方がないだろう。
「岩尾さん、 小笠原さん、 宮本くん、 早く風
呂に入ってくださいよ」
女将が呼ばわる声が、 居間まで聴こえてきて、 無人のように静かだった旅館のなかが、 急に活気づくのが感じられた。
女将は部屋の戸ごとに声を掛けてきたのだろう、 呼ばわる声が途切れたところで、 居間に姿を見せ、 にこにこしながら、
「はい、 ハーバルビビッドライズ お待ちどうさま」
と盆に載せてきたビール瓶を二本、 龍一と主人のあいだに置き、 小魚を火に炙ったつまみを盛った小皿を、 龍一と主人それぞれの前に置く。
そして龍一に向かって、
「お湯の加減はどうでしたか」
と白々しく訊ねる。
ああ、 と龍一は瞬間まごついたが、 すぐに体勢を立て直して、
「いやあ、 いいお湯でした。日本に帰ってきたような気分になって、 つい長湯をしてしまいました」
と見え透いた世辞を言う。もちろん宿の主人に聴かせるために。
女将は主人から見えない角度に躰の向きを変えて、 龍一に秋波を送る。
直接肉を交えなくても、 男の肌に触れながら心情を吐露したことで、 情を交わした気になっているような女の強かさに、 龍一は感心しながら、 女のほうがこういうことには度胸が据わって、 見境がなくなるから恐いのだ、 と女将の視線を外して、 龍一はそれには知らぬ振りをしたが、 気持ちは充分女将に届いていると思う確信はあった。
それは女将の声に反映していて、 マジックラブポーション(男女共用)
「主人の自慢の浴槽ですから」
と言う声の響きが、 弾んで聴こえた。
誰が岩尾で、 誰が小笠原なのか、 龍一にはわからなかったが、 一風呂浴びて居間に出てきたものが、 それとなく目礼するのに応えながら、 山口が前後の脈絡もなく話して聴かせる体験談に、 ほうとか、 ははあと相槌を打っているうちに、 女将と、 初老の日本人の賄い婦だろうとわかる女と、 若い黒人の娘が、 つぎつぎに味噌汁や煮魚やジャガイモの煮ころがしやら、 夕食の料理と飯櫃やらを運び出してきて、 マカ【MACA】まか たちまち居間が食堂に変わってしまう。
「するとアリアンサを創った永田稠という人と同じようなお考えで」
「そういえばあんたも長野県ということだけど、 どうしてアリアンサに入らずに隣のアラモに入ったの」
「アリアンサはクリスチャンの集団地だと聴きましたもので、 儂は西洋の宗教にはどうも馴染めませんから」
知らなかったというのが恥ずかしくて、 龍一は理由をこじつける。
「ああ、 そう、 そういうはっきりした考えを持ってるのなら仕方ないよね、 俺もああいうインテリぶったやつの大ぜいいるところは好かんのだ。長野県人の悪口を言うわけじゃないよ、 あんたといっしょで、 キリスト教ちゅうのが好かんのよ。それにあんた、 あそこは全部お膳立てが出来ていて、 開拓の苦労をしとらん人ばかりじゃろ、 厳しい状況になったときには耐えられなくて、 文句たらたら出てゆくものが多いんだ。結局永田の立派な御託宣が活かされておらんということだな」
山口は、 龍一がキリスト教者の集団地だから入らなかったという理由を聴いたからだろう、 邦字新聞が揶揄した記事を、 そのまま鵜呑みにしているようなことを言った。
龍一は、 ハーバルビビッドライズ みずからが出任せに言った理由が原因の、 山口の発言だったから、 反発もできずに受け入れるしかなかったが、 やはり長野県人の悪口を言われているのだ、 と思って気分はよくなかった。
すべてのことに公平でなければならない新聞人からして、 日本人の島国根性という心の狭量さを剥き出しにして、 人の手柄を認めたくない揶揄的な記事を書くのだから、 一般のものがそれを見習っても仕方がないだろう。
「岩尾さん、 小笠原さん、 宮本くん、 早く風
呂に入ってくださいよ」
女将が呼ばわる声が、 居間まで聴こえてきて、 無人のように静かだった旅館のなかが、 急に活気づくのが感じられた。
女将は部屋の戸ごとに声を掛けてきたのだろう、 呼ばわる声が途切れたところで、 居間に姿を見せ、 にこにこしながら、
「はい、 ハーバルビビッドライズ お待ちどうさま」
と盆に載せてきたビール瓶を二本、 龍一と主人のあいだに置き、 小魚を火に炙ったつまみを盛った小皿を、 龍一と主人それぞれの前に置く。
そして龍一に向かって、
「お湯の加減はどうでしたか」
と白々しく訊ねる。
ああ、 と龍一は瞬間まごついたが、 すぐに体勢を立て直して、
「いやあ、 いいお湯でした。日本に帰ってきたような気分になって、 つい長湯をしてしまいました」
と見え透いた世辞を言う。もちろん宿の主人に聴かせるために。
女将は主人から見えない角度に躰の向きを変えて、 龍一に秋波を送る。
直接肉を交えなくても、 男の肌に触れながら心情を吐露したことで、 情を交わした気になっているような女の強かさに、 龍一は感心しながら、 女のほうがこういうことには度胸が据わって、 見境がなくなるから恐いのだ、 と女将の視線を外して、 龍一はそれには知らぬ振りをしたが、 気持ちは充分女将に届いていると思う確信はあった。
それは女将の声に反映していて、 マジックラブポーション(男女共用)
「主人の自慢の浴槽ですから」
と言う声の響きが、 弾んで聴こえた。
誰が岩尾で、 誰が小笠原なのか、 龍一にはわからなかったが、 一風呂浴びて居間に出てきたものが、 それとなく目礼するのに応えながら、 山口が前後の脈絡もなく話して聴かせる体験談に、 ほうとか、 ははあと相槌を打っているうちに、 女将と、 初老の日本人の賄い婦だろうとわかる女と、 若い黒人の娘が、 つぎつぎに味噌汁や煮魚やジャガイモの煮ころがしやら、 夕食の料理と飯櫃やらを運び出してきて、 マカ【MACA】まか たちまち居間が食堂に変わってしまう。
バイアグラ+レビトラ(levitra)+シアリス Cialis わざ
龍一が浴室から出て、 火照った顔を擦りながら広間にゆくと、 山口が大きなテーブルの端に座っていて、 和やかな視線で迎えたから、 女将が浴室で言い寄ってきたことを勘づかれてはいなかったんだ、 とほっとする。
ほっとしたあと、 にやりとする。あの大胆不敵な女将の行動に煽られて、 あわや崩れそうになった情欲が、 まだ熾き火を消していないのに、 その女の亭主の前に顔を晒すことの面映さ、 疚しさと、 レビトラ(levitra)100mg*8カプセル それが故の居直りは、 男冥利に尽きるものなのだ。
女遊びの最高は、 人妻を盗むことに尽きるのだから、 いまにおまえの女房を寝取ってやるぞ、 という密かな挑戦状を突きつけるときの気持ちほど、 どきどきと脈打つ高揚感はほかにないだろう。そんなどす黒い情念を隠し持っていながら、 女の亭主と談笑できる勇気は小さいものでも、 大きな城を攻略するほどの価値があると思ってきた。
今またそんな予感がして、 いっそう火照ってくる顔を、 ずるっ、 と撫でて、
「いい湯を頂戴しました」
と龍一が、 ことさらに声の調子を明るくして言うと、
「この宿で自慢できるのは、 あの風呂だけですからなあ」
と山口は、 初対面のときの無愛想な、 という印象は、 そう惟ったこちらのほうが間違っていたらしい、 レビトラ(levitra)20mg*30錠 モチベーター(Motivator) と思うほどの打ち解けた表情で迎えた。
「いやあ、 ほんとうにご立派な浴室で」
そうは言ったが、 龍一は浴室の立派さなどには、 それほど気がつかなかったのだ。あまりにも女将の大胆な行動と、 甘い言葉に幻惑されて、 ゆっくり浴室を吟味するゆとりなどなかったのだから。
「あの浴槽は、 バイアグラ+レビトラ(levitra)+シアリス Cialis わざわざ日本から取り寄せたものでね、 あんな桧はブラジルにはありませんからなあ」
「そうでしょう、 贅沢な木目で、 なんとも肌触りが違います」
龍一は調子を合わせているが、 桧の木目がどうだったか、 肌触りがどうだったかの記憶もなかった。
「木曽ですよ、 あれは」
「ああ、 木曽ですか」
「木曽の桧は匂いが違いますからなあ」
「そうです、 木曽の桧は肌合いが違います」
「内藤さんは地元だから、 そのほうには詳しいでしょ」
「いや、 蚕のことほどには」
「どうです、 湯上がりにビールでも」
「あ、 ビールがありますか」
「ビールは日本のものより、 こちらのもののほうが、 コクがありますよ」
「酒類のほうは弱くてあまり知りませんが、 湯上がりのビールの旨さはまた格別ですからなあ」
龍一はそう言いながら、 知らぬは亭主ばかりなりというほうが、 もっと格別な味がするものだと、 人妻と情を交わしたすぐあとで、 その女の亭主と肝胆相照らす会話を交わすことの愉快を味わった過去を、 思い出していた。
「おおい、 節子、 ビールだ」
ほっとしたあと、 にやりとする。あの大胆不敵な女将の行動に煽られて、 あわや崩れそうになった情欲が、 まだ熾き火を消していないのに、 その女の亭主の前に顔を晒すことの面映さ、 疚しさと、 レビトラ(levitra)100mg*8カプセル それが故の居直りは、 男冥利に尽きるものなのだ。
女遊びの最高は、 人妻を盗むことに尽きるのだから、 いまにおまえの女房を寝取ってやるぞ、 という密かな挑戦状を突きつけるときの気持ちほど、 どきどきと脈打つ高揚感はほかにないだろう。そんなどす黒い情念を隠し持っていながら、 女の亭主と談笑できる勇気は小さいものでも、 大きな城を攻略するほどの価値があると思ってきた。
今またそんな予感がして、 いっそう火照ってくる顔を、 ずるっ、 と撫でて、
「いい湯を頂戴しました」
と龍一が、 ことさらに声の調子を明るくして言うと、
「この宿で自慢できるのは、 あの風呂だけですからなあ」
と山口は、 初対面のときの無愛想な、 という印象は、 そう惟ったこちらのほうが間違っていたらしい、 レビトラ(levitra)20mg*30錠 モチベーター(Motivator) と思うほどの打ち解けた表情で迎えた。
「いやあ、 ほんとうにご立派な浴室で」
そうは言ったが、 龍一は浴室の立派さなどには、 それほど気がつかなかったのだ。あまりにも女将の大胆な行動と、 甘い言葉に幻惑されて、 ゆっくり浴室を吟味するゆとりなどなかったのだから。
「あの浴槽は、 バイアグラ+レビトラ(levitra)+シアリス Cialis わざわざ日本から取り寄せたものでね、 あんな桧はブラジルにはありませんからなあ」
「そうでしょう、 贅沢な木目で、 なんとも肌触りが違います」
龍一は調子を合わせているが、 桧の木目がどうだったか、 肌触りがどうだったかの記憶もなかった。
「木曽ですよ、 あれは」
「ああ、 木曽ですか」
「木曽の桧は匂いが違いますからなあ」
「そうです、 木曽の桧は肌合いが違います」
「内藤さんは地元だから、 そのほうには詳しいでしょ」
「いや、 蚕のことほどには」
「どうです、 湯上がりにビールでも」
「あ、 ビールがありますか」
「ビールは日本のものより、 こちらのもののほうが、 コクがありますよ」
「酒類のほうは弱くてあまり知りませんが、 湯上がりのビールの旨さはまた格別ですからなあ」
龍一はそう言いながら、 知らぬは亭主ばかりなりというほうが、 もっと格別な味がするものだと、 人妻と情を交わしたすぐあとで、 その女の亭主と肝胆相照らす会話を交わすことの愉快を味わった過去を、 思い出していた。
「おおい、 節子、 ビールだ」
レビトラ(levitra)100mg*30錠 外に発散
「まあ、 お上手に言って、 待ってるのは桑の葉じゃなくて奥さんでしょう、 どうやら里心がついてきたんじゃありませんか」
「いやいや、 ここにこのまま長逗留したいくらいのものですが、 そんなことをすると、 家に帰って蚕種の入った箱の蓋を開けたとたんに白い煙が立ち上がって、 みるみる白髪のお爺さんということになりそうですから」
「ほほほほほ、 そんなことになったらわたしじゃなく、 奥さんが腰を抜かしてしまいますわよ」
昨夜狂った相手の男の、 妻のことを口にして平気で居れる女の気持ちを、 龍一は測り兼ねる。
「儂の家には奥さんなんぞというものは居りませんよ、 あれは田舎の婆さんです」
そう言うのは龍一の本音だった。どう考えても、 チヨを奥さんというような存在に思ったことなど、 かつてなかった。龍一にとってのチヨは、 みずからの身の回りの世話をする小間使いでしかなかったのだ。
「じゃあ、 わたしは」
「女将はもう、 この旅館の女将だし、 山口さんの妻だけじゃなくて、 儂の愛人になりましたからなあ」
「まあ、 ほんとう、 ほんとうにそう想ってくれますの」
「想うんじゃなく、 この躰がもう忘れられなくなっていますよ」
「うれしいわ、 忘れずにときどき慰めに来てくださいね」
「ああ、 しっかり耳の穴を掃除して、 フォリゲンスプレー(Folligen) 女将の色話を聴きに来ますよ」
「耳の穴の掃除なら、 奥さんにさせないで、 わたしにさせてくださいよ」
女将にも少しは嫉妬があるのだろうか、 と龍一はおかしかった。
「ああ、 それじゃあ、 しっかり耳の垢を溜めて来ますか」
「耳の垢も躰の垢もどこの垢でも、 わたしなら舐めるように掃除させてもらいますよ」
こんなに短い時間のなかで、 これほど深く溶け合った女が過去にいただろうかと、 龍一は思い巡らせたが、 思い当たる女は居なかった。
龍一には、 チヨを裏切ることに対する罪悪感は、 ずっと以前からなかった。浮気するのは男の甲斐性というようなありきたりな考え方からではなく、 チヨを隷属的な立場にあるものという階級意識がしっかり根づいていたからだった。
そとに愛人をつくるのは対等な関係の女性を求めてのことであって、 龍一からの生活補助を当てにする隷属的な妾を囲う旦那の心境からではなかった。
松本に囲っていた女でも、 フィンペシア(Finpecia) 1mg 彼女自身は囲われているという観念はなかっただろう。
置屋の娘だったのが、 龍一といい仲になるとすぐ、 自立したいと言い出して、 家を用意してやると、 一つ家のなかで、 小唄と茶道という裏表の教室を開いて、 龍一に向かって、 小遣いに不自由してたら言ってくださいというほどで、 生活費を当てにするような女ではなかったのだ。
龍一は、 経済的に男を頼りにするような女を好きになれなかったのだから、 弟の妻を尻軽女だなんぞと悪口言っていても、 龍一自身が意識せずに、 新しい時代の女を求めていたことになる。
女将は、 そういう龍一の女性関係の条件を満たす存在だったから、 もぞもぞと躊躇する
こともなく愛人にする気持ちになったのに違いなかった。
帰りの列車に乗っても、 疲れが出て眠ることなく、 陽光は黄色く見えて眩しかったが、 レビトラ 心の張りはかつて覚えたことのない昂ぶりで、 みずからの体躯が、 一回り大きくなった感じを受けた。
他人には女遊びの醍醐味などわからないのだ。これが人生の活力なのに、 と龍一は躰じゅうに満ち溢れてくる遣る気が、 レビトラ(levitra)100mg*30錠 外に発散している感じで、 辺りの乗客にそれを見せびらかしたいほどだっ
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フェロモン香水" ちょっとしみじみした表情になった
「まあ、 もうこんなに元気を取り戻して」
と女将は眼を瞠ったが、
「うれしい」
と言いざま、 肉のたっぷりついた短い両手両足でむしゃぶりついてきて、 テスティノル(TESTINOL) 龍一の腰の動きを不自由にさせるほどの力を加えた。
龍一は、 予想に違わぬ女将の豊満な肉に絡め取られ、 彼女の貪欲さに少々閉口しながらも、 デュレックス 自分自身も久しぶりに、 たっぷりとした女の肉を思う存分貪り、 愉悦の園をさ迷うことができ、 後朝になっても飽きない風情だった。
ほんとうに男と女のあいだには、 ともすれば虚言になってしまうような愛の言葉など要らない、 行為さえあればそれで充分だとでもいうように、 女将は、
「ああ、 これで日ごろの鬱憤が霽れました」
とだけ言い残して、 朝の用意をしなければ、 と、 ほのぼのと明け染めてきている涼気のなかへ、 慌てふためき飛び出してゆくまで絡みつづけた。
女将が離れの戸口をすっと抜け出して、 あとは慌しく露地を走って行ったあと、 龍一も気持ちの昂ぶりがなかなか消えなくて眠れないように思ったが、 ブラジルに来てからはじめて狂った修羅の疲れからだろう、 知らぬ間に睡魔に絡め捕られて、 目覚めたときは、 予定していた朝の列車には間に合わない時間だった。
女将が引き戸をそっと開けて顔だけ覗かせ、 少しはにかみながら、
「ゆっくり寝られたようですね、 カフェー持ってきましょうか」
と問う。
「旦那さんは」
龍一が訊ねると、 女将は頸を竦めて、
「忙しいんですよ、 デュレックス プレイ ウォーム あの人は。わたしのことなど思い出しもしないように、 ピンガを一杯引っかけて、 日本人会に出かけていきましたよ」
と、 かえってそれが幸いだという悪戯っぽい表情だった。そのあとで、
「気になりますか、 内藤さんは案外純情なんですね」
とからかう女将のほうが、 この道にかけては海千山千の古強者のようだった。
「わたしは腰がふらついて、 賄いのおばさんに勘づかれなかったかしらと、 おばさんの顔をときどき見るものだから、 何かあての顔についてますかって、 おばさんが自分の顔を撫で回したものだから、 黒人の女中がけらけら笑ったりして」
照れくささをおしゃべりで誤魔化そうとでもするかのように、 早口にぬけぬけとしゃべりつづける。
朝食を離れの部屋に運んできて、 龍一が食事をするあいだも、
「ほんとうに躰がすっきりしました。あなたがあんまりお上手だから、 わたし何人もの男の人を経験していても、 あんなに乱れたことははじめてなんですよ。山口が還暦前からもう役立たずだったから躰が疼いて眠れない夜がつづいていたんです」
と言ったときには、 その寂しかった夜毎が思い出されたのだろう、 フェロモン香水" ちょっとしみじみした表情になった。
男にとっては、 しっかり射精してしまった
あとには煩わしささえ覚える閨の話を、 女将は臆面もなくつづけるのには閉口したが、 龍一は、 いかにも女将の話が朝食の味を引き立てるかのように、 旨そうに食べて、 なんども飯椀を差し出すほどの食欲だった。
「儂もこんなに満足したことはなかったから、 この気分が薄れないうちに家に帰って、 蚕の世話をしなければ、 桑の葉が手持ちぶさたにしてるだろう」
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ゲイン (Rogaine) 5% 「わたしが妊娠したら困
と洩れた声が、 松本に残してきた節子の声と、 いまここにいる節子の声がダブったあと、 女将の気だるい恍惚感のなかで、 うわ言のように言う声に丸まる。
「ええっ」
龍一が、 驚くように洩らした声がおかしかったのだろう、 ロゲイン (Rogaine) 5%
「わたしが妊娠したら困りますかぁ」
と甘えた声になって、 女将は悪戯っぽい眼を流す。
「いや、 妊娠させるようなことをしておいて、 困るなどとは言わないけど」
龍一が負け惜しみを言うのを笑ったあと、
「東京で、 大学教授の家に女中奉公していた小娘のときに、 大学教授を誘惑して、 虜にして、 プロコミル スプレー さんざん困らせたんだけど、 一度も妊娠しなくて、 プレイボーイ(早漏防止) 大学教授の奥さんから現場を抑えられるまで、 つづけたんですよ。そこを追い出されてから、 旅館の女中から、 仲居になって、 何人の男に抱かれたかわからないほど遊んだんだけど、 わたしは石女なんでしょう。ご安心なさってください」
「女将が、 儂に心を許してそう言うんだったら、 儂も話すが、 若いときからさんざん女遊びにうつつを抜かしてきましたがね、 一度も妊娠させたことがなかったから、 性欲は人一倍強いけど、 精子のほうは弱いんじゃないかなあ」
龍一は、 女将に対応して過去を話したとき、 あ、 と何かが胸のうちら側で弾けた。
龍一は、 慌てて頸を振る。そのことだけは考えたくなかったのだ。柳子が誰の子か、 などとは。
自分自身が女の上を渡り歩いているうちに、 チヨの寝間に侵入していって、 彼女を妊娠させ得る男が、 大家族の家のなかには、 わんさと居るのだ。まだ元気だった祖父。父。叔父。弟。従兄。そして使用人の誰か。誰がチヨの上に乗っていっても、 チヨなら一切声を立てず、 暴行が終るまでじっと耐え忍んでいるだろう。そして誰の子を孕んでも、 これは俺の子ではない、 と言えない立場にいるのが儂なのだ。外で遊んでくるたびに、 チヨも抱いてきたのだから。精液など残って居そうもなくても。
「わたしも性欲が女だてらに強いもんですから、 元気のなくなった宿六に相手してもらえなくて、 ドイツ情人(粉劑) 今日の今夜まで身悶えていたんですよ。だからといって、 誰でもいいってもんじゃありませんから困るんですよね」
チヨにそんなことはなくても、 チヨを抱きたいと思っていた男がいなかった、 などとは考えられなかったのだから。
「うん、 それは儂も同じだよ。女なら誰でもいいってことはないんだ」
龍一の声が震える。
「よかった。あなたと意気投合できて」
女将がまた抱きついてきて、 龍一の妄想を打ち消してしまったから救われた。
「うん、 儂も女将とこんな仲になれてうれしいよ」
「お互い、 死んだら地獄に落ちて、 灯心で竹の根掘らされる身ですねえ」
そうだろう、 その通りだろう。人間世界は曼荼羅模様なんだ。龍一は苦笑するしかなかった。
ここで歓喜に絶叫しても結界のうち、 娑婆に聴こえはしないだろうけれど、 何十メートルも離れていない一つ屋根の下で亭主が寝ているのもお構いなく、 宿の客と寝るようなことをするのだから、 一筋縄で括れる女ではないことを、 肝に銘じていなければと龍一は、 油断はしていなかった。
チヨとはそんなことは一度もなかったが、 しばらく寝物語をしているうちに、 射精して萎びていたものがまた勃起してきて、 龍一が女将の上に乗ってゆくと、
「ええっ」
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龍一は、 慌てて頸を振る。そのことだけは考えたくなかったのだ。柳子が誰の子か、 などとは。
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チヨにそんなことはなくても、 チヨを抱きたいと思っていた男がいなかった、 などとは考えられなかったのだから。
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そうだろう、 その通りだろう。人間世界は曼荼羅模様なんだ。龍一は苦笑するしかなかった。
ここで歓喜に絶叫しても結界のうち、 娑婆に聴こえはしないだろうけれど、 何十メートルも離れていない一つ屋根の下で亭主が寝ているのもお構いなく、 宿の客と寝るようなことをするのだから、 一筋縄で括れる女ではないことを、 肝に銘じていなければと龍一は、 油断はしていなかった。
チヨとはそんなことは一度もなかったが、 しばらく寝物語をしているうちに、 射精して萎びていたものがまた勃起してきて、 龍一が女将の上に乗ってゆくと、
2011年11月28日星期一
虚弱体質 ここの眺めも
「お父ちゃ、 ちょっとあそこの高いところに行って見ないぃ」
と誘う。
昨日は簡単な夕食もしないで寝てしまったのだから、 朝寝坊の柳子も陽が昇るか昇らないかというころに起き出して、 気分が晴れ晴れしていたのだ。
龍一と柳子が、 コーヒーを喫むまえに朝露を踏んで登ってきた高台は、 朝陽を受けて金色の粉が舞っているように見えた。
隣は牧場だった。その奥にある雑木林がこちらの土地まで伸びてきている辺りが、 一段高くなっていて、 そこからだと自分らの土地はもちろん、 隣の牧場も、 牧場の向こうの風景もずっと眺望できて、 柳子の言う「全体的把握」がたしかにできる。
海抜七百メートルあまりの海岸山脈の上にある高原都市サン・パウロから、 西に向かってくると、 どんどん標高は低くなっているのだけれど、 周旋屋の山田の話によると、 この辺りはまだ標高四百五十メートルくらいあるということだったから、 南回帰線という誰が線引きをしたのか知らないけれど、 地図で視る線の内と外の違いが生物学的な相違とは思えないから、 気候の相違なのだろう。
自分自身が回帰線の真下に住むようになってわかったことだけれど、 それもあいまいなものだった。そのあいまいさのなかの、 亜熱帯に含まれているといっても、 夜間や早朝はひんやりした空気を肌に感じる。
それは、 ヘンリー・ミラーの小説のあいまいさと、 虚無感に通ずるような気がする。
「ねぇ、 ほれ、 お父ちゃ、 眩しいくらい光ってるものがあるけど、 あれなにかしら」
「ああ、 あれは柳子、 この土地を視にきたときに乗ったノロエステ延長線の鉄道線路が光ってるんだ」
「ふうん、 あの方角だったの、 昨日線路に沿った道を馬で来たのに、 勃起不全 ぜんぜん方角がわかんなくなってた」
「おまえはもともと方向音痴だから、 あんまり独りで出歩くんじゃないぞ、 帰って来れなくなるから」
龍一は、 この機会をつかんで柳子のひとり歩きを牽制する。自分自身が、 じっと家のなかにおれない性格であることは棚に挙げて、 じっとして何時間もひとところに座っておれない性質の娘のことを、 危ぶんでいる。
「だいじょうぶよ」
「おまえはなんでも、 勃起障害 だいじょうぶよ、 って言うけど、 油断は禁物だぞ、 ここは外国なんだから」
「外国でも東西南北は同じでしょ」
「そうとも言えん、 日本とは逆さまに立っているんだ、 なにもかも逆さまに見えているんだぞ」
「まさか」
陽光のせいだろう、 水平に近い陽射しが縞模様をつくって流れていた。空気の流れるのまで視えている、 と惟った。空気が無色透明だというのは、 やはり嘘だ、 無色透明なら視えるはずないもの、 とまた女学校のときのこだわりを持ち出して、 強情なやつだ、 と言った教師に勝った気分になる。
「そのまさかが起こるんだ、 ガイジンはな、 日本人とは物の考え方が逆さまなことが往々にして在るんだから」
お父ちゃもこだわってる、 と惟っておかしかった。
「お父ちゃ若いとき、 ガイジンとも恋愛したことあるんだってね」
藪から棒が出て、 龍一は、 眼を剥く。
「ばか、 関係ないだろ」
照れ隠しに、 ばかっ、 と言ったけれど、 ばかなことをした過去が、 それほど嫌悪感なく立ち上がってきて、 苦笑したつもりが、 にやけた笑いになってしまう。
ガイジンなんて、 と思いながら、 勃起力減退 日本人女性にはないバタ臭い魅力に溺れていったことを、 後悔はしていなかった。
「へへえ、 お父ちゃ、 照れちゃって」
「親をからかうな」
龍一の視線は、 茫洋として、 地球の反対側まで伸びているようだった。
「線路の向こうのほうは、 水蒸気があがってて、 霞んで視えないわねぇ」
「ああ、 あれはチエテ河という大きな河が流れている辺りだろう、 柳子の言うとおり、 あれは河から水蒸気が昇ってるんだよ」
「広いわねえ、 虚弱体質 ここの眺めも」
「ああ、 ブラジルはどこへ行っても、 眺めは広いさ」
ふたりの声が、 口から出るとまとまりがなくなり、 ぼやけてしまう風景の広がりだった。
すでに鶏は時を告げるのを終わって、 せっせと餌を漁っているだろう時間に、 鶏にも朝寝坊がいるらしく、 どこかで間延びした、 まだ啼きなれていない声で啼く鶏がいた。
それにつづいて、 どこで聴いても、 悲痛な声だといつも思う驢馬の鳴き声が、 風に乗ってくる。
鶏の啼き声は、 生きているぞ、 という健気な声だけれど、 驢馬の鳴き声は、 生きていることの辛さを訴えるようで、 いつ聴いても身につまされる。
鶏の声はわたしの声で、 驢馬の声は鷹彦さんの声だ、 と唐突に想う。
すでに点々と畑に出ている人のかげがあった。たいていの姿が腰をまげ、 土に向かってなにかを話しかけているように視える。そうでなければ土は、 人に物を与えてくれないのだと思えるほどの実感が、 遠くからでも伝わってくる。
と誘う。
昨日は簡単な夕食もしないで寝てしまったのだから、 朝寝坊の柳子も陽が昇るか昇らないかというころに起き出して、 気分が晴れ晴れしていたのだ。
龍一と柳子が、 コーヒーを喫むまえに朝露を踏んで登ってきた高台は、 朝陽を受けて金色の粉が舞っているように見えた。
隣は牧場だった。その奥にある雑木林がこちらの土地まで伸びてきている辺りが、 一段高くなっていて、 そこからだと自分らの土地はもちろん、 隣の牧場も、 牧場の向こうの風景もずっと眺望できて、 柳子の言う「全体的把握」がたしかにできる。
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それは、 ヘンリー・ミラーの小説のあいまいさと、 虚無感に通ずるような気がする。
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「外国でも東西南北は同じでしょ」
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ガイジンなんて、 と思いながら、 勃起力減退 日本人女性にはないバタ臭い魅力に溺れていったことを、 後悔はしていなかった。
「へへえ、 お父ちゃ、 照れちゃって」
「親をからかうな」
龍一の視線は、 茫洋として、 地球の反対側まで伸びているようだった。
「線路の向こうのほうは、 水蒸気があがってて、 霞んで視えないわねぇ」
「ああ、 あれはチエテ河という大きな河が流れている辺りだろう、 柳子の言うとおり、 あれは河から水蒸気が昇ってるんだよ」
「広いわねえ、 虚弱体質 ここの眺めも」
「ああ、 ブラジルはどこへ行っても、 眺めは広いさ」
ふたりの声が、 口から出るとまとまりがなくなり、 ぼやけてしまう風景の広がりだった。
すでに鶏は時を告げるのを終わって、 せっせと餌を漁っているだろう時間に、 鶏にも朝寝坊がいるらしく、 どこかで間延びした、 まだ啼きなれていない声で啼く鶏がいた。
それにつづいて、 どこで聴いても、 悲痛な声だといつも思う驢馬の鳴き声が、 風に乗ってくる。
鶏の啼き声は、 生きているぞ、 という健気な声だけれど、 驢馬の鳴き声は、 生きていることの辛さを訴えるようで、 いつ聴いても身につまされる。
鶏の声はわたしの声で、 驢馬の声は鷹彦さんの声だ、 と唐突に想う。
すでに点々と畑に出ている人のかげがあった。たいていの姿が腰をまげ、 土に向かってなにかを話しかけているように視える。そうでなければ土は、 人に物を与えてくれないのだと思えるほどの実感が、 遠くからでも伝わってくる。
コンドーム 料亭の仲居と寝ること
コンドーム そんな不安を、 経験的に知っていたからだろう、 アドルフ牧場の北側の、 小さい日本人村から、 村長さんといった風格の、 小柄だけれど恰幅のある坂上という老人が、 龍一らが引っ越してきたのをちゃんと知っていて、 龍一が挨拶に行かねばと思っていた矢先に、 向こうから挨拶にきた。
「これは、 これは、 ようこそ儂らの村においでなされました。同胞が一人でも多くなるのは心強いことです。儂はアラモ植民地の日本人会の会長を承っております坂上です」
旧い移民に共通の、 自己顕示欲が勁くて、 新移民に先輩面をするのをよろこびとしている様子が、 ありありと見える老人だった。
「あ、 どうも。内藤龍一と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。こちらからご挨拶にと思っていたところです」
「いやいや、 新しいお方は勝手がわからず、 まごつかれますでな。どちらからお出でなされましたかな」
「リンスのスイス人耕地から」
「あ、 いや、 ご出身は」
「ああ、 長野県です」
「ほう、 コンドーム なるほど長野で。というとお隣のアリアンサのご親戚ですな」
「えっ」
龍一が、 坂上老人の言う、 お隣のご親戚などということが、 すぐには呑み込めなくてきょとんとしたから、
「ああ、 ご存じではなかったですかな。お隣のアリアンサ移住地は、 長野県の県庁の肝煎りででけた植民地ですよ」
坂上老人は、 龍一のなにも知らない様子を嗤ったわけではなかったが、
「ほう、 そうでしたか」
と龍一は言いながら、 そんなことをまったく知らなかったみずからの迂闊さを、 自覚しないわけにはいかなかった。
リンスの近くの購入予定地が譲渡証書に不備があって、 売買契約に暇どるということだったから、 急遽こちらのアラモ植民地の一区画に買い替えたのだけれど、 それにしても隣に長野県の肝煎りでできた植民地があったということを、 まったく知らずに移転してきたのだから、 そののんきさには我ながら呆れた。
隣といっても、 雑木林の向こう側にあって、 避妊薬 視野に入らなかったとはいえ、 あのとき、 どうして周旋屋の山田は、 それを教えなかったのだろうか、 教えるとこちらが心変わりし、 商談が潰れるのを懼れ、 知らぬ顔をしたのだろうか。
龍一は、 とうぜんチヨと柳子に、 アリアンサ植民地が雑木林の向こう側にあって、 それが信州人の造ったものだということは明白になるのだから、 みずからの迂闊さを、 周旋屋のせいにしたかった。
気に入っていたグァインベーの土地がだめになったことと、 早く移り住む場所を確保して安心を得たいと思う焦りがあったから、 牧場のほかは、 みんな日本人の農地だから、 と聴いていながら、 挨拶はここに移ってからにしよう、 と思っただけで、 周囲の調査を怠った酬いだと思った。
しかし、 それによって損失を被ったわけでもないし、 あのとき急いでアラサツーバの街に出て、 土地を手に入れたうれしさから散財して、 そのついでのことのように、 はぁるかぶりの浮気心に唆され、 コンドーム 料亭の仲居と寝ることができた想い出の甘さが、 いまも残っていたから、 いつまでもその失敗には拘らずに、 忘れることにした。
「この牧場の向こう側にある雑木林を抜けてゆくと、 すぐアリアンサ移住地に繋がっとりますが、 そのとっかかりのところに、 田澤ちゅう世話好きなお人がおられますよ。いちど行ってみられたら。はっきり申し上げておきますが、 儂は、 あの人らのようなクリスチャンではないので、 アリアンサ移住地とは付き合いかねますがな」
「あのぉ、 おじさん」
唐突に柳子が声を挟む。
「これは、 これは、 ようこそ儂らの村においでなされました。同胞が一人でも多くなるのは心強いことです。儂はアラモ植民地の日本人会の会長を承っております坂上です」
旧い移民に共通の、 自己顕示欲が勁くて、 新移民に先輩面をするのをよろこびとしている様子が、 ありありと見える老人だった。
「あ、 どうも。内藤龍一と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。こちらからご挨拶にと思っていたところです」
「いやいや、 新しいお方は勝手がわからず、 まごつかれますでな。どちらからお出でなされましたかな」
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「あ、 いや、 ご出身は」
「ああ、 長野県です」
「ほう、 コンドーム なるほど長野で。というとお隣のアリアンサのご親戚ですな」
「えっ」
龍一が、 坂上老人の言う、 お隣のご親戚などということが、 すぐには呑み込めなくてきょとんとしたから、
「ああ、 ご存じではなかったですかな。お隣のアリアンサ移住地は、 長野県の県庁の肝煎りででけた植民地ですよ」
坂上老人は、 龍一のなにも知らない様子を嗤ったわけではなかったが、
「ほう、 そうでしたか」
と龍一は言いながら、 そんなことをまったく知らなかったみずからの迂闊さを、 自覚しないわけにはいかなかった。
リンスの近くの購入予定地が譲渡証書に不備があって、 売買契約に暇どるということだったから、 急遽こちらのアラモ植民地の一区画に買い替えたのだけれど、 それにしても隣に長野県の肝煎りでできた植民地があったということを、 まったく知らずに移転してきたのだから、 そののんきさには我ながら呆れた。
隣といっても、 雑木林の向こう側にあって、 避妊薬 視野に入らなかったとはいえ、 あのとき、 どうして周旋屋の山田は、 それを教えなかったのだろうか、 教えるとこちらが心変わりし、 商談が潰れるのを懼れ、 知らぬ顔をしたのだろうか。
龍一は、 とうぜんチヨと柳子に、 アリアンサ植民地が雑木林の向こう側にあって、 それが信州人の造ったものだということは明白になるのだから、 みずからの迂闊さを、 周旋屋のせいにしたかった。
気に入っていたグァインベーの土地がだめになったことと、 早く移り住む場所を確保して安心を得たいと思う焦りがあったから、 牧場のほかは、 みんな日本人の農地だから、 と聴いていながら、 挨拶はここに移ってからにしよう、 と思っただけで、 周囲の調査を怠った酬いだと思った。
しかし、 それによって損失を被ったわけでもないし、 あのとき急いでアラサツーバの街に出て、 土地を手に入れたうれしさから散財して、 そのついでのことのように、 はぁるかぶりの浮気心に唆され、 コンドーム 料亭の仲居と寝ることができた想い出の甘さが、 いまも残っていたから、 いつまでもその失敗には拘らずに、 忘れることにした。
「この牧場の向こう側にある雑木林を抜けてゆくと、 すぐアリアンサ移住地に繋がっとりますが、 そのとっかかりのところに、 田澤ちゅう世話好きなお人がおられますよ。いちど行ってみられたら。はっきり申し上げておきますが、 儂は、 あの人らのようなクリスチャンではないので、 アリアンサ移住地とは付き合いかねますがな」
「あのぉ、 おじさん」
唐突に柳子が声を挟む。
性欲欠乏 日本人馴れしていて
チヨのよく透る声が、 射精障害 ちょうど西から吹いてくる風向きの加減もあってか、 静けさのせいか、 ずいぶん距離があると思うここまで届いた。
柳子がわかったという合図に、 手を振る。
「まずコーヒーの樹の手入れをして、 除草して、 横の畑を耕して、 玉蜀黍の種を播いて、 野菜はチヨに任し、 なあ、 柳子」
大雑把な計画を、 龍一が言うと、
「うん」
と返事をした柳子の声も、 早朝の陽光に映えて、 きりっ、 と切れ味が良かった。
こんなにしみじみと、 そして具体的なことを言う、 父のことばを聴いたのは、 はじめてではなかったか、 と柳子は胸のなかの膨らむのを快く覚える。
「まあまあ、 柳ちゃ、 お父ちゃも、 足元がびっしょり濡れて」
チヨの声にも、 温もりがある。
「採り入れどきだけ臨時雇いを入れて、 あとはぼつぼつ、 三人だけでやろう」
龍一が、 柳子との話のつづきに言うと、
「のんびりゆっくりでいいわよねぇ」
と龍一に似てのんきなくせに、 思い立ったことは、 すぐに実行しなければ落ち着いておれないという、 せっかちな柳子がそう言うのだから、 よほどゆったりした気分になっているのにちがいなかった。
農業は、 それを営利事業とせず、 みずからの生命をつないで行くための、 食物を作る労働だと考えれば、 気も躰も楽なものなのだ。
ましてブラジルは、 バナナとマンジョカさえ植えておけば、 あとはバナナの葉蔭で、 一年中寝ていても、 なんとか命をつないでゆけるという呑気な国なんだ、 とスイス人耕地に入ってから聴いた。
五アルケーレスの土地があれば、 家族が食べるだけの芋や玉蜀黍を植え、 何か換金できるものをつくって、 日用品を手に入れるだけのものくらい、 収穫して売るのに、 たいした覚悟もいるまいと思う。
ひどい旱がつづかないかぎり、 親子三人、 ひもじい思いもするまいと、 生来が呑気な龍一と、 龍一の血を受けた柳子の考えそうなことだった。
アラモ植民地は、 周囲の日本人植民地と少し事情が違って、 むかしポルトガル人がこの辺り一帯に大農場を経営していたのが没落したおり、 相続争いを解決するために売り出されたものだから、 当時の相場と比べてうんと格安だったので、 ドイツ人と黒人との混血児であるアドルフが半分を購入し、 避妊 あとの半分を五アルケーレスづつの小割にしたものを、 日本人が買って入植したのだということだった。
だから近隣はみな日本人ばかりで、 日本人村にガイジンが一家族住んでいるようなものだった。
周旋屋の山田が、 この辺りの地形をざっと書いた図面では、 龍一が購入した農地だけが、 その広大な牧場の南側に、 ヘルニアのようにぶら下がっていて、 あとは牧場の北側に日本人が入植しているという。
そんな理由から、 隣の牧場のアドルフは、 性欲欠乏 日本人馴れしていて、 龍一らが移転してきた日から、 なにかと親切にしてくれた。
「困ったことがあれば言ってくれ」
隣に新しい日本人が来たというので、 様子を見に来たアドルフが言ったが、 困ることといえば、 柳子の片言のポルトガル語だけが頼りで、 龍一もチヨも会話などできる状態ではなかったから、 隣同士の付き合いがスムーズにできるかどうか、 ということだった。
アラモ植民地は、 北にノロエステ延長線がチエテ植民地のほうに延びていて、 南にノロエステ変更線が三年ほどまえに完成し、 地の利は悪くなかったが、 西と東は雑木林に囲まれているから、 周囲とは独立した小規模の植民地に見えたうえに、 アドルフの牧場が大きな面積を占有していて、 避妊薬 その南側にぶら下がっている龍一の購入した土地だけが、 ほかの日本人たちと離れていたから、 まだ付近の様子がわからない今、 孤島に来たような不安はあった。
柳子がわかったという合図に、 手を振る。
「まずコーヒーの樹の手入れをして、 除草して、 横の畑を耕して、 玉蜀黍の種を播いて、 野菜はチヨに任し、 なあ、 柳子」
大雑把な計画を、 龍一が言うと、
「うん」
と返事をした柳子の声も、 早朝の陽光に映えて、 きりっ、 と切れ味が良かった。
こんなにしみじみと、 そして具体的なことを言う、 父のことばを聴いたのは、 はじめてではなかったか、 と柳子は胸のなかの膨らむのを快く覚える。
「まあまあ、 柳ちゃ、 お父ちゃも、 足元がびっしょり濡れて」
チヨの声にも、 温もりがある。
「採り入れどきだけ臨時雇いを入れて、 あとはぼつぼつ、 三人だけでやろう」
龍一が、 柳子との話のつづきに言うと、
「のんびりゆっくりでいいわよねぇ」
と龍一に似てのんきなくせに、 思い立ったことは、 すぐに実行しなければ落ち着いておれないという、 せっかちな柳子がそう言うのだから、 よほどゆったりした気分になっているのにちがいなかった。
農業は、 それを営利事業とせず、 みずからの生命をつないで行くための、 食物を作る労働だと考えれば、 気も躰も楽なものなのだ。
ましてブラジルは、 バナナとマンジョカさえ植えておけば、 あとはバナナの葉蔭で、 一年中寝ていても、 なんとか命をつないでゆけるという呑気な国なんだ、 とスイス人耕地に入ってから聴いた。
五アルケーレスの土地があれば、 家族が食べるだけの芋や玉蜀黍を植え、 何か換金できるものをつくって、 日用品を手に入れるだけのものくらい、 収穫して売るのに、 たいした覚悟もいるまいと思う。
ひどい旱がつづかないかぎり、 親子三人、 ひもじい思いもするまいと、 生来が呑気な龍一と、 龍一の血を受けた柳子の考えそうなことだった。
アラモ植民地は、 周囲の日本人植民地と少し事情が違って、 むかしポルトガル人がこの辺り一帯に大農場を経営していたのが没落したおり、 相続争いを解決するために売り出されたものだから、 当時の相場と比べてうんと格安だったので、 ドイツ人と黒人との混血児であるアドルフが半分を購入し、 避妊 あとの半分を五アルケーレスづつの小割にしたものを、 日本人が買って入植したのだということだった。
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周旋屋の山田が、 この辺りの地形をざっと書いた図面では、 龍一が購入した農地だけが、 その広大な牧場の南側に、 ヘルニアのようにぶら下がっていて、 あとは牧場の北側に日本人が入植しているという。
そんな理由から、 隣の牧場のアドルフは、 性欲欠乏 日本人馴れしていて、 龍一らが移転してきた日から、 なにかと親切にしてくれた。
「困ったことがあれば言ってくれ」
隣に新しい日本人が来たというので、 様子を見に来たアドルフが言ったが、 困ることといえば、 柳子の片言のポルトガル語だけが頼りで、 龍一もチヨも会話などできる状態ではなかったから、 隣同士の付き合いがスムーズにできるかどうか、 ということだった。
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体力の衰え しみじみと実感した
「ねぇ、 お父ちゃ、 なにもかもスイス人耕地とは違うわよ、 この風景には彩りがあっていいわねえ」
「そういえば、 向こうはコーヒー畑だけで、 多彩な彩りはなかったなあ」
「うん、 ここからの眺めは、 かたちがいかにも日本の田園風景に似て色彩が豊富だし、 ゆとりがあるものねえ」
柳子が言うことを、 早漏 龍一は感心しながら聴く。ブラジルに来て、 ずいぶんおとなになったものだ、 と思いながら。
そして龍一自身も、 赤道を越えたとき儂は変身したんだ、 と言ったのを、 その場限りの言い逃れではなく、 本気になってやらなければならないところにきているんだ。スイス人耕地で、 他人の指図のままに働いてきた一介の労働者の無責任さではおられなくなったぞ、 迂闊なことも言えないし、 懶惰な生き方もできないのだと思って、 心に重圧感が生じる。
柳子のように感覚的な、 漠然とした風景の受け止め方ではなく、 実質的に、 スイス人耕地よりこちらのほうが地味も地形もいいし、 もうしばらく手入れされていないからだろうコーヒーの樹が老木に視えるけれども、 よく観ると表面的な情景だけではなく、 すべてにいい環境に来たと言える実感があった。
龍一がそれを感じた通り、 アラサツーバの町が急速に発展を遂げたのも、 この辺りの農地が肥沃で、 大きな植民地がつぎつぎに建設されたからだった。ちょうどそのころ、 ノロエステ線の中心地が、 リンスから徐々にアラサツーバに移りつつあるころだったのだ。
農地購入の支払い条件が、 農作物の収穫が終わってからでよいというのに援けられて、 日本政府の援助によって造成され、 施設も充実しているリンス近辺や、 アラサツーバの植民地に、 それまでガイジンの大農場で契約労働者として働いて義務農年を了えた日本人たちは、 自作農になれることに喜び勇んで、 ぞくぞくと移転してきていた。
一九三八年当時、 ノロエステ地方の日本人の総人口が、 四万五千六百三十七人で、 土地所有者三千九百六十九人、 総面積が六万一千九百九アルケーレスに増加しているのをみても、 その実態がわかる。
龍一にしても、 この土地を購入できた原因はともかくも、 スイス人耕地で過ごした一年は予定外に不本意なものだったのだから、 持参金が底を突く不安をおして独立農になる努力をしたことを、 ほんとうによかったと思っている。
「あれは予行演習だと思えばいいんだ」
労働して賃金をもらうのではなく、 親子三人でやりこなせなかった分を、 肩代わりしてもらった臨時雇いの労務者に支払ってきたという愚行を、 糊塗するようなことを言ったけれど、 実際泣くにも泣けない、 われながら嗤いたくなる間抜けさ加減だった、 と惟う。
しかし、 誰が聴いても、 憐れむよりも蔑んだであろうあの一年の間抜けな行動も、 はじめて労働した辛さに耐えてきたからこそ、 現在の幸福感に浸れるのだ、 と龍一は、 負け惜しみではなく、 体力の衰え しみじみと実感した。
チヨはともかくも、 柳子をこんなところに連れてきてしまったという後悔に苛まれていたのはたしかだったから、 ケープタウンで養蚕技師の派遣取り消しの電報がきたとき、 やせ我慢を張らずに、 乗ってきた船で帰ればよかったと、 なんど思ったことか。
永住するつもりもないブラジルに土地を買ってもしようがないのではないか、 となんども逡巡した。しかし、 中折れ いまはもう諦めではなく、 よかったと思える。
ここでブラジルに来たことの、 何かを、 形にできる予感があった。いや、 できるのではなく、 何かをしなければならないのだ、 と思う気持ちが身内を膨らませていた。
もしもあのとき、 おめおめ日本に引き返していたら、 ペニス短小 親戚中のものから「いったいおまえはブラジルになにしに行ったのか」と嗤われるばかりではなく、 遊び仲間からも相手にされなくなっていただろう。
あいつらに「ブラジルは、 ああだった、 こうだった」とほんとうと嘘をまじえてでも威張って言えるほどの体験くらいは、 してから帰らなければと思ってきたのだから。
二年のつもりが三年になっても、 いいではないか。曲がりなりにも自分の土地を手に入れたのだから、 ここで何かをしなければ男が立たない、 と考える。
「よかったじゃないのぉ、 ここにきて」
なんでも前向きに考える陽性の柳子が言ってくれたから、 よけい、 何かをしなければならない、 と龍一は心のなかに臍を固めた。
とにもかくにも、 土地を獲得したのだ。五アルケーレスの面積は、 ブラジルでは最小限の農地だったが、 日本ではなかなかどうして、 水呑み百姓や小作人がおいそれと手に入れられない広さなのだ。
ブラジルで自作農になったというだけで、 すでに自慢できる人たちも大ぜいいるだろう。錦衣帰郷の夢を実現するために、 日傭労働の低賃金を爪に火をともして貯めるよりも、 独立農になったほうが、 その確率は高いのにきまっている。だから大ぜいの人たちが、 躰を資本に、 収穫後に返済するという年賦払いで自作農になるのだという明るい希望に燃えて、 ぞくぞくとこの辺りに移住してくるのだ。
それを山田から聴いて、 龍一もここを買う気になったのだ。
それにしても、 よく思い切ったものだと、 いまさらながら思うのは、 農家の子に産まれながら、 土地のありがたみを知らなかった龍一だったからだろう。
金は人生を豊かにするけれど、 金を産む土地は、 土地を持たない貧農には苦役を強いるものとしか考えなかった過去が、 まるで嘘のようだった。
土地があるから金を生むのだということが実感として把握できなかった愚かさを思うと、 なんとも恥ずかしいかぎりだった。
「コーヒーが、 できましたに」
「そういえば、 向こうはコーヒー畑だけで、 多彩な彩りはなかったなあ」
「うん、 ここからの眺めは、 かたちがいかにも日本の田園風景に似て色彩が豊富だし、 ゆとりがあるものねえ」
柳子が言うことを、 早漏 龍一は感心しながら聴く。ブラジルに来て、 ずいぶんおとなになったものだ、 と思いながら。
そして龍一自身も、 赤道を越えたとき儂は変身したんだ、 と言ったのを、 その場限りの言い逃れではなく、 本気になってやらなければならないところにきているんだ。スイス人耕地で、 他人の指図のままに働いてきた一介の労働者の無責任さではおられなくなったぞ、 迂闊なことも言えないし、 懶惰な生き方もできないのだと思って、 心に重圧感が生じる。
柳子のように感覚的な、 漠然とした風景の受け止め方ではなく、 実質的に、 スイス人耕地よりこちらのほうが地味も地形もいいし、 もうしばらく手入れされていないからだろうコーヒーの樹が老木に視えるけれども、 よく観ると表面的な情景だけではなく、 すべてにいい環境に来たと言える実感があった。
龍一がそれを感じた通り、 アラサツーバの町が急速に発展を遂げたのも、 この辺りの農地が肥沃で、 大きな植民地がつぎつぎに建設されたからだった。ちょうどそのころ、 ノロエステ線の中心地が、 リンスから徐々にアラサツーバに移りつつあるころだったのだ。
農地購入の支払い条件が、 農作物の収穫が終わってからでよいというのに援けられて、 日本政府の援助によって造成され、 施設も充実しているリンス近辺や、 アラサツーバの植民地に、 それまでガイジンの大農場で契約労働者として働いて義務農年を了えた日本人たちは、 自作農になれることに喜び勇んで、 ぞくぞくと移転してきていた。
一九三八年当時、 ノロエステ地方の日本人の総人口が、 四万五千六百三十七人で、 土地所有者三千九百六十九人、 総面積が六万一千九百九アルケーレスに増加しているのをみても、 その実態がわかる。
龍一にしても、 この土地を購入できた原因はともかくも、 スイス人耕地で過ごした一年は予定外に不本意なものだったのだから、 持参金が底を突く不安をおして独立農になる努力をしたことを、 ほんとうによかったと思っている。
「あれは予行演習だと思えばいいんだ」
労働して賃金をもらうのではなく、 親子三人でやりこなせなかった分を、 肩代わりしてもらった臨時雇いの労務者に支払ってきたという愚行を、 糊塗するようなことを言ったけれど、 実際泣くにも泣けない、 われながら嗤いたくなる間抜けさ加減だった、 と惟う。
しかし、 誰が聴いても、 憐れむよりも蔑んだであろうあの一年の間抜けな行動も、 はじめて労働した辛さに耐えてきたからこそ、 現在の幸福感に浸れるのだ、 と龍一は、 負け惜しみではなく、 体力の衰え しみじみと実感した。
チヨはともかくも、 柳子をこんなところに連れてきてしまったという後悔に苛まれていたのはたしかだったから、 ケープタウンで養蚕技師の派遣取り消しの電報がきたとき、 やせ我慢を張らずに、 乗ってきた船で帰ればよかったと、 なんど思ったことか。
永住するつもりもないブラジルに土地を買ってもしようがないのではないか、 となんども逡巡した。しかし、 中折れ いまはもう諦めではなく、 よかったと思える。
ここでブラジルに来たことの、 何かを、 形にできる予感があった。いや、 できるのではなく、 何かをしなければならないのだ、 と思う気持ちが身内を膨らませていた。
もしもあのとき、 おめおめ日本に引き返していたら、 ペニス短小 親戚中のものから「いったいおまえはブラジルになにしに行ったのか」と嗤われるばかりではなく、 遊び仲間からも相手にされなくなっていただろう。
あいつらに「ブラジルは、 ああだった、 こうだった」とほんとうと嘘をまじえてでも威張って言えるほどの体験くらいは、 してから帰らなければと思ってきたのだから。
二年のつもりが三年になっても、 いいではないか。曲がりなりにも自分の土地を手に入れたのだから、 ここで何かをしなければ男が立たない、 と考える。
「よかったじゃないのぉ、 ここにきて」
なんでも前向きに考える陽性の柳子が言ってくれたから、 よけい、 何かをしなければならない、 と龍一は心のなかに臍を固めた。
とにもかくにも、 土地を獲得したのだ。五アルケーレスの面積は、 ブラジルでは最小限の農地だったが、 日本ではなかなかどうして、 水呑み百姓や小作人がおいそれと手に入れられない広さなのだ。
ブラジルで自作農になったというだけで、 すでに自慢できる人たちも大ぜいいるだろう。錦衣帰郷の夢を実現するために、 日傭労働の低賃金を爪に火をともして貯めるよりも、 独立農になったほうが、 その確率は高いのにきまっている。だから大ぜいの人たちが、 躰を資本に、 収穫後に返済するという年賦払いで自作農になるのだという明るい希望に燃えて、 ぞくぞくとこの辺りに移住してくるのだ。
それを山田から聴いて、 龍一もここを買う気になったのだ。
それにしても、 よく思い切ったものだと、 いまさらながら思うのは、 農家の子に産まれながら、 土地のありがたみを知らなかった龍一だったからだろう。
金は人生を豊かにするけれど、 金を産む土地は、 土地を持たない貧農には苦役を強いるものとしか考えなかった過去が、 まるで嘘のようだった。
土地があるから金を生むのだということが実感として把握できなかった愚かさを思うと、 なんとも恥ずかしいかぎりだった。
「コーヒーが、 できましたに」
不感症 別の村落を形づくっ
「はい、 なんですかな」
「先ほどからお聴きしていると、 移住地と植民地が混ぜんとしていて、 同じ意味なのか、 表現が違うことに意味があるのかわからないんですが」
「はあ」
村上老人のほうが、 避妊薬 柳子が訊ねている意味を把握できないようだった。
「柳子、 そういうことはおいおいわかってくることじゃねえか」
龍一が言いながら、 目顔で理屈っぽい娘を抑える。
村上老人の口ぶりで、 向こうの移住地とこちらの植民地に交際がないというのは、 それが宗教的な理由ではなく、 日本人社会にも派閥争いがあるんだろう、 媚薬女性用精力剤 と龍一は解釈した。
この土地を下見に来たとき、 あの雑木林のせいで向こう側が見えなかったのだから、 すぐ隣に同県人の造った植民地があったことを知らなくてもとうぜんだよと言い訳しても、 柳子が文句を言うだろう、 と龍一は気鬱が生じた。
坂上老人が、 この村の日本人会に紹介しますから、 落ち着いたら来て下さい、 と言って帰ったあと、 それまで我慢していた柳子が、 さっそく躰の向きをくるっと換えて、
「ほんとに、 お父ちゃののんきさには呆れるわ。隣に長野県の移住地があったのを知らなかったなんて、 のんきさも頂点ね、 ばかみたい」
と噛みついてきた。
ばかみたい、 と言う娘のことばに、 かちっときたが、 龍一自身がそう想っていたのだから、 ばかとはなんだ、 と怒るわけにもいかない。
そこで、 周旋屋が、 商談が壊れるのを恐れて、 教えなかったのだということを強調して、 まだ西東のわからないものの迂闊さはしようがないだろう、 と納得させた。
その納得を確認させるために、 ざっと室内を片付けて、 昼食を済ましてから、 龍一は、 妻と娘を連れて、 坂上に教えられた道順を踏んで、 雑木林の中を潜り抜け、 田澤という人の家を訪ねて行った。
それが境界になっているのか、 防風林になっているのか、 雑木林があって、 林のなかの自然にできたらしい道をたどってゆくと、 性欲欠乏症 深い側溝に板橋が架かっていたから、 いま来た道が、 獣道ではなく、 人の造った道だとわかった。
雑木林と小川が境界になって、 不感症 別の村落を形づくっているのは、 アラモ植民地のほうであって、 アリアンサ移住地は、 アラモのような小規模の植民地ではなく、 雑木林を抜けると、 ぱっと視界が開けて、 そこに日本の匂いのする日本人の農家があったから、 いま抜けてきた雑木林が、 地球のなかを潜り抜けてきて、 日本に戻ってきた感じを受けたほどだった。
信州でなんとなく見てきた風景を彷彿とさせるものを、 そこに感じて、 懐かしさまで誘われる。
かなり広い野菜畑が、 雑木林のところまで作られていて、 日常に使う茄子や胡瓜や葱などが植えられている風情が、 まったく日本の農村そっくりだったのだ。
藤棚のようにつくられているのはシュシュと呼ばれている隼人瓜の蔓を絡ませる棚で、 これは漬物に欠かせないものだということは、 すでにスイス人耕地で、 通訳の熊野や旧移民の村上から教えられたものだった。
畑の向こう側に、 大きな屋根を乗せた家屋が、 どっしりした趣きで建っていた。
「先ほどからお聴きしていると、 移住地と植民地が混ぜんとしていて、 同じ意味なのか、 表現が違うことに意味があるのかわからないんですが」
「はあ」
村上老人のほうが、 避妊薬 柳子が訊ねている意味を把握できないようだった。
「柳子、 そういうことはおいおいわかってくることじゃねえか」
龍一が言いながら、 目顔で理屈っぽい娘を抑える。
村上老人の口ぶりで、 向こうの移住地とこちらの植民地に交際がないというのは、 それが宗教的な理由ではなく、 日本人社会にも派閥争いがあるんだろう、 媚薬女性用精力剤 と龍一は解釈した。
この土地を下見に来たとき、 あの雑木林のせいで向こう側が見えなかったのだから、 すぐ隣に同県人の造った植民地があったことを知らなくてもとうぜんだよと言い訳しても、 柳子が文句を言うだろう、 と龍一は気鬱が生じた。
坂上老人が、 この村の日本人会に紹介しますから、 落ち着いたら来て下さい、 と言って帰ったあと、 それまで我慢していた柳子が、 さっそく躰の向きをくるっと換えて、
「ほんとに、 お父ちゃののんきさには呆れるわ。隣に長野県の移住地があったのを知らなかったなんて、 のんきさも頂点ね、 ばかみたい」
と噛みついてきた。
ばかみたい、 と言う娘のことばに、 かちっときたが、 龍一自身がそう想っていたのだから、 ばかとはなんだ、 と怒るわけにもいかない。
そこで、 周旋屋が、 商談が壊れるのを恐れて、 教えなかったのだということを強調して、 まだ西東のわからないものの迂闊さはしようがないだろう、 と納得させた。
その納得を確認させるために、 ざっと室内を片付けて、 昼食を済ましてから、 龍一は、 妻と娘を連れて、 坂上に教えられた道順を踏んで、 雑木林の中を潜り抜け、 田澤という人の家を訪ねて行った。
それが境界になっているのか、 防風林になっているのか、 雑木林があって、 林のなかの自然にできたらしい道をたどってゆくと、 性欲欠乏症 深い側溝に板橋が架かっていたから、 いま来た道が、 獣道ではなく、 人の造った道だとわかった。
雑木林と小川が境界になって、 不感症 別の村落を形づくっているのは、 アラモ植民地のほうであって、 アリアンサ移住地は、 アラモのような小規模の植民地ではなく、 雑木林を抜けると、 ぱっと視界が開けて、 そこに日本の匂いのする日本人の農家があったから、 いま抜けてきた雑木林が、 地球のなかを潜り抜けてきて、 日本に戻ってきた感じを受けたほどだった。
信州でなんとなく見てきた風景を彷彿とさせるものを、 そこに感じて、 懐かしさまで誘われる。
かなり広い野菜畑が、 雑木林のところまで作られていて、 日常に使う茄子や胡瓜や葱などが植えられている風情が、 まったく日本の農村そっくりだったのだ。
藤棚のようにつくられているのはシュシュと呼ばれている隼人瓜の蔓を絡ませる棚で、 これは漬物に欠かせないものだということは、 すでにスイス人耕地で、 通訳の熊野や旧移民の村上から教えられたものだった。
畑の向こう側に、 大きな屋根を乗せた家屋が、 どっしりした趣きで建っていた。
2011年11月27日星期日
中折れ なにがあったん
それならば優雅な貧乏だ。趣味に金かけて没落する貴族並みの贅沢ではないか。
人生を可能な限り楽しむという、 そんな生き方が、 ほんまの生き方かもしれへん、 と最終部分を大阪弁で考えて、 東京の人間にはでけへん贅沢や、 と柳子も納得した。
小森が貧乏する原因は納得できても、 いっしょに入植した五家族のうち、 この農場に居残るのは小森の家族だけらしいと聴いて、 柳子は、 ぎゅっと胸を絞られる思いをした。
こちらはすでに土地を買っていて、 そこに移転して行くのだという好運な状況を、 父から口止めされているだけではなく、 あまりにも残酷な気がして、 秋子に言うのを、 言いそびれていた。
思ったことや考えたことを、 言ったりしたりしないでいるのは、 柳子自身にとって非常に苦痛なことだった。しかし、 それを言うことで、 せっかく正常に戻った 友情に、 また罅が入りそうに思えて、 こわかった。かといって、 言わずに居るのも友情に悖るのではないのかと考えると、 辛かった。言うのが友情なのか、 早漏 言わ ないのが友情なのか、 判断できなかった。
いままでなら、 相手の気持ちなど考えずに、 思ったことをすぐ口にしてきた柳子だったから、 それを抑制できることだけでも成長したのだろう。
だけれど上を向いて歩けなかった。日曜日に馬に乗って散策するときでも、 背を伸ばしてこれ見よがしに歩けず、 敗残兵のような姿勢になってしまうから、 しぜん馬上から視る風景が、 殺伐としたものに映った。
コーヒーの実を毟り取られた枝たちの、 無慙な姿が視野を占領しているからだろうか。
今日も最後の地均し作業だった。裸になったコーヒー樹の枝が、 枝垂れ桜の枝のように垂れ下がっているのを持ち上げて、 樹の根方に土を放り入れる作業をしながら、 アラモというところに移転するのよと、 いつ秋子に言おうか、 体力の衰え と思い迷う。
柳子は、 酒を飲んで酔ったのがいい結果になって、 父に対して抱いていた疑惑とか、 蟠りとかが解け、 移って行く土地も手に入れたということと相俟って、 家族三人のなかが、 いままでになかった温もりで具合良く溶け合うようになったのを感じていた。
秋子のほうは、 柳子の家庭の事情とは反対に、 酒に溶かそうと思って飲んだ苦痛が、 酒に溶かしきれず、 もう、 どうにでもなれ、 という自暴自棄のほうへ流されたのが、 いままでにない夫婦の諍いと、 兄弟姉妹の口喧嘩が頻繁になったことから想像できた。
そんな秋子に、 明るい希望に満ちた話などできるはずはなかった。
なんとかこんな憂鬱な、 そしてふたりのあいだに蟠っているギクシャクした状況を、 打破して、 ぱっと気分を晴らせる話題はないものか、 と考えつづけているうちに、 恰好な話の種に気づいた。
実を?ぎ取られたコーヒー樹の枝枝に、 もう薄緑の脹らみのあるのを見つけていた柳子だった。これだと思った。まだよく見なければ見えないような芽生えだったけれど、 これこそ明日に希望を持たせる現象ではないか、 と惟っただけで柳子の胸も膨らんだ。
「秋子さん視たあ」
柳子が、 移転のことを言えない大きな辛さを、 小さな若芽のほうに転化させて、 秋子の人間臭い憂欝に翳っている気持ちを、 明るい自然現象の膨らみに誘い、 心の勾配を図ったのだけれど、 彼女自身の眸をさきに耀かせていた。
コーヒー樹の若芽が、 まえに視たときよりもさらに膨らんでいて、 樹皮のうちら側に再生の息吹を、 はっきり感じさせていたのだ。これこそ春の胎動を思わせるいのちの営みのすばらしさだった。
「どうしたん、 中折れ なにがあったん」
秋子も、 柳子の眼の耀きにつられて、 いっしゅん陰気くささを忘れ、 ペニス短小 気持ちの塞がりを押しひろげていた。
柳子は、 秋子の閉ざしていた岩屋の戸が開いて、 彼女の心のなかに仕舞い込んでいた陽性の種子が、 弾けるのを感じた。
「もうコーヒーの芽が脹らんできてるのよ」
「ええ、 ほんまあ、 このあいだ?いだばっかしやのに」
「ほれ、 ここ視てごらんよ」
人生を可能な限り楽しむという、 そんな生き方が、 ほんまの生き方かもしれへん、 と最終部分を大阪弁で考えて、 東京の人間にはでけへん贅沢や、 と柳子も納得した。
小森が貧乏する原因は納得できても、 いっしょに入植した五家族のうち、 この農場に居残るのは小森の家族だけらしいと聴いて、 柳子は、 ぎゅっと胸を絞られる思いをした。
こちらはすでに土地を買っていて、 そこに移転して行くのだという好運な状況を、 父から口止めされているだけではなく、 あまりにも残酷な気がして、 秋子に言うのを、 言いそびれていた。
思ったことや考えたことを、 言ったりしたりしないでいるのは、 柳子自身にとって非常に苦痛なことだった。しかし、 それを言うことで、 せっかく正常に戻った 友情に、 また罅が入りそうに思えて、 こわかった。かといって、 言わずに居るのも友情に悖るのではないのかと考えると、 辛かった。言うのが友情なのか、 早漏 言わ ないのが友情なのか、 判断できなかった。
いままでなら、 相手の気持ちなど考えずに、 思ったことをすぐ口にしてきた柳子だったから、 それを抑制できることだけでも成長したのだろう。
だけれど上を向いて歩けなかった。日曜日に馬に乗って散策するときでも、 背を伸ばしてこれ見よがしに歩けず、 敗残兵のような姿勢になってしまうから、 しぜん馬上から視る風景が、 殺伐としたものに映った。
コーヒーの実を毟り取られた枝たちの、 無慙な姿が視野を占領しているからだろうか。
今日も最後の地均し作業だった。裸になったコーヒー樹の枝が、 枝垂れ桜の枝のように垂れ下がっているのを持ち上げて、 樹の根方に土を放り入れる作業をしながら、 アラモというところに移転するのよと、 いつ秋子に言おうか、 体力の衰え と思い迷う。
柳子は、 酒を飲んで酔ったのがいい結果になって、 父に対して抱いていた疑惑とか、 蟠りとかが解け、 移って行く土地も手に入れたということと相俟って、 家族三人のなかが、 いままでになかった温もりで具合良く溶け合うようになったのを感じていた。
秋子のほうは、 柳子の家庭の事情とは反対に、 酒に溶かそうと思って飲んだ苦痛が、 酒に溶かしきれず、 もう、 どうにでもなれ、 という自暴自棄のほうへ流されたのが、 いままでにない夫婦の諍いと、 兄弟姉妹の口喧嘩が頻繁になったことから想像できた。
そんな秋子に、 明るい希望に満ちた話などできるはずはなかった。
なんとかこんな憂鬱な、 そしてふたりのあいだに蟠っているギクシャクした状況を、 打破して、 ぱっと気分を晴らせる話題はないものか、 と考えつづけているうちに、 恰好な話の種に気づいた。
実を?ぎ取られたコーヒー樹の枝枝に、 もう薄緑の脹らみのあるのを見つけていた柳子だった。これだと思った。まだよく見なければ見えないような芽生えだったけれど、 これこそ明日に希望を持たせる現象ではないか、 と惟っただけで柳子の胸も膨らんだ。
「秋子さん視たあ」
柳子が、 移転のことを言えない大きな辛さを、 小さな若芽のほうに転化させて、 秋子の人間臭い憂欝に翳っている気持ちを、 明るい自然現象の膨らみに誘い、 心の勾配を図ったのだけれど、 彼女自身の眸をさきに耀かせていた。
コーヒー樹の若芽が、 まえに視たときよりもさらに膨らんでいて、 樹皮のうちら側に再生の息吹を、 はっきり感じさせていたのだ。これこそ春の胎動を思わせるいのちの営みのすばらしさだった。
「どうしたん、 中折れ なにがあったん」
秋子も、 柳子の眼の耀きにつられて、 いっしゅん陰気くささを忘れ、 ペニス短小 気持ちの塞がりを押しひろげていた。
柳子は、 秋子の閉ざしていた岩屋の戸が開いて、 彼女の心のなかに仕舞い込んでいた陽性の種子が、 弾けるのを感じた。
「もうコーヒーの芽が脹らんできてるのよ」
「ええ、 ほんまあ、 このあいだ?いだばっかしやのに」
「ほれ、 ここ視てごらんよ」
虚弱体質 川魚などだが
秋子さんのように、 すべてを運命のせいにするのは悲しすぎる。あまりにも哀れすぎる。人間として生きるのなら、 たとえごり押しにでも、 曲がりなりにも、 勃起不全 自分自身の意思を働かせて選び、 歩みたいものだ、 とも思う。
わたしも父に似て、 ちょっと軽はずみなところはあるけれど、 三叉路に立ってか、 十字路に立ってか知らないけれど、 別れ道に差しかかったとき、 よく考えて、 どの道を選ぶか慎重に足を踏み出さなければならないぞ、 と自分自身の肝に命じる。
出発点は同じでも、 一歩を踏み出すところで道が違えば、 先では大きな開きができてしまうだろうと思うと、 なんだか恐くて、 その一歩が踏み出せなくなる気もするけれど。
そうだ、 移民船の船上で二者択一を迫られた父も、 彼の意思で苦労を背負ったのだから、 娘の立場として、 父の歩む方向について歩くのは当然だったのだ。わたしはまだ父の意思によって動かされる子どもだったのだから。
そう思うと、 こんど父が積極的に動いて、 勃起障害 この農場を出たあとの生活環境を先取りして帰ったのは正しかったのだ、 と思わなければならないだろう。
隣のおじさんは、 そうしたくてもできない経済的事情があったのだけれど、 それはどう考えたらいいのだろうか。運命と考えるべきなのか、 彼の不甲斐なさと思うべきなのか、 とずいぶん考えたけれど、 柳子には答えの出せることではなかった。
わたし自身には、 生まれたときからの幸運があったのは確かなようだ、 と思うことで、 一応の終止符を打つ。
それにしても、 この農場での契約労働を曲がりなりにも終えて。いや、 働いて労賃を貰うのではなく、 臨時雇いの人の労賃をこちらが払い、 その上わたしの仕出かした悪戯の罰金まで払って出るのだから、 ちょっと曲がりすぎだったなあ。
まあいいか、 いまさらくよくよしても後戻りできないのだから、 とにかくここを出て、 自分の自由にできる土地に移り住めるというのは、 大きな幸せには違いな かった。秋子さんらと比べると、 なんとも申し訳ないほどのことだけれど、 そこまで小森家の運命に共同体意識を持つのは行き過ぎ出過ぎというものだろう。
ある一点で線を引かなければならないこともあるのだ。所詮昨日まで他人だったのだという冷めた感情で。
もちろん出発点が違うから、 歩む人生が違ってくるのは仕方のないことだけれど、 ここではじまった生活は、 小森さんも川田さんも竜野さんも中村さんも、 みん 勃起力減退 な同じスタートラインに立ってはじまったのに、 一年経ってゴールに駆け込んだときには、 新移民の家族の様子は、 すっかり違ってしまっていた。
竜野は、 五尺三寸並男という基準からすると、 六尺を越す大男と並みの娘がふたりの三人だけれど、 中村のおとなばかりが五人という最高の家族構成と同じくらいの収穫量を上げたのには、 びっくりしたたい、 と熊野が言っていたが、 頭数だけで比較はできないだろう。
竜野の三人は、 三人とも無学文盲、 猿と同じような生活をしてきたんだと言い、 米の飯を食うのはブラジルに来てから初めてのことだと言い、 日本では、 植物性 は甘藷と樹の実、 動物性は猪、 蛇、 蜥蜴、 虚弱体質 川魚などだが、 それが副食ではなく主食のようなものだった。という樵の生活をしてきた家族なのだ。人間業ではない のがとうぜんだろう。
中村の五人のうちの、 母と息子が農業経験者だといっても、 父と娘は都市生活者というおかしな構成家族なのだ。
小森のところは五人が働いて、 借金を残したというのが、 まっとうな答えだろう。全員が都市生活者で、 家長は農家の出だと言っても、 少年のころから大阪で丁 稚奉公をしてきたというのだから、 農業経験は皆無なのだ。その上、 労働力ではない食べ盛りの子どもが大ぜいいるのだ。なにかが欠けているのではないのだろ うか。どこかに穴があいているに違いない、 と思うのは妥当ではない。
小森茂はその原因を、 大阪人間は食べ道楽だっさかい、 経済的に困ってても、 可能な限りの贅沢しますねん。ほいでだす、 貧乏せんならんのは、 と言っていた。
わたしも父に似て、 ちょっと軽はずみなところはあるけれど、 三叉路に立ってか、 十字路に立ってか知らないけれど、 別れ道に差しかかったとき、 よく考えて、 どの道を選ぶか慎重に足を踏み出さなければならないぞ、 と自分自身の肝に命じる。
出発点は同じでも、 一歩を踏み出すところで道が違えば、 先では大きな開きができてしまうだろうと思うと、 なんだか恐くて、 その一歩が踏み出せなくなる気もするけれど。
そうだ、 移民船の船上で二者択一を迫られた父も、 彼の意思で苦労を背負ったのだから、 娘の立場として、 父の歩む方向について歩くのは当然だったのだ。わたしはまだ父の意思によって動かされる子どもだったのだから。
そう思うと、 こんど父が積極的に動いて、 勃起障害 この農場を出たあとの生活環境を先取りして帰ったのは正しかったのだ、 と思わなければならないだろう。
隣のおじさんは、 そうしたくてもできない経済的事情があったのだけれど、 それはどう考えたらいいのだろうか。運命と考えるべきなのか、 彼の不甲斐なさと思うべきなのか、 とずいぶん考えたけれど、 柳子には答えの出せることではなかった。
わたし自身には、 生まれたときからの幸運があったのは確かなようだ、 と思うことで、 一応の終止符を打つ。
それにしても、 この農場での契約労働を曲がりなりにも終えて。いや、 働いて労賃を貰うのではなく、 臨時雇いの人の労賃をこちらが払い、 その上わたしの仕出かした悪戯の罰金まで払って出るのだから、 ちょっと曲がりすぎだったなあ。
まあいいか、 いまさらくよくよしても後戻りできないのだから、 とにかくここを出て、 自分の自由にできる土地に移り住めるというのは、 大きな幸せには違いな かった。秋子さんらと比べると、 なんとも申し訳ないほどのことだけれど、 そこまで小森家の運命に共同体意識を持つのは行き過ぎ出過ぎというものだろう。
ある一点で線を引かなければならないこともあるのだ。所詮昨日まで他人だったのだという冷めた感情で。
もちろん出発点が違うから、 歩む人生が違ってくるのは仕方のないことだけれど、 ここではじまった生活は、 小森さんも川田さんも竜野さんも中村さんも、 みん 勃起力減退 な同じスタートラインに立ってはじまったのに、 一年経ってゴールに駆け込んだときには、 新移民の家族の様子は、 すっかり違ってしまっていた。
竜野は、 五尺三寸並男という基準からすると、 六尺を越す大男と並みの娘がふたりの三人だけれど、 中村のおとなばかりが五人という最高の家族構成と同じくらいの収穫量を上げたのには、 びっくりしたたい、 と熊野が言っていたが、 頭数だけで比較はできないだろう。
竜野の三人は、 三人とも無学文盲、 猿と同じような生活をしてきたんだと言い、 米の飯を食うのはブラジルに来てから初めてのことだと言い、 日本では、 植物性 は甘藷と樹の実、 動物性は猪、 蛇、 蜥蜴、 虚弱体質 川魚などだが、 それが副食ではなく主食のようなものだった。という樵の生活をしてきた家族なのだ。人間業ではない のがとうぜんだろう。
中村の五人のうちの、 母と息子が農業経験者だといっても、 父と娘は都市生活者というおかしな構成家族なのだ。
小森のところは五人が働いて、 借金を残したというのが、 まっとうな答えだろう。全員が都市生活者で、 家長は農家の出だと言っても、 少年のころから大阪で丁 稚奉公をしてきたというのだから、 農業経験は皆無なのだ。その上、 労働力ではない食べ盛りの子どもが大ぜいいるのだ。なにかが欠けているのではないのだろ うか。どこかに穴があいているに違いない、 と思うのは妥当ではない。
小森茂はその原因を、 大阪人間は食べ道楽だっさかい、 経済的に困ってても、 可能な限りの贅沢しますねん。ほいでだす、 貧乏せんならんのは、 と言っていた。
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そんな柳子が、 大きな生活環境の変化に押し流されてブラジルに来て、 あれよあれよと思う間に、 元の農民の子に引き戻され、 鍬を握る生活を強いられ、 不平不 満を口にしながらも日を重ねるうちに、 手の平にできた肉刺が潰れ、 またできた肉刺が潰れして、 とうとう百姓女の手になってしまった、 勃起促進剤 と悲しんだのだけれ ど、 流した汗の量以上に、 苦痛も流れて行くと、 珠玉にも見紛うコーヒーの実を、 この手で?いだのだ、 という感慨が精神を浄化させたのだろうか、 大地に対す る執着が、 いつのまにかできていて、 農村の生活も捨て難いものに思えるようになっていた。
横暴とも思えた父のブラジル行きに徹底抗戦して、 もしもあのまま東京の良三叔父の家に踏みとどまり、 希望通り女子大学の文学部に入って、 さらに望み通り新 聞記者への道を歩んでいたとすれば、 わたしは未来永劫、 興奮剤 ブラジルという国を知らずに畢っただろうし、 鍬を執って草を削ることもせず、 コーヒーの実を?ぐこ ともしないだろうから、 大自然の懐の深さとか、 ブラジルの風景の広大さとか、 自然の不思議ともいえる営みとか、 そういうものを感受することもなかったのだ と思うと、 どうにも抵抗し難い運命というものに流されながら、 無理せずに、 手の届く範囲の環境のなかで、 精いっぱい生きたらいいのではないのか、 と柳子は 思いはじめていた。
足が腫れて歩けなくなったり、 手の皮がめくれて血が噴き出したりしたときの、 悲壮感が消滅して、 自然に同化できる心境になっていたのだ。
それは、 限られた範囲の生活環境のなかだけだけれど、 自然を観察し、 人間を観察して得たものだったが、 十七歳から十八歳というもっとも感受性の高まる時期でもあったし、 いろんな点で、 おとなと子どもの境でもあったから、 柳子をさらに大きく成長させたといえるだろう。
自然の力は、 いくら抵抗しても、 遂には人を諦めさせるほど強大なものなのがわかって、 それを口惜しいと思わずに、 抱かれてゆく従順さを育んだ。
そして、 それがわかると、 父もまた抗し難いなにものかに押し流されて、 彼自身の意思ではなくブラジルに来ることになったのだろう、 とやさしい気持ちになれた。
放蕩の末に信州に居られなくなり、 みずから志願して、 養蚕指導員という肩書きを持ってブラジルに来ることになったのだけれど、 秋子さんの言う「運命」のせ いだとすれば、 父のわがまま勝手な行動を責めても仕様がないのだ、 ペニス増大 と理解できるようになったのが、 柳子にはふしぎに思えた。
父の過去を恕すというのではなく、 人間の男女関係もまた自然のなかで営まれるものなのだ、 ということが、 いろいろな人種が共同生活をしているなかで知り得たものだった。
そんなことを考えると、 秋子さんを諦めさせてきた「運命」というものを、 信じないわけには行かないかなあ、 と柳子も思う。
それはある種の恐怖に通ずる感慨だったが、 柳子を屈服させるものではなかった。認識させるというやさしい押しつけだったのだ。
それにつれて、 柳子は、 人間の生き方には幾通りもの道が用意されていて、 どの道を選ぶかはみずからの意思で決められそうに思えるのだけれど、 そうではな く、 外部からの影響によって歩む道を限定されるような気がする。だから父も、 彼のわがままだけでブラジルに来たのではなく、 そうしなければならなくなった なんらかの運命的なものに押し出される恰好で、 こうなったのではないかと思えるから、 一概に父を責めるのは可哀相にも思ったのだ。
恰好はどうであれ、 いちおう海外へ出向するという誉れを掲げて、 万歳万歳の歓呼の声に送られ、 「島々」の駅を出発し、 軍楽隊の勇ましいメロディーで神戸の 港を出港してきたのだから、 すでにケープタウンを回ったところで、 派遣取り消しの電報が入ったからといって「男子がおめおめと帰れるものか」と父が急遽身 インポテンツ の振り方を変更したのも、 彼の意志のようであって、 実はそうではなく、 そういう運命にあったのだ、 とも思えるところがあった。
母もただ呆然とするばかりで、 抗し難い運命の波に押し流されるのは仕方のないことだ、 と諦めているふうだった。
しかし、 運命というものが、 そういうものなのだと思っても、 そう思ってしまうと、 なんだか人生ってすごくつまらないようにも思えるから、 なにもかも運命のせいにしたくはなかった。
横暴とも思えた父のブラジル行きに徹底抗戦して、 もしもあのまま東京の良三叔父の家に踏みとどまり、 希望通り女子大学の文学部に入って、 さらに望み通り新 聞記者への道を歩んでいたとすれば、 わたしは未来永劫、 興奮剤 ブラジルという国を知らずに畢っただろうし、 鍬を執って草を削ることもせず、 コーヒーの実を?ぐこ ともしないだろうから、 大自然の懐の深さとか、 ブラジルの風景の広大さとか、 自然の不思議ともいえる営みとか、 そういうものを感受することもなかったのだ と思うと、 どうにも抵抗し難い運命というものに流されながら、 無理せずに、 手の届く範囲の環境のなかで、 精いっぱい生きたらいいのではないのか、 と柳子は 思いはじめていた。
足が腫れて歩けなくなったり、 手の皮がめくれて血が噴き出したりしたときの、 悲壮感が消滅して、 自然に同化できる心境になっていたのだ。
それは、 限られた範囲の生活環境のなかだけだけれど、 自然を観察し、 人間を観察して得たものだったが、 十七歳から十八歳というもっとも感受性の高まる時期でもあったし、 いろんな点で、 おとなと子どもの境でもあったから、 柳子をさらに大きく成長させたといえるだろう。
自然の力は、 いくら抵抗しても、 遂には人を諦めさせるほど強大なものなのがわかって、 それを口惜しいと思わずに、 抱かれてゆく従順さを育んだ。
そして、 それがわかると、 父もまた抗し難いなにものかに押し流されて、 彼自身の意思ではなくブラジルに来ることになったのだろう、 とやさしい気持ちになれた。
放蕩の末に信州に居られなくなり、 みずから志願して、 養蚕指導員という肩書きを持ってブラジルに来ることになったのだけれど、 秋子さんの言う「運命」のせ いだとすれば、 父のわがまま勝手な行動を責めても仕様がないのだ、 ペニス増大 と理解できるようになったのが、 柳子にはふしぎに思えた。
父の過去を恕すというのではなく、 人間の男女関係もまた自然のなかで営まれるものなのだ、 ということが、 いろいろな人種が共同生活をしているなかで知り得たものだった。
そんなことを考えると、 秋子さんを諦めさせてきた「運命」というものを、 信じないわけには行かないかなあ、 と柳子も思う。
それはある種の恐怖に通ずる感慨だったが、 柳子を屈服させるものではなかった。認識させるというやさしい押しつけだったのだ。
それにつれて、 柳子は、 人間の生き方には幾通りもの道が用意されていて、 どの道を選ぶかはみずからの意思で決められそうに思えるのだけれど、 そうではな く、 外部からの影響によって歩む道を限定されるような気がする。だから父も、 彼のわがままだけでブラジルに来たのではなく、 そうしなければならなくなった なんらかの運命的なものに押し出される恰好で、 こうなったのではないかと思えるから、 一概に父を責めるのは可哀相にも思ったのだ。
恰好はどうであれ、 いちおう海外へ出向するという誉れを掲げて、 万歳万歳の歓呼の声に送られ、 「島々」の駅を出発し、 軍楽隊の勇ましいメロディーで神戸の 港を出港してきたのだから、 すでにケープタウンを回ったところで、 派遣取り消しの電報が入ったからといって「男子がおめおめと帰れるものか」と父が急遽身 インポテンツ の振り方を変更したのも、 彼の意志のようであって、 実はそうではなく、 そういう運命にあったのだ、 とも思えるところがあった。
母もただ呆然とするばかりで、 抗し難い運命の波に押し流されるのは仕方のないことだ、 と諦めているふうだった。
しかし、 運命というものが、 そういうものなのだと思っても、 そう思ってしまうと、 なんだか人生ってすごくつまらないようにも思えるから、 なにもかも運命のせいにしたくはなかった。
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そんな柳子が、 大きな生活環境の変化に押し流されてブラジルに来て、 あれよあれよと思う間に、 元の農民の子に引き戻され、 鍬を握る生活を強いられ、 不平不 満を口にしながらも日を重ねるうちに、 手の平にできた肉刺が潰れ、 またできた肉刺が潰れして、 とうとう百姓女の手になってしまった、 勃起促進剤 と悲しんだのだけれ ど、 流した汗の量以上に、 苦痛も流れて行くと、 珠玉にも見紛うコーヒーの実を、 この手で?いだのだ、 という感慨が精神を浄化させたのだろうか、 大地に対す る執着が、 いつのまにかできていて、 農村の生活も捨て難いものに思えるようになっていた。
横暴とも思えた父のブラジル行きに徹底抗戦して、 もしもあのまま東京の良三叔父の家に踏みとどまり、 希望通り女子大学の文学部に入って、 さらに望み通り新 聞記者への道を歩んでいたとすれば、 わたしは未来永劫、 興奮剤 ブラジルという国を知らずに畢っただろうし、 鍬を執って草を削ることもせず、 コーヒーの実を?ぐこ ともしないだろうから、 大自然の懐の深さとか、 ブラジルの風景の広大さとか、 自然の不思議ともいえる営みとか、 そういうものを感受することもなかったのだ と思うと、 どうにも抵抗し難い運命というものに流されながら、 無理せずに、 手の届く範囲の環境のなかで、 精いっぱい生きたらいいのではないのか、 と柳子は 思いはじめていた。
足が腫れて歩けなくなったり、 手の皮がめくれて血が噴き出したりしたときの、 悲壮感が消滅して、 自然に同化できる心境になっていたのだ。
それは、 限られた範囲の生活環境のなかだけだけれど、 自然を観察し、 人間を観察して得たものだったが、 十七歳から十八歳というもっとも感受性の高まる時期でもあったし、 いろんな点で、 おとなと子どもの境でもあったから、 柳子をさらに大きく成長させたといえるだろう。
自然の力は、 いくら抵抗しても、 遂には人を諦めさせるほど強大なものなのがわかって、 それを口惜しいと思わずに、 抱かれてゆく従順さを育んだ。
そして、 それがわかると、 父もまた抗し難いなにものかに押し流されて、 彼自身の意思ではなくブラジルに来ることになったのだろう、 とやさしい気持ちになれた。
放蕩の末に信州に居られなくなり、 みずから志願して、 養蚕指導員という肩書きを持ってブラジルに来ることになったのだけれど、 秋子さんの言う「運命」のせ いだとすれば、 父のわがまま勝手な行動を責めても仕様がないのだ、 ペニス増大 と理解できるようになったのが、 柳子にはふしぎに思えた。
父の過去を恕すというのではなく、 人間の男女関係もまた自然のなかで営まれるものなのだ、 ということが、 いろいろな人種が共同生活をしているなかで知り得たものだった。
そんなことを考えると、 秋子さんを諦めさせてきた「運命」というものを、 信じないわけには行かないかなあ、 と柳子も思う。
それはある種の恐怖に通ずる感慨だったが、 柳子を屈服させるものではなかった。認識させるというやさしい押しつけだったのだ。
それにつれて、 柳子は、 人間の生き方には幾通りもの道が用意されていて、 どの道を選ぶかはみずからの意思で決められそうに思えるのだけれど、 そうではな く、 外部からの影響によって歩む道を限定されるような気がする。だから父も、 彼のわがままだけでブラジルに来たのではなく、 そうしなければならなくなった なんらかの運命的なものに押し出される恰好で、 こうなったのではないかと思えるから、 一概に父を責めるのは可哀相にも思ったのだ。
恰好はどうであれ、 いちおう海外へ出向するという誉れを掲げて、 万歳万歳の歓呼の声に送られ、 「島々」の駅を出発し、 軍楽隊の勇ましいメロディーで神戸の 港を出港してきたのだから、 すでにケープタウンを回ったところで、 派遣取り消しの電報が入ったからといって「男子がおめおめと帰れるものか」と父が急遽身 インポテンツ の振り方を変更したのも、 彼の意志のようであって、 実はそうではなく、 そういう運命にあったのだ、 とも思えるところがあった。
母もただ呆然とするばかりで、 抗し難い運命の波に押し流されるのは仕方のないことだ、 と諦めているふうだった。
しかし、 運命というものが、 そういうものなのだと思っても、 そう思ってしまうと、 なんだか人生ってすごくつまらないようにも思えるから、 なにもかも運命のせいにしたくはなかった。
横暴とも思えた父のブラジル行きに徹底抗戦して、 もしもあのまま東京の良三叔父の家に踏みとどまり、 希望通り女子大学の文学部に入って、 さらに望み通り新 聞記者への道を歩んでいたとすれば、 わたしは未来永劫、 興奮剤 ブラジルという国を知らずに畢っただろうし、 鍬を執って草を削ることもせず、 コーヒーの実を?ぐこ ともしないだろうから、 大自然の懐の深さとか、 ブラジルの風景の広大さとか、 自然の不思議ともいえる営みとか、 そういうものを感受することもなかったのだ と思うと、 どうにも抵抗し難い運命というものに流されながら、 無理せずに、 手の届く範囲の環境のなかで、 精いっぱい生きたらいいのではないのか、 と柳子は 思いはじめていた。
足が腫れて歩けなくなったり、 手の皮がめくれて血が噴き出したりしたときの、 悲壮感が消滅して、 自然に同化できる心境になっていたのだ。
それは、 限られた範囲の生活環境のなかだけだけれど、 自然を観察し、 人間を観察して得たものだったが、 十七歳から十八歳というもっとも感受性の高まる時期でもあったし、 いろんな点で、 おとなと子どもの境でもあったから、 柳子をさらに大きく成長させたといえるだろう。
自然の力は、 いくら抵抗しても、 遂には人を諦めさせるほど強大なものなのがわかって、 それを口惜しいと思わずに、 抱かれてゆく従順さを育んだ。
そして、 それがわかると、 父もまた抗し難いなにものかに押し流されて、 彼自身の意思ではなくブラジルに来ることになったのだろう、 とやさしい気持ちになれた。
放蕩の末に信州に居られなくなり、 みずから志願して、 養蚕指導員という肩書きを持ってブラジルに来ることになったのだけれど、 秋子さんの言う「運命」のせ いだとすれば、 父のわがまま勝手な行動を責めても仕様がないのだ、 ペニス増大 と理解できるようになったのが、 柳子にはふしぎに思えた。
父の過去を恕すというのではなく、 人間の男女関係もまた自然のなかで営まれるものなのだ、 ということが、 いろいろな人種が共同生活をしているなかで知り得たものだった。
そんなことを考えると、 秋子さんを諦めさせてきた「運命」というものを、 信じないわけには行かないかなあ、 と柳子も思う。
それはある種の恐怖に通ずる感慨だったが、 柳子を屈服させるものではなかった。認識させるというやさしい押しつけだったのだ。
それにつれて、 柳子は、 人間の生き方には幾通りもの道が用意されていて、 どの道を選ぶかはみずからの意思で決められそうに思えるのだけれど、 そうではな く、 外部からの影響によって歩む道を限定されるような気がする。だから父も、 彼のわがままだけでブラジルに来たのではなく、 そうしなければならなくなった なんらかの運命的なものに押し出される恰好で、 こうなったのではないかと思えるから、 一概に父を責めるのは可哀相にも思ったのだ。
恰好はどうであれ、 いちおう海外へ出向するという誉れを掲げて、 万歳万歳の歓呼の声に送られ、 「島々」の駅を出発し、 軍楽隊の勇ましいメロディーで神戸の 港を出港してきたのだから、 すでにケープタウンを回ったところで、 派遣取り消しの電報が入ったからといって「男子がおめおめと帰れるものか」と父が急遽身 インポテンツ の振り方を変更したのも、 彼の意志のようであって、 実はそうではなく、 そういう運命にあったのだ、 とも思えるところがあった。
母もただ呆然とするばかりで、 抗し難い運命の波に押し流されるのは仕方のないことだ、 と諦めているふうだった。
しかし、 運命というものが、 そういうものなのだと思っても、 そう思ってしまうと、 なんだか人生ってすごくつまらないようにも思えるから、 なにもかも運命のせいにしたくはなかった。
漢方 何とか恰好をつ
みずからが思惟したことばに、 満足して、 それを声にする。
声になって出たことばは、 分解して風に飛ばされ拡散するのではなく、 「いのちの営み」「いのちの営み」「いのちの営み」と、 いくつもの同じことばの複写になって、 農園の上を広がって飛翔してゆく。
そうかあ、 そうだよねえ。すべてが「いのちの営み」なんだあ。
コーヒー樹の枝の節節に芽生える薄緑のふくらみ。それが白い花になり、 雌蘂と雄蘂が結ばれて実になり、 色づき、 落下して、 また芽吹き、 それを毎年繰り返す起死回生。ふしぎな自然の「いのちの営み」。
馬でも牛でも豚でも、 そしてヒトでも。雄と雌が交尾して、 子を産み、 死んで、 という輪廻転生を繰り返しているのだ、 と惟うと、 セックスも「いのちの営み」なんだ。自然な行為なんだ。
どうしてそれを、 ヒトだけが恥ずかしい行為だと思うのだろう。罪なことだと考えるのだろう。
誰と誰がセックスしていても、 互いが求め合ってすることならば、 それは自然の営みなのだ。悪いことであるはずはない。
わたしがさっき、 そうしようと意識せず、 衝動的にペドロとキスしたのも、 自然な行為だったのだ。
あれが、 ブラジルに来ておよそ一年のあいだに観察してきたことの、 媚薬 一つの解答だったのだ。
そう惟うと、 どんどん胸が膨らんできて、 破裂しそうな予感がして、 精力増強剤 思わず胸に手を当てていた。そして掌に受けた感触がいつもと同じ扁平なものだったから、 安心する。
安心したなかで、 ほんとうにペドロはいい青年だなあ、 としみじみ想う。
自分ながらびっくりした衝動でキスしたのだけれど、 それは以前からペドロに好感を持っていたからだし、 黒人とキスしたら、 自分自身の心境にどんな変化が 起こるだろうか、 というこちら側の一方的な好奇心と、 キスしたあとで、 ペドロがどんな態度を取るだろうか。キスしたのだから、 そのあとのこともさせてくれ と言うだろうか。もしもそんなことになったら、 大きな悲鳴を上げて小屋から飛び出すという、 腰が引けるような危険性を伴った冒険心もあったのだ。だからペ ドロが紳士的な態度で終らせたことに、 心のなかでぺろっと舌を出しながら、 感心もし、 称賛の拍手を送ったのだ。
彼はすごく冷静なんだ。その冷静さが信じられないほどだったが、 柳子はうれしかった。
ペドロは無学文盲だ、 と熊野さんは軽蔑して言ったけれど、 それは勉強する環境のなかで生まれなかったからで、 知能指数の問題とは違うのだ。
彼はすごく鋭い知性があるし、 落ち着いた理性があるし、 繊細な感性があるし、 王侯貴族のような気品を備えているし、 生まれた環境さえよかったら、 豚の糞に 塗れるのではなく、 本の虫になっていたかもしれないのだ。そういえば詩人の素質を持っていそうな眼だもの、 と柳子は、 さきほどキスしたあとで、 じっと視線 を絡ませたときの感じを思い出していた。
あれほど長いキスをしながら、 ペドロの息遣いが乱れなかったのを想うと、 鷹彦さんは、 と柳子は、 すっと刷毛で刷くようなキスをして、 心を乱したことを憶い出し、 鷹彦さんには、 知性はあっても、 理性が乏しいのではないだろうか、 と考えてしまう。
あ、 わたしはマイナス思考が嫌いなんだ。鷹彦さんの乱れようは病気のせいなんだ。彼ももとの元気な躰になれば、 また世界を一つにするのが、 ぼくの夢なんだ よ、 と明るい笑顔で言ってくれるだろう。たとえそれが不可能なことであって、 一つの希望を持っているだけで、 人生は楽しいんだから。と彼自身が言った快活 さに戻るだろう、 と性質が陽性な柳子は思い直す。
曲がりなりにも、 そして救援はしてもらったけれど、 それは金銭で片付くことだし、 一応は一年契約の労働条件の、 受け持ち区域のコーヒー採取作業は終えたのだ。
まったく農作業などはじめてするわたしが。そして日本では「総領の甚六」、 中華 「ぐうたら息子」、 「放蕩息子」、 と鼻つまみものだった父が、 母の忍耐力と励ましとによって、 コーヒー収穫の労働に、 漢方 何とか恰好をつけたのだ。
父にもわたしにも、 そして母にも、 ブラジルに来た意味はあったのだ。
そう想うと、 周囲の風景が、 いっそう広がり、 明るさを増し、 ただ荒涼としたものではなく、 遥かな眺望の、 視界から食み出して、 未来につながっている彼方へ、 希望を伸ばしてゆくことができた。
そして、 その広大さは、 小さな柳子を侮り、 弾き出し、 日本へ帰って行けと軽蔑するのではなく、 よう来たな、 頑張れよ、 と自然の懐にぐいぐい惹き込んでくれる、 豊かな慈愛に思えるものだった。
信州の農家で産声を上げた農民の子が、 幼いときから東京の水に慣れてしまって、 鍬を手にすることを、 もっとも下賎なもののすることだと思い、 恥ずかしいことだと考えるようになっていたのだ。
声になって出たことばは、 分解して風に飛ばされ拡散するのではなく、 「いのちの営み」「いのちの営み」「いのちの営み」と、 いくつもの同じことばの複写になって、 農園の上を広がって飛翔してゆく。
そうかあ、 そうだよねえ。すべてが「いのちの営み」なんだあ。
コーヒー樹の枝の節節に芽生える薄緑のふくらみ。それが白い花になり、 雌蘂と雄蘂が結ばれて実になり、 色づき、 落下して、 また芽吹き、 それを毎年繰り返す起死回生。ふしぎな自然の「いのちの営み」。
馬でも牛でも豚でも、 そしてヒトでも。雄と雌が交尾して、 子を産み、 死んで、 という輪廻転生を繰り返しているのだ、 と惟うと、 セックスも「いのちの営み」なんだ。自然な行為なんだ。
どうしてそれを、 ヒトだけが恥ずかしい行為だと思うのだろう。罪なことだと考えるのだろう。
誰と誰がセックスしていても、 互いが求め合ってすることならば、 それは自然の営みなのだ。悪いことであるはずはない。
わたしがさっき、 そうしようと意識せず、 衝動的にペドロとキスしたのも、 自然な行為だったのだ。
あれが、 ブラジルに来ておよそ一年のあいだに観察してきたことの、 媚薬 一つの解答だったのだ。
そう惟うと、 どんどん胸が膨らんできて、 破裂しそうな予感がして、 精力増強剤 思わず胸に手を当てていた。そして掌に受けた感触がいつもと同じ扁平なものだったから、 安心する。
安心したなかで、 ほんとうにペドロはいい青年だなあ、 としみじみ想う。
自分ながらびっくりした衝動でキスしたのだけれど、 それは以前からペドロに好感を持っていたからだし、 黒人とキスしたら、 自分自身の心境にどんな変化が 起こるだろうか、 というこちら側の一方的な好奇心と、 キスしたあとで、 ペドロがどんな態度を取るだろうか。キスしたのだから、 そのあとのこともさせてくれ と言うだろうか。もしもそんなことになったら、 大きな悲鳴を上げて小屋から飛び出すという、 腰が引けるような危険性を伴った冒険心もあったのだ。だからペ ドロが紳士的な態度で終らせたことに、 心のなかでぺろっと舌を出しながら、 感心もし、 称賛の拍手を送ったのだ。
彼はすごく冷静なんだ。その冷静さが信じられないほどだったが、 柳子はうれしかった。
ペドロは無学文盲だ、 と熊野さんは軽蔑して言ったけれど、 それは勉強する環境のなかで生まれなかったからで、 知能指数の問題とは違うのだ。
彼はすごく鋭い知性があるし、 落ち着いた理性があるし、 繊細な感性があるし、 王侯貴族のような気品を備えているし、 生まれた環境さえよかったら、 豚の糞に 塗れるのではなく、 本の虫になっていたかもしれないのだ。そういえば詩人の素質を持っていそうな眼だもの、 と柳子は、 さきほどキスしたあとで、 じっと視線 を絡ませたときの感じを思い出していた。
あれほど長いキスをしながら、 ペドロの息遣いが乱れなかったのを想うと、 鷹彦さんは、 と柳子は、 すっと刷毛で刷くようなキスをして、 心を乱したことを憶い出し、 鷹彦さんには、 知性はあっても、 理性が乏しいのではないだろうか、 と考えてしまう。
あ、 わたしはマイナス思考が嫌いなんだ。鷹彦さんの乱れようは病気のせいなんだ。彼ももとの元気な躰になれば、 また世界を一つにするのが、 ぼくの夢なんだ よ、 と明るい笑顔で言ってくれるだろう。たとえそれが不可能なことであって、 一つの希望を持っているだけで、 人生は楽しいんだから。と彼自身が言った快活 さに戻るだろう、 と性質が陽性な柳子は思い直す。
曲がりなりにも、 そして救援はしてもらったけれど、 それは金銭で片付くことだし、 一応は一年契約の労働条件の、 受け持ち区域のコーヒー採取作業は終えたのだ。
まったく農作業などはじめてするわたしが。そして日本では「総領の甚六」、 中華 「ぐうたら息子」、 「放蕩息子」、 と鼻つまみものだった父が、 母の忍耐力と励ましとによって、 コーヒー収穫の労働に、 漢方 何とか恰好をつけたのだ。
父にもわたしにも、 そして母にも、 ブラジルに来た意味はあったのだ。
そう想うと、 周囲の風景が、 いっそう広がり、 明るさを増し、 ただ荒涼としたものではなく、 遥かな眺望の、 視界から食み出して、 未来につながっている彼方へ、 希望を伸ばしてゆくことができた。
そして、 その広大さは、 小さな柳子を侮り、 弾き出し、 日本へ帰って行けと軽蔑するのではなく、 よう来たな、 頑張れよ、 と自然の懐にぐいぐい惹き込んでくれる、 豊かな慈愛に思えるものだった。
信州の農家で産声を上げた農民の子が、 幼いときから東京の水に慣れてしまって、 鍬を手にすることを、 もっとも下賎なもののすることだと思い、 恥ずかしいことだと考えるようになっていたのだ。
2011年11月25日星期五
ペニス短小 おばさんと夏
それから二、 三日して、 早漏
「柳ちゃん、 おおきに」
と茂おじさんから礼を言われて、 柳子はきょとんとした。
「おじさん、 どうして、 わたしに礼言うのよ」
「ここだけの話だすけどな」
茂は柳子の耳に口を寄せて、 囁く声になり、 「夜逃げのことだすがな」
と言う。
「ああ、 なんだ、 夜逃げのことなの」
柳子も茂の真似をして、 声を低くして、 体力の衰え 「もう中止したんでしょう」
と笑う。
「そうだす、 柳ちゃんがなんだかだ秋子に言うてくれたお陰で、 止める
ことにしたんだす、 おおけに、 おおけに」
茂は重ねて礼を言ったが、 柳子は、 礼を言われる筋合いではないと思っ
て、 気持ちがし
っくりしなかった。
秋子さんが、 どういうふうに話したのか、 茂おじさんが勝手に解釈を変
えて、 そういうことにしているのか、 わたしの立場をよくしてくれてい
るのだ。わたしは止めろと忠告したのではなく、 逆に嗾けるようなこと
を言ったんだけど、 と柳子は思ったが、 おじさんの気持ちを素直に受け
ることにする。
どこでどう話が行き違いになったのか知らないけれど、 結果はそういう
ことになったのだから、 もう済んだことなのだ、 と思って。
それにしても変だなあ、 中折れ と疑問は残った。タツおばさんと夏子さんが、
事の起こりから仕舞いまで、 知らぬ半兵衛を決め込んでいたことだった
。ほんとうに知らなかったのか、 まったく知らされていなかったのだと
すれば、 秋子さんの秘密主義の徹底さが怖いほどだし、 もしもおばさん
らが知っていて知らぬ顔をしていたのだとすれば、 すごい演技力だと思
う。
どちらにしても、 秋子さんとおじさん、 ペニス短小 おばさんと夏子さんという二派
に別れた小森家は、 その後しっくり行かなくなったことだけは確定した
。
まあ、 はじめから柳子は、 秋子さんとおじさんとしか親しくしなかった
のだからいいけど、 と思った。
残念なことがもう一つあった。あれだけ剽軽者だった茂おじさんが、 人
を笑わせつづけた陽気さをすっかりなくしてしまったことが、 柳子には
寂しくてならなかった。
「どないに考えても、 わてらに百姓仕事は無理だすさかいなあ、 たとえ
乞食したかて街のほうがよろします。鉄砲持って見張られてるより、 高
利貸から追い掛け回されてるほうがまだましだす。これやったら、 たこ
部屋だすがな、 いつになったら出られることやら」
と茂がしみじみ言った言葉も、 耳に残った。
ああ言ったくらいだから、 やはり秋子さんとおじさんは、 本気で夜逃げ
のこと考えていたんだなあ、 と柳子もしみじみと思い返す。
それでも、 夫婦喧嘩と夜逃げの話でごった返した小森の家族も、 その後
は小康状態を保っていて、 夫婦のあいだのよそよそしさはそのままだっ
たが、 それぞれの作業分担は崩すことなく、 秋子と夏子と春雄とがコー
ヒーの実を?ぎ、 タツが掻き集め、 茂がサビル。
「まだやっと一俵だっせえ」
タツが意地悪そうに言う声は聴こえたが、 それに応える声はなかった。
タツも、 一俵が、 二俵になり、 三俵に増えるに従って、 口数が減ってゆ
く。
そうだ、 変化があった。春雄がペネイラを持ってサビル作業をしはじめ
たことだった。
春雄はどんどん背丈が伸びて、 並み男の父より大柄の母に似たのだろ
「柳ちゃん、 おおきに」
と茂おじさんから礼を言われて、 柳子はきょとんとした。
「おじさん、 どうして、 わたしに礼言うのよ」
「ここだけの話だすけどな」
茂は柳子の耳に口を寄せて、 囁く声になり、 「夜逃げのことだすがな」
と言う。
「ああ、 なんだ、 夜逃げのことなの」
柳子も茂の真似をして、 声を低くして、 体力の衰え 「もう中止したんでしょう」
と笑う。
「そうだす、 柳ちゃんがなんだかだ秋子に言うてくれたお陰で、 止める
ことにしたんだす、 おおけに、 おおけに」
茂は重ねて礼を言ったが、 柳子は、 礼を言われる筋合いではないと思っ
て、 気持ちがし
っくりしなかった。
秋子さんが、 どういうふうに話したのか、 茂おじさんが勝手に解釈を変
えて、 そういうことにしているのか、 わたしの立場をよくしてくれてい
るのだ。わたしは止めろと忠告したのではなく、 逆に嗾けるようなこと
を言ったんだけど、 と柳子は思ったが、 おじさんの気持ちを素直に受け
ることにする。
どこでどう話が行き違いになったのか知らないけれど、 結果はそういう
ことになったのだから、 もう済んだことなのだ、 と思って。
それにしても変だなあ、 中折れ と疑問は残った。タツおばさんと夏子さんが、
事の起こりから仕舞いまで、 知らぬ半兵衛を決め込んでいたことだった
。ほんとうに知らなかったのか、 まったく知らされていなかったのだと
すれば、 秋子さんの秘密主義の徹底さが怖いほどだし、 もしもおばさん
らが知っていて知らぬ顔をしていたのだとすれば、 すごい演技力だと思
う。
どちらにしても、 秋子さんとおじさん、 ペニス短小 おばさんと夏子さんという二派
に別れた小森家は、 その後しっくり行かなくなったことだけは確定した
。
まあ、 はじめから柳子は、 秋子さんとおじさんとしか親しくしなかった
のだからいいけど、 と思った。
残念なことがもう一つあった。あれだけ剽軽者だった茂おじさんが、 人
を笑わせつづけた陽気さをすっかりなくしてしまったことが、 柳子には
寂しくてならなかった。
「どないに考えても、 わてらに百姓仕事は無理だすさかいなあ、 たとえ
乞食したかて街のほうがよろします。鉄砲持って見張られてるより、 高
利貸から追い掛け回されてるほうがまだましだす。これやったら、 たこ
部屋だすがな、 いつになったら出られることやら」
と茂がしみじみ言った言葉も、 耳に残った。
ああ言ったくらいだから、 やはり秋子さんとおじさんは、 本気で夜逃げ
のこと考えていたんだなあ、 と柳子もしみじみと思い返す。
それでも、 夫婦喧嘩と夜逃げの話でごった返した小森の家族も、 その後
は小康状態を保っていて、 夫婦のあいだのよそよそしさはそのままだっ
たが、 それぞれの作業分担は崩すことなく、 秋子と夏子と春雄とがコー
ヒーの実を?ぎ、 タツが掻き集め、 茂がサビル。
「まだやっと一俵だっせえ」
タツが意地悪そうに言う声は聴こえたが、 それに応える声はなかった。
タツも、 一俵が、 二俵になり、 三俵に増えるに従って、 口数が減ってゆ
く。
そうだ、 変化があった。春雄がペネイラを持ってサビル作業をしはじめ
たことだった。
春雄はどんどん背丈が伸びて、 並み男の父より大柄の母に似たのだろ
強壮剤 見張り番の実態を見極
、 憂鬱そうに、 一瞬笑顔を消してしまったのは、 「夜逃げ」という言葉
の重さを感じたからだろうか。
それにしても、 おじさんと秋子さんの夜逃げの話を、 皆が知っていると
いうほうがおかしい。
「お父ちゃ、 誰が夜逃げするっていうのかしら、 わたしたちの小屋の裏
で、 夜通し見張ってるなんて気分悪いわねえ」
柳子は、 正面から突っかかって行くのを止めて、 搦め手から訊いてみる
。
「別に儂らだけを見張ってるわけじゃないさ、 夜番はあちらこちらにい
るんだから」
「あら、 そうだったのぉ、 あっちこっちで見張ってたの。わたし、 知ら
なかった。いつからなの」
「ずっとさ」
「ずっとって」
「ずっとむかしの、 奴隷時代からだろう」
「なんだあ、 そうかあ、 そういうことだったのか」
柳子の愁眉はとたんに啓く。秋子さんは、 精力剤 二人だけの秘密をばらしたり 滋養
はしなかったのだ。わたしもいっしょに夜逃げしようと相談したことを
、 おじさんも父に報せてはいなかったのだ。父は一般論として言ったま
でだったのだ、 と。
奴隷制時代は、 奴隷の逃亡は財産の損失だから見張っていたのだろうが
、 いまも見張りつづけているのは、 奴隷制の風習の名残からだけではな
かった。
外国からの移民の導入にも、 輸送費や施設費や移殖民協会に納付する分
担金やら、 コーヒー収穫までに、 莫大に消費する生活費を掛売りしてあ
るのだから、 コーヒー収穫までに逃げられると、 農場側の損失は大きい
のだ。
各農場主が納付している移住事業の分担金は、 大半が移住者の福祉のた
めというのが名目だったが、 それはあくまで建前であって、 納付金のほ
とんどは官吏や協会幹部に着服されて、 移住者は建前だけの善意に浴す
るどころか、 損失分を負担させられて、 安い賃金に抑えられ、 食料や生
活必需品に暴利を掛けられてきたのだった。
内国移民のガイジンの逃亡もあったが、 日本人移民は、 ほとんどが出稼
ぎ者だったから、 少しでも条件のいいところを求めて移動するし、 引き
抜きもあって、 案外に夜逃げが頻繁に、 かつ巧妙に行われていた。
そういう事情だけではないだろうが、 どこの農場でも、 カッパンガと呼
ぶ用心棒を雇っていた。彼らカッパンガはならず者だから、 事件の起こ
らないうちは、 火酒を飲み、 博打をし、 女を手込めにしたりして、 プロ
ブレマも起こすのだが、 見張り番として雇わないわけにもいかず、 まさ
しく必要悪というところで、 柳子が、 暗闇に蹲っている獣の気配を直感
的に感じたのも、 あながち間違いではなかった。
しかし、 柳子の好奇心は、 それを上回っていて、 強壮剤 見張り番の実態を見極
めてやろうと思い立つ。
今夜はのんきに夜空を仰いで星の流れを追ったりしないで、 地上で蠢く
見張り番を見詰ていなければならないからと、 柳子はこっそり板囲いの 漢方薬
簡易便所に入り込み、 これを造っ
たとき、 外から覗かれるのを嫌って、 新聞紙で塞いだ節穴を探して、 指
を入れ、 穴を開け直す。
そこに眼を当て、 眼を凝らして、 闇を探ると、 ああ、 あそこに居る。ぽ
っと赤い光が膨張したから、 すぐに見張り番の居場所は分かった。はじ
めてそれに気づいたときには、 獣の眼だろうか、 などとみずから恐怖心
の起こるようなことを思ったが、 それがヒトであり、 見張り番だとわか
ったいまは、 その膨張したり収縮したりするものは、 見張り番が喫って
いる煙草の火だ、 とすぐに判断できるのだからおかしなものだった。
そればかりではなかった。その赤い火がぼうっと膨張したときに浮かび
上がる黒い人影の輪郭も見えるし、 彼が抱えているものが銃だとわかる
のだから、 人間の意識というか、 感覚というか、 視覚能力というものも
、 ふしぎなものだと思う。
そんなことをのんきに考えていたが、 考え直してみると、 そこに今夜
の重さを感じたからだろうか。
それにしても、 おじさんと秋子さんの夜逃げの話を、 皆が知っていると
いうほうがおかしい。
「お父ちゃ、 誰が夜逃げするっていうのかしら、 わたしたちの小屋の裏
で、 夜通し見張ってるなんて気分悪いわねえ」
柳子は、 正面から突っかかって行くのを止めて、 搦め手から訊いてみる
。
「別に儂らだけを見張ってるわけじゃないさ、 夜番はあちらこちらにい
るんだから」
「あら、 そうだったのぉ、 あっちこっちで見張ってたの。わたし、 知ら
なかった。いつからなの」
「ずっとさ」
「ずっとって」
「ずっとむかしの、 奴隷時代からだろう」
「なんだあ、 そうかあ、 そういうことだったのか」
柳子の愁眉はとたんに啓く。秋子さんは、 精力剤 二人だけの秘密をばらしたり 滋養
はしなかったのだ。わたしもいっしょに夜逃げしようと相談したことを
、 おじさんも父に報せてはいなかったのだ。父は一般論として言ったま
でだったのだ、 と。
奴隷制時代は、 奴隷の逃亡は財産の損失だから見張っていたのだろうが
、 いまも見張りつづけているのは、 奴隷制の風習の名残からだけではな
かった。
外国からの移民の導入にも、 輸送費や施設費や移殖民協会に納付する分
担金やら、 コーヒー収穫までに、 莫大に消費する生活費を掛売りしてあ
るのだから、 コーヒー収穫までに逃げられると、 農場側の損失は大きい
のだ。
各農場主が納付している移住事業の分担金は、 大半が移住者の福祉のた
めというのが名目だったが、 それはあくまで建前であって、 納付金のほ
とんどは官吏や協会幹部に着服されて、 移住者は建前だけの善意に浴す
るどころか、 損失分を負担させられて、 安い賃金に抑えられ、 食料や生
活必需品に暴利を掛けられてきたのだった。
内国移民のガイジンの逃亡もあったが、 日本人移民は、 ほとんどが出稼
ぎ者だったから、 少しでも条件のいいところを求めて移動するし、 引き
抜きもあって、 案外に夜逃げが頻繁に、 かつ巧妙に行われていた。
そういう事情だけではないだろうが、 どこの農場でも、 カッパンガと呼
ぶ用心棒を雇っていた。彼らカッパンガはならず者だから、 事件の起こ
らないうちは、 火酒を飲み、 博打をし、 女を手込めにしたりして、 プロ
ブレマも起こすのだが、 見張り番として雇わないわけにもいかず、 まさ
しく必要悪というところで、 柳子が、 暗闇に蹲っている獣の気配を直感
的に感じたのも、 あながち間違いではなかった。
しかし、 柳子の好奇心は、 それを上回っていて、 強壮剤 見張り番の実態を見極
めてやろうと思い立つ。
今夜はのんきに夜空を仰いで星の流れを追ったりしないで、 地上で蠢く
見張り番を見詰ていなければならないからと、 柳子はこっそり板囲いの 漢方薬
簡易便所に入り込み、 これを造っ
たとき、 外から覗かれるのを嫌って、 新聞紙で塞いだ節穴を探して、 指
を入れ、 穴を開け直す。
そこに眼を当て、 眼を凝らして、 闇を探ると、 ああ、 あそこに居る。ぽ
っと赤い光が膨張したから、 すぐに見張り番の居場所は分かった。はじ
めてそれに気づいたときには、 獣の眼だろうか、 などとみずから恐怖心
の起こるようなことを思ったが、 それがヒトであり、 見張り番だとわか
ったいまは、 その膨張したり収縮したりするものは、 見張り番が喫って
いる煙草の火だ、 とすぐに判断できるのだからおかしなものだった。
そればかりではなかった。その赤い火がぼうっと膨張したときに浮かび
上がる黒い人影の輪郭も見えるし、 彼が抱えているものが銃だとわかる
のだから、 人間の意識というか、 感覚というか、 視覚能力というものも
、 ふしぎなものだと思う。
そんなことをのんきに考えていたが、 考え直してみると、 そこに今夜
勃起力減退 と考える
てるだけや」
秋子は、 平凡と言ったけれど、 柳子には、 秋子の言葉が投げ遣りに聴こ
えた。
「まあね、 勃起不全 まだ一年には満たないんだもの、 ブラジルが永住に値する国
か、 はたまた日本がいつかは帰ってゆく祖国たり得るか、 非常に決め難
い問題だと、 わたしは思うのでありますが」
柳子がふざけて演説調に言うと、 秋子が転げ回るほど笑って、 溢れた涙
を拭う。
そのあと、 急にしんみりして、
「ウチら、 日本に帰ったかて、 一から遣り直しやし、 楽しい思い出なん
かあれへんし、 ここに来てわかったんやけど、 仕事はきついけどこれは
慣れやし、 考えようによってはブラジルも暮らしええとこやないかなあ
て思うんやけど」
秋子が言うのを簡単に解釈すると、 住めば都ということになるのだろう
と思う。
不幸な過去を背負ってきている秋子にすれば、 そう切実に日本に帰りた
いという思いはないのかもしなかった。
なんだか可哀相な秋子さん、 と思いはじめると、 身につまされて、 いっ
しょに泣いてやりたい気分になる柳子だった。
そして、 泣き顔を他人に見せたことのない柳子は、 泣かなければならな
い心境にさせた原因の一つ一つを解明しなければならないのではないの
だろうか、 と思い、 目に見えない何ものかに向かって怒りが湧いてくる 勃起障害
のを覚える。
そのなにものかは、 自分自身を東京からブラジルに、 いとも簡単に移し
替えることのできる、 抗しきれない巨大な力を持ったものらしいから、
畏怖を感じるのだけれど、 及ばずながらも抑制できない憤りを覚えて挑
戦的になる。
そういう境遇に立たされたことのない恵まれたものの感傷からの怒りに
すぎなかった柳子は、 東京にいるときにも、 雅子叔母から、 極貧の果て
に娘を売る親がいるという話を聴いていて、 「その親たちは、 どうして
死を選ばないのかしら」と、 娘たちへの憐憫を、 社会的に拡大して考え
ることはなく、 親への憎悪にしたことがあったが、 こんどもまた、 小森
の家庭の事情を観て、 その怒りの具体的な対象が、 ごく身近なところに
あるのだと義憤する。
義憤の対象は、 この農場の賃金システムの
悪辣さであり、 ベンダの法外な利潤の掛け方であり、 熊野の心の穢なさ
なのだ、 勃起力減退 と考える。
新聞記者になるのが希望だといっても、 まだ柳子には、 自分自身の身辺
のことにしか関心が向かなくて、 社会の仕組みを造っているものが、 想
像を絶する巨大な悪で、 ひ弱な個人が絶叫し、 暴れ回ってもどうにもな
らないものだとは思えなかった。抗議をすれば何とか成るのではないか
と考える。じっと我慢しなければしようがないものとは思いたくなかっ
たのだ。それではあまりにも情けないではないか、 と惟うから。
「ねえ、 秋子さん、 芸者に売られた娘のように、 鉄砲持った用心棒に見
張られてるなんて、 思っただけでも虫唾が走るじゃないの、 そう思わな
いぃ、 秋子さんは」
柳子は、 秋子からどんな返事が聴けるだろう、 と眼を耀かせて待つ。
「運命やよ、 なにもかも、 運命なんよ」
秋子は、 投げ遣りに言った。
「へええ、 秋子さんは、 運命いうものを信じてるの」
柳子が考えていたような返事ではなかったから、 ちょっと戸惑いなが
ら訊ねる。
「信じとうなくても、 自分の思うようになれへんかったら、 信じなしょ
うないやんか」
「じゃあ、 秋子さん、 諦めるのね」
「諦めなしょうないもん」
秋子は、 諦める、 ということばは適当ではないと思っていたが、 ほか
にことばが見つからなかったから、 そうしておく。
秋子の考えとしては、 ずうっと先のほうで、 いまの犠牲に見合うもん
を、 絶対に取り返すさかい、 虚弱体質 という根性を持っていたのだけれど、 それ
を簡単に説明することはできなかったのだ。
「諦めるんだったら、 きっぱり潔く諦めて、 もう二度と口にしないで」
「柳ちゃんは、 なんでも右か左か、 白か黒か、 はっきりせんといかんの
やねえ」
「そらそうじゃない、 中途半端にしてたら気持ち悪いじゃないの」
「その中途半端なとこでふらふらしてるのも気持ちええもんなんよ」
中途半端なことが気持ち悪いという柳子には、 中途半端なところで浮
遊している快さなどわからへんやろなあ、 と秋子は惟うだけにした。
「へええ、 秋子さん、 変な趣味あるのねえ」
「世の中、 はっきり決められへんことも仰山あるさかい」
秋子は、 柳子の少女趣味な潔癖さでは考えられないことやろうと思う。
「秋子さんは、 なんでも消極的に考えるからじゃないかしら」
「柳ちゃんが積極的すぎるんや思うけど」
「さあねえ、 どちらがどちらか知らないけど」
どんなに柳子が積極的でも、 そういう曖昧さで終わらせてしまうしかし
ようがなかった。
秋子は、 平凡と言ったけれど、 柳子には、 秋子の言葉が投げ遣りに聴こ
えた。
「まあね、 勃起不全 まだ一年には満たないんだもの、 ブラジルが永住に値する国
か、 はたまた日本がいつかは帰ってゆく祖国たり得るか、 非常に決め難
い問題だと、 わたしは思うのでありますが」
柳子がふざけて演説調に言うと、 秋子が転げ回るほど笑って、 溢れた涙
を拭う。
そのあと、 急にしんみりして、
「ウチら、 日本に帰ったかて、 一から遣り直しやし、 楽しい思い出なん
かあれへんし、 ここに来てわかったんやけど、 仕事はきついけどこれは
慣れやし、 考えようによってはブラジルも暮らしええとこやないかなあ
て思うんやけど」
秋子が言うのを簡単に解釈すると、 住めば都ということになるのだろう
と思う。
不幸な過去を背負ってきている秋子にすれば、 そう切実に日本に帰りた
いという思いはないのかもしなかった。
なんだか可哀相な秋子さん、 と思いはじめると、 身につまされて、 いっ
しょに泣いてやりたい気分になる柳子だった。
そして、 泣き顔を他人に見せたことのない柳子は、 泣かなければならな
い心境にさせた原因の一つ一つを解明しなければならないのではないの
だろうか、 と思い、 目に見えない何ものかに向かって怒りが湧いてくる 勃起障害
のを覚える。
そのなにものかは、 自分自身を東京からブラジルに、 いとも簡単に移し
替えることのできる、 抗しきれない巨大な力を持ったものらしいから、
畏怖を感じるのだけれど、 及ばずながらも抑制できない憤りを覚えて挑
戦的になる。
そういう境遇に立たされたことのない恵まれたものの感傷からの怒りに
すぎなかった柳子は、 東京にいるときにも、 雅子叔母から、 極貧の果て
に娘を売る親がいるという話を聴いていて、 「その親たちは、 どうして
死を選ばないのかしら」と、 娘たちへの憐憫を、 社会的に拡大して考え
ることはなく、 親への憎悪にしたことがあったが、 こんどもまた、 小森
の家庭の事情を観て、 その怒りの具体的な対象が、 ごく身近なところに
あるのだと義憤する。
義憤の対象は、 この農場の賃金システムの
悪辣さであり、 ベンダの法外な利潤の掛け方であり、 熊野の心の穢なさ
なのだ、 勃起力減退 と考える。
新聞記者になるのが希望だといっても、 まだ柳子には、 自分自身の身辺
のことにしか関心が向かなくて、 社会の仕組みを造っているものが、 想
像を絶する巨大な悪で、 ひ弱な個人が絶叫し、 暴れ回ってもどうにもな
らないものだとは思えなかった。抗議をすれば何とか成るのではないか
と考える。じっと我慢しなければしようがないものとは思いたくなかっ
たのだ。それではあまりにも情けないではないか、 と惟うから。
「ねえ、 秋子さん、 芸者に売られた娘のように、 鉄砲持った用心棒に見
張られてるなんて、 思っただけでも虫唾が走るじゃないの、 そう思わな
いぃ、 秋子さんは」
柳子は、 秋子からどんな返事が聴けるだろう、 と眼を耀かせて待つ。
「運命やよ、 なにもかも、 運命なんよ」
秋子は、 投げ遣りに言った。
「へええ、 秋子さんは、 運命いうものを信じてるの」
柳子が考えていたような返事ではなかったから、 ちょっと戸惑いなが
ら訊ねる。
「信じとうなくても、 自分の思うようになれへんかったら、 信じなしょ
うないやんか」
「じゃあ、 秋子さん、 諦めるのね」
「諦めなしょうないもん」
秋子は、 諦める、 ということばは適当ではないと思っていたが、 ほか
にことばが見つからなかったから、 そうしておく。
秋子の考えとしては、 ずうっと先のほうで、 いまの犠牲に見合うもん
を、 絶対に取り返すさかい、 虚弱体質 という根性を持っていたのだけれど、 それ
を簡単に説明することはできなかったのだ。
「諦めるんだったら、 きっぱり潔く諦めて、 もう二度と口にしないで」
「柳ちゃんは、 なんでも右か左か、 白か黒か、 はっきりせんといかんの
やねえ」
「そらそうじゃない、 中途半端にしてたら気持ち悪いじゃないの」
「その中途半端なとこでふらふらしてるのも気持ちええもんなんよ」
中途半端なことが気持ち悪いという柳子には、 中途半端なところで浮
遊している快さなどわからへんやろなあ、 と秋子は惟うだけにした。
「へええ、 秋子さん、 変な趣味あるのねえ」
「世の中、 はっきり決められへんことも仰山あるさかい」
秋子は、 柳子の少女趣味な潔癖さでは考えられないことやろうと思う。
「秋子さんは、 なんでも消極的に考えるからじゃないかしら」
「柳ちゃんが積極的すぎるんや思うけど」
「さあねえ、 どちらがどちらか知らないけど」
どんなに柳子が積極的でも、 そういう曖昧さで終わらせてしまうしかし
ようがなかった。
インポテンツ そんな目的があ
るのん見合わそうかあいうて」
「見合わすって、 もうぜんぜんしないってことなの」
「お父ちゃんが、 もうちょっと辛抱してみるか言うてはるさかい」
「なんだあ、 つまらない。わたしぜったいペドロの豚小屋に火をつけて
火事騒ぎ起こしたら、 秋子さんらの夜逃げ成功するって思ってたのに」
柳子の落胆がほんもののように見えたから、 ほんまに夜逃げせんでよか
った、 と秋子は胸を撫で下ろす。この子は何仕出かすやらわからん子や
さかいなあ、
「ほんまに柳ちゃんには、 うっかりしたこと言えへんわあ、 怖い怖い」
柳子は、 ほんとうにペドロの豚小屋に火をつけることを考えていたわけ
ではなかった。いま思いつきで言ったのだが、 秋子の慌てて打ち消す様
子に、 ことの重大さを思って、 思いついたことをすぐに口にしてしまう 勃起促進剤
みずからの迂闊さを反省しながらも、 秋子が夜逃げ計画を中止したとい
うのを知って、 残念がる。
「なんだあ、 止めたのお、 せっかくいい思案浮かんだのに」
「ええ思案やなんて、 よう言うわあ、 ちょっと間違うたら放火犯よ、 柳
ちゃんは」
「なんだか八百屋お七の心境わかるようだわ」
柳子は見当違いなことを言う。
「怖いこと言わんといてえ、 この農場丸焼けになったら、 獄門行きやさ
かいねえ」
「はははははあ、 獄門行きだなんて、 秋子さんも古いわねえ」
柳子にすれば、 夜逃げという悲壮な事柄も、 生活の綾にすぎない。そん
なに深刻な問題ではなかったから、 興奮剤 遊び心でいろいろなことを考え、 意
表を突いた思いつきをおもしろがっていたのだから、 ちょっとスリルの
ありそうなことを中止されるのを、 非常に残念がるのだった。
「まあ、 慌ててすると仕損じるっていうから、 そのうちいいチャンスを
つかんだら決行しようよね」
「もうせえへんの、 夜逃げのこと忘れてよ」
「でも、 秋子さん、 ほんとうは日本に帰りたいんでしょ、 初恋の人もい
ることだし」
「そんなもん、 もう諦めてる、 ウチかて、 これで思い切りええほうなん
よ」
「そうだわねえ、 秋子さん、 弱そうで勁いわねえ」
「大阪のオナゴやさかい」
「その大阪のオナゴと、 東京の女の人と、 どこがどう違うのかしら」
「ウチかてはっきりは知らんけど、 表面軟らこうて芯が硬いのんが浪花
女で、 気が勝ってて強そうに見えるけど脆いのんが東京の人、 思うんや
けど」
「ふうん、 そうかなあ、 そう言えばそうかも
知れないわねえ」
柳子は全面的に肯定はし兼ねたが、 大雑把に言ってそんなところがある
ようだとも思う。
「それはそうとして、 秋子さん、 このあとどうするの」
「このあと言うて、 どのあとのこと」
「コーヒーの実採って一年の勘定が済めば、 ペニス増大 拘束から解放されるって、
お父さんが言ってたけど、 そのあとよ」
「ウチらは解放されへんらしいわ」
「どうしてえ」
「借金残るさかい、 ここから出してもらえへんねんてえ」
「ははあん、 それで夜逃げ考えたのね」
「まあ、 そういうことやけど、 もう一年がんばろか、 こんどの一年は、
仕事にも、 生活の仕方にも慣れてるさかい、 借金増やすようなことにな
れへんやろ、 てお父ちゃんも言うてはるしね」
「わたしらは、 せっかくブラジルに来たんだから、 ちょっとコーヒー農
場経験して帰ろうかって、 お父さんの考えだったのよねえ」
「じゃあ、 ここ終わったら、 すぐに日本に帰るわけ」
「さあ、 どうするのかしら、 わたしはどちらにしても外国を見学に来た
だけだし、 東京で新聞記者したいって思ってるから」
「ええねえ、 柳ちゃんは、 インポテンツ そんな目的があって」
「秋子さんには目的ないのお」
「あれへん、 成り行き任せ、 平凡に暮らせたらそれがいちばんええ思
「見合わすって、 もうぜんぜんしないってことなの」
「お父ちゃんが、 もうちょっと辛抱してみるか言うてはるさかい」
「なんだあ、 つまらない。わたしぜったいペドロの豚小屋に火をつけて
火事騒ぎ起こしたら、 秋子さんらの夜逃げ成功するって思ってたのに」
柳子の落胆がほんもののように見えたから、 ほんまに夜逃げせんでよか
った、 と秋子は胸を撫で下ろす。この子は何仕出かすやらわからん子や
さかいなあ、
「ほんまに柳ちゃんには、 うっかりしたこと言えへんわあ、 怖い怖い」
柳子は、 ほんとうにペドロの豚小屋に火をつけることを考えていたわけ
ではなかった。いま思いつきで言ったのだが、 秋子の慌てて打ち消す様
子に、 ことの重大さを思って、 思いついたことをすぐに口にしてしまう 勃起促進剤
みずからの迂闊さを反省しながらも、 秋子が夜逃げ計画を中止したとい
うのを知って、 残念がる。
「なんだあ、 止めたのお、 せっかくいい思案浮かんだのに」
「ええ思案やなんて、 よう言うわあ、 ちょっと間違うたら放火犯よ、 柳
ちゃんは」
「なんだか八百屋お七の心境わかるようだわ」
柳子は見当違いなことを言う。
「怖いこと言わんといてえ、 この農場丸焼けになったら、 獄門行きやさ
かいねえ」
「はははははあ、 獄門行きだなんて、 秋子さんも古いわねえ」
柳子にすれば、 夜逃げという悲壮な事柄も、 生活の綾にすぎない。そん
なに深刻な問題ではなかったから、 興奮剤 遊び心でいろいろなことを考え、 意
表を突いた思いつきをおもしろがっていたのだから、 ちょっとスリルの
ありそうなことを中止されるのを、 非常に残念がるのだった。
「まあ、 慌ててすると仕損じるっていうから、 そのうちいいチャンスを
つかんだら決行しようよね」
「もうせえへんの、 夜逃げのこと忘れてよ」
「でも、 秋子さん、 ほんとうは日本に帰りたいんでしょ、 初恋の人もい
ることだし」
「そんなもん、 もう諦めてる、 ウチかて、 これで思い切りええほうなん
よ」
「そうだわねえ、 秋子さん、 弱そうで勁いわねえ」
「大阪のオナゴやさかい」
「その大阪のオナゴと、 東京の女の人と、 どこがどう違うのかしら」
「ウチかてはっきりは知らんけど、 表面軟らこうて芯が硬いのんが浪花
女で、 気が勝ってて強そうに見えるけど脆いのんが東京の人、 思うんや
けど」
「ふうん、 そうかなあ、 そう言えばそうかも
知れないわねえ」
柳子は全面的に肯定はし兼ねたが、 大雑把に言ってそんなところがある
ようだとも思う。
「それはそうとして、 秋子さん、 このあとどうするの」
「このあと言うて、 どのあとのこと」
「コーヒーの実採って一年の勘定が済めば、 ペニス増大 拘束から解放されるって、
お父さんが言ってたけど、 そのあとよ」
「ウチらは解放されへんらしいわ」
「どうしてえ」
「借金残るさかい、 ここから出してもらえへんねんてえ」
「ははあん、 それで夜逃げ考えたのね」
「まあ、 そういうことやけど、 もう一年がんばろか、 こんどの一年は、
仕事にも、 生活の仕方にも慣れてるさかい、 借金増やすようなことにな
れへんやろ、 てお父ちゃんも言うてはるしね」
「わたしらは、 せっかくブラジルに来たんだから、 ちょっとコーヒー農
場経験して帰ろうかって、 お父さんの考えだったのよねえ」
「じゃあ、 ここ終わったら、 すぐに日本に帰るわけ」
「さあ、 どうするのかしら、 わたしはどちらにしても外国を見学に来た
だけだし、 東京で新聞記者したいって思ってるから」
「ええねえ、 柳ちゃんは、 インポテンツ そんな目的があって」
「秋子さんには目的ないのお」
「あれへん、 成り行き任せ、 平凡に暮らせたらそれがいちばんええ思
漢方 小森をしっかり見張
見張り番が居たことを確認できたのは、 一応の気休めにはなるけれど、
確認できたあとどうするのか、 朝まで見張り番に付き合って、 見張り番
を見張ることにどういう意味があるのか、 というと、 なんの意味もない
だろうと思う。
もっとも骨身に沁みてわかったことは、 夜の便所に蹲っていると、 じい
んと躰の芯まで凍えてくるほど、 ブラジルの夜は冷えるという、 気候的
事実だった。
柳子は、 その冷え込みを我慢してまで、 見張り番を見張るという愚かな
行為を中止して、 口笛を吹きながら小屋に帰ったが、 毛布を頭から被っ
てからも、 全身が凍えたために瘧のように震え出したのが、 なかなか温
もってこなくて困った。
茂おじさんを、 おっちょこちょいだと嗤えないなあ、 と反省する。
いや、 この凍えるような夜の戸外で、 それが彼らの仕事だとしても、 あ
るかないかわからない夜逃げの番をしているのも、 非常にご苦労さんな
ことなのだと思い、 彼らへの捩じれた感情を修正する。
奴隷のように見張られているのには腹が立つけれど、 媚薬 考えてみれば、 大
した働きもできない小森さんらが夜逃げすると、 いままでベンダに付け
で消費した生活費を踏み倒されることになって、 鷹彦さんの計算による
と、 暴利を掛けているとしても、 彼らの労賃と差引勘定がどうなるのか
しらないけれど、 農場側は損をすると思うからこそ、 見張り番を雇って 精力増強剤
でも、 労働者の逃亡を監視しているのだろう、 と考えがまとまってくる
。
こちらが見張り番を見張っているのは愚かなことだけど、 彼らが見張っ
ているのは愚かなことではなかったのだ、 中華 わたしも秋子さんと、 夜逃げ
の相談したのだから。
まして、 神戸の移民収容所で、 「わてら、 縫製工場潰しましてな、 夜逃
げしますねんがな、 ブラジルへ」と言った茂の冗談でも、 熊野が誰かか
ら漏れ聞いたとすれば、 この辺りを重点的に見張られても仕方ないこと
なのだ、 と納得するしかない。
そうだろうか、 ここで納得していいのだろうか、 農場側が経済的損失を
被るといっても、 小森が踏み倒してゆく生活費なんぞしれたものではな
いのか。熊野は日ごろ親切ごかしにしていても、 底の底では農場側の通
訳であって、 同胞の味方たり得ないのだ。
ああ、 そうじゃなかった、 とここで柳子は大いに気づく。
熊野が、 支配人に注意を促して、 漢方 小森をしっかり見張らせているのは、
農場側に対する忠誠心からではなくて、 まったく個人的な秋子への執着
心で、 秋子に逃げられて困るのは、 熊野が自分本位に算段したことの損
失だったのだ、 と。
なんだあ、 そうかあ、 そうならば、 いっそう秋子さんに手を貸して、 夜
逃げを成就させ、 秋子に懸想している熊野の鼻を明かしてやり
たいと、 柳子はいよいよ意地になる。
「ねえ、 秋子さん、 わたし見張り番をしっかり見張ってたのよ」
その翌日の昼食後、 秋子の耳に口を寄せて柳子が言うと、
「ええっ、 見張り番を見張ってたいうて、 どういうことお」
と秋子は呆れる。
「敵を制せんとすれば敵を知れって、 お父さんが言ってたから、 わたし
見張り番の動静を探っていたのよ。秋子さんが夜逃げするのに都合がい
い時間はいつごろだろうと思って」
そんな柳子の熱心さに対して、
「もうええのんよ」
と秋子の応えは、 冷め切っていた。
「もうええ言うことないでしょ、 あの状態だったらなかなか夜逃げする
の難しそうだから、 わたしが見張り番の眼を誤魔化して、 秋子さんらの
夜逃げを実現させてあげたいと思ったのよ。諦めなくてもなんとかなる
わよ」
「おおきに、 気ィ遣うてもろうて。そやけどウチら、 ちょっと夜逃げ
確認できたあとどうするのか、 朝まで見張り番に付き合って、 見張り番
を見張ることにどういう意味があるのか、 というと、 なんの意味もない
だろうと思う。
もっとも骨身に沁みてわかったことは、 夜の便所に蹲っていると、 じい
んと躰の芯まで凍えてくるほど、 ブラジルの夜は冷えるという、 気候的
事実だった。
柳子は、 その冷え込みを我慢してまで、 見張り番を見張るという愚かな
行為を中止して、 口笛を吹きながら小屋に帰ったが、 毛布を頭から被っ
てからも、 全身が凍えたために瘧のように震え出したのが、 なかなか温
もってこなくて困った。
茂おじさんを、 おっちょこちょいだと嗤えないなあ、 と反省する。
いや、 この凍えるような夜の戸外で、 それが彼らの仕事だとしても、 あ
るかないかわからない夜逃げの番をしているのも、 非常にご苦労さんな
ことなのだと思い、 彼らへの捩じれた感情を修正する。
奴隷のように見張られているのには腹が立つけれど、 媚薬 考えてみれば、 大
した働きもできない小森さんらが夜逃げすると、 いままでベンダに付け
で消費した生活費を踏み倒されることになって、 鷹彦さんの計算による
と、 暴利を掛けているとしても、 彼らの労賃と差引勘定がどうなるのか
しらないけれど、 農場側は損をすると思うからこそ、 見張り番を雇って 精力増強剤
でも、 労働者の逃亡を監視しているのだろう、 と考えがまとまってくる
。
こちらが見張り番を見張っているのは愚かなことだけど、 彼らが見張っ
ているのは愚かなことではなかったのだ、 中華 わたしも秋子さんと、 夜逃げ
の相談したのだから。
まして、 神戸の移民収容所で、 「わてら、 縫製工場潰しましてな、 夜逃
げしますねんがな、 ブラジルへ」と言った茂の冗談でも、 熊野が誰かか
ら漏れ聞いたとすれば、 この辺りを重点的に見張られても仕方ないこと
なのだ、 と納得するしかない。
そうだろうか、 ここで納得していいのだろうか、 農場側が経済的損失を
被るといっても、 小森が踏み倒してゆく生活費なんぞしれたものではな
いのか。熊野は日ごろ親切ごかしにしていても、 底の底では農場側の通
訳であって、 同胞の味方たり得ないのだ。
ああ、 そうじゃなかった、 とここで柳子は大いに気づく。
熊野が、 支配人に注意を促して、 漢方 小森をしっかり見張らせているのは、
農場側に対する忠誠心からではなくて、 まったく個人的な秋子への執着
心で、 秋子に逃げられて困るのは、 熊野が自分本位に算段したことの損
失だったのだ、 と。
なんだあ、 そうかあ、 そうならば、 いっそう秋子さんに手を貸して、 夜
逃げを成就させ、 秋子に懸想している熊野の鼻を明かしてやり
たいと、 柳子はいよいよ意地になる。
「ねえ、 秋子さん、 わたし見張り番をしっかり見張ってたのよ」
その翌日の昼食後、 秋子の耳に口を寄せて柳子が言うと、
「ええっ、 見張り番を見張ってたいうて、 どういうことお」
と秋子は呆れる。
「敵を制せんとすれば敵を知れって、 お父さんが言ってたから、 わたし
見張り番の動静を探っていたのよ。秋子さんが夜逃げするのに都合がい
い時間はいつごろだろうと思って」
そんな柳子の熱心さに対して、
「もうええのんよ」
と秋子の応えは、 冷め切っていた。
「もうええ言うことないでしょ、 あの状態だったらなかなか夜逃げする
の難しそうだから、 わたしが見張り番の眼を誤魔化して、 秋子さんらの
夜逃げを実現させてあげたいと思ったのよ。諦めなくてもなんとかなる
わよ」
「おおきに、 気ィ遣うてもろうて。そやけどウチら、 ちょっと夜逃げ
2011年11月24日星期四
漢方薬 理由かもしれない
しかし、 タツが、 あんな青白い文学青年と鷹彦を軽蔑したことには腹が立つし、 旺盛な生活力のある男と言う言葉の裏に描いているのが熊野だろうと思われるから、 すごく不潔な感じを受けて、 柳子は胸のなかまで汚され
た思いがする。
タツから青白い文学青年と蔑視されている鷹彦は、 コーヒー畑で作業していても一向に陽に焼けず、 精力剤 ますます青白くなってゆくように思ったのは、 小森茂の気違い騒ぎがあった次の日曜日に、 鷹彦と逢ったときだった。
昼食後すぐだったから、 まだ鷹彦は小屋にいるだろうと思って訪ねると、 じいんと肌に沁み込んでくるような肌寒さを感じる薄暗がりのなかで、 なにをしていたのか、 冴えない顔をして出てきた。
鷹彦は、 慌てたような様子で、
「いつもの川辺りに行こうか」
と誘う。
「病気だったんですかあ、 まだ咳をしておられるようですけど」
「なに、 もういいんだけど。柳ちゃんとは明るい場所で話さなくちゃあ」
鷹彦は、 無理しているような笑い顔をつくって言う。
「陽の当たる場所のほうが躰にもいいと思います」
そんなことは、 わたしが言わなくてもわかっていることだけれど、 こんな薄暗がりのなかに逼塞している鷹彦の心の暗さを思って言わずにはおられなかった。
午前中は、 こんなところで、 文子さんとふたりきりでいるのだ、 と思うと、 日本語とブラジル語を教えているのだとわかっていても、 なんとなく隠微な感じを受けてしまう。それが鷹彦の健康をいっそう害する原因ではないのか、 と。
その文子は自給用の畑に出ていて、 二戸一棟の小屋のなかに人気がないと思うと、 柳子は息苦しさを覚えはじめる。
「なんだか鷹彦さんの躰、 湿気ているみたいですよ」
柳子は冗談にして、 気分の開放を図る。
しかし、 川辺に抜ける雑木林のなかも、 まだ雨が乾ききっていなくて、 ずくずくしていた。地面が水分を含んでいて、 一歩一歩、 足がめり込む。
柳子は今日も革の長靴を履いていたから、 泥濘から足を抜くのに力が要るだけだったが、 ズック靴の鷹彦は靴を脱いで、 裸足になって歩かなければならなかった。
そんな鷹彦が、 ときおり柳子に手をかすために差し伸べる。それがうれしくて、 甘えた気持ちで柳子は、 鷹彦の手を握って、 どきりとする。あまりにも鷹彦の手が冷たかったから。
「ブラジル語のわかる人がいなかったから、 小森のおじさんは危うく気違い病院に入れられそうになったんですよ」
鷹彦が、 熊野のように、 積極的に日本人の面倒を見てやろうという親切心がないことを、 残念に思いながら、 柳子が言うと、
「風邪を引いて寝ていたんだ」
という鷹彦は、 まだ軽い咳をしていた。
「それでですね、 わたし、 鷹彦さんからブラジル語の特訓を受けたいって切実に思ったんです。でも躰の具合がそんなに悪いと無理ですねえ、 午前中は文子さんの家庭教師で疲れるだろうし、 午後またわたしにというのは」
「ブラジル語を教えるぐらいならだいじょうぶだよ。ぼくのは完全なブラジル語じゃないんだけど、 よかったら教えてあげるよ」
「スペイン語とポルトガル語はあまり違わないんでしょ」
「日本人同士でも通じないような、 日本の方言ほどは違わないけど」
「そうですね、 鹿児島弁や沖縄の言葉は、 わたしには外国語ですものねえ」
「こんどの小森さんの一件は、 なんでもないことが、 言葉が通じないばかりにひどいことになるという、 いい例だったよね」
「そうなんです、 あとで大笑いしたんですけど、 いちじはどうなることかと、 みな泣きそうになってたんですよ」
「須磨子さんは」
「中村さんは大きな面積受け持ってるから、 うんと離れたところに居て、 知らなかったらしいですよ」
そんな話がおわらないうちに、 ふたりは小川の縁に出た。
ぱっと開けた視界に、 気持ちまで開けて、 薄暗い小屋のなかから、 鷹彦さんを連れ出してよかったと惟う。
ずっと遠いところの、 人の話し声が聴こえるほどの静けさだった。
遥か彼方で鳴くロバの声が、 世の中の悲しみを一身に背負っているような切なさで聴こえてくる。
川面を吹き渡る風に促され、 柳子は鷹彦のほうを見て、 いつも決まっているように見定めた場所に座る。
いそいそとした気持ちを隠し切れずに足を伸ばしながら、 鷹彦がどのくらいの間隔を置いて座るかなあ、 と意識過剰になっている自分自身がおかしくなる。
意識過剰といえば、 いままで鷹彦の周囲を煩わしていた文子と秋子と須磨子の三人が、 このごろ鷹彦とのあいだの距離を、 少し離したように思う。
秋子は、 このあいだ告白したことで、 完全に熊野のほうに傾いてゆくことがわかったし、 須磨子はいっそう熱心 滋養に教会に通うようになって、 強壮剤 鷹彦を慕う気持ちを、 キリストか、 キリストの下僕である牧師のほうに移したようだし、 日曜日の午前中べったり鷹彦の傍にいた文子も、 近頃は叔父らといっしょに自給用の畑に出て行くようになっていた。その変化に理由があるのかどうか、 と柳子が考えていると、
「ほんとうに好きなのは、 柳ちゃんひとりだよ」
と鷹彦が言ったことばが、 漢方薬 理由かもしれない、 それならそれで、 こちらの態度も変化させなければならないだろう。
柳子は、 鷹彦の過去はどうあれ、 いま言った言葉に嘘はないだろう。
鷹彦の声があまりにもしんみりしていたし、 やさしかったし、 風はさわやかだったし、 小鳥の囀りが涼やかだったから。
鷹彦がときおりする、 遠慮がちな咳払いさえ気にしなければ、 こんな幸せなことはないとしみじみ思った。
た思いがする。
タツから青白い文学青年と蔑視されている鷹彦は、 コーヒー畑で作業していても一向に陽に焼けず、 精力剤 ますます青白くなってゆくように思ったのは、 小森茂の気違い騒ぎがあった次の日曜日に、 鷹彦と逢ったときだった。
昼食後すぐだったから、 まだ鷹彦は小屋にいるだろうと思って訪ねると、 じいんと肌に沁み込んでくるような肌寒さを感じる薄暗がりのなかで、 なにをしていたのか、 冴えない顔をして出てきた。
鷹彦は、 慌てたような様子で、
「いつもの川辺りに行こうか」
と誘う。
「病気だったんですかあ、 まだ咳をしておられるようですけど」
「なに、 もういいんだけど。柳ちゃんとは明るい場所で話さなくちゃあ」
鷹彦は、 無理しているような笑い顔をつくって言う。
「陽の当たる場所のほうが躰にもいいと思います」
そんなことは、 わたしが言わなくてもわかっていることだけれど、 こんな薄暗がりのなかに逼塞している鷹彦の心の暗さを思って言わずにはおられなかった。
午前中は、 こんなところで、 文子さんとふたりきりでいるのだ、 と思うと、 日本語とブラジル語を教えているのだとわかっていても、 なんとなく隠微な感じを受けてしまう。それが鷹彦の健康をいっそう害する原因ではないのか、 と。
その文子は自給用の畑に出ていて、 二戸一棟の小屋のなかに人気がないと思うと、 柳子は息苦しさを覚えはじめる。
「なんだか鷹彦さんの躰、 湿気ているみたいですよ」
柳子は冗談にして、 気分の開放を図る。
しかし、 川辺に抜ける雑木林のなかも、 まだ雨が乾ききっていなくて、 ずくずくしていた。地面が水分を含んでいて、 一歩一歩、 足がめり込む。
柳子は今日も革の長靴を履いていたから、 泥濘から足を抜くのに力が要るだけだったが、 ズック靴の鷹彦は靴を脱いで、 裸足になって歩かなければならなかった。
そんな鷹彦が、 ときおり柳子に手をかすために差し伸べる。それがうれしくて、 甘えた気持ちで柳子は、 鷹彦の手を握って、 どきりとする。あまりにも鷹彦の手が冷たかったから。
「ブラジル語のわかる人がいなかったから、 小森のおじさんは危うく気違い病院に入れられそうになったんですよ」
鷹彦が、 熊野のように、 積極的に日本人の面倒を見てやろうという親切心がないことを、 残念に思いながら、 柳子が言うと、
「風邪を引いて寝ていたんだ」
という鷹彦は、 まだ軽い咳をしていた。
「それでですね、 わたし、 鷹彦さんからブラジル語の特訓を受けたいって切実に思ったんです。でも躰の具合がそんなに悪いと無理ですねえ、 午前中は文子さんの家庭教師で疲れるだろうし、 午後またわたしにというのは」
「ブラジル語を教えるぐらいならだいじょうぶだよ。ぼくのは完全なブラジル語じゃないんだけど、 よかったら教えてあげるよ」
「スペイン語とポルトガル語はあまり違わないんでしょ」
「日本人同士でも通じないような、 日本の方言ほどは違わないけど」
「そうですね、 鹿児島弁や沖縄の言葉は、 わたしには外国語ですものねえ」
「こんどの小森さんの一件は、 なんでもないことが、 言葉が通じないばかりにひどいことになるという、 いい例だったよね」
「そうなんです、 あとで大笑いしたんですけど、 いちじはどうなることかと、 みな泣きそうになってたんですよ」
「須磨子さんは」
「中村さんは大きな面積受け持ってるから、 うんと離れたところに居て、 知らなかったらしいですよ」
そんな話がおわらないうちに、 ふたりは小川の縁に出た。
ぱっと開けた視界に、 気持ちまで開けて、 薄暗い小屋のなかから、 鷹彦さんを連れ出してよかったと惟う。
ずっと遠いところの、 人の話し声が聴こえるほどの静けさだった。
遥か彼方で鳴くロバの声が、 世の中の悲しみを一身に背負っているような切なさで聴こえてくる。
川面を吹き渡る風に促され、 柳子は鷹彦のほうを見て、 いつも決まっているように見定めた場所に座る。
いそいそとした気持ちを隠し切れずに足を伸ばしながら、 鷹彦がどのくらいの間隔を置いて座るかなあ、 と意識過剰になっている自分自身がおかしくなる。
意識過剰といえば、 いままで鷹彦の周囲を煩わしていた文子と秋子と須磨子の三人が、 このごろ鷹彦とのあいだの距離を、 少し離したように思う。
秋子は、 このあいだ告白したことで、 完全に熊野のほうに傾いてゆくことがわかったし、 須磨子はいっそう熱心 滋養に教会に通うようになって、 強壮剤 鷹彦を慕う気持ちを、 キリストか、 キリストの下僕である牧師のほうに移したようだし、 日曜日の午前中べったり鷹彦の傍にいた文子も、 近頃は叔父らといっしょに自給用の畑に出て行くようになっていた。その変化に理由があるのかどうか、 と柳子が考えていると、
「ほんとうに好きなのは、 柳ちゃんひとりだよ」
と鷹彦が言ったことばが、 漢方薬 理由かもしれない、 それならそれで、 こちらの態度も変化させなければならないだろう。
柳子は、 鷹彦の過去はどうあれ、 いま言った言葉に嘘はないだろう。
鷹彦の声があまりにもしんみりしていたし、 やさしかったし、 風はさわやかだったし、 小鳥の囀りが涼やかだったから。
鷹彦がときおりする、 遠慮がちな咳払いさえ気にしなければ、 こんな幸せなことはないとしみじみ思った。
性感染症 ぐるりを見る
茂は理不尽な黒人たちの行為に、 抗議をしたが、 その口に、 したたかに土を舐めさせられただけだった。
茂の異変に気づいたタツや秋子や夏子や春雄も、 エンシャーダを放り出して、 コーヒー樹のあいだから出てきて、
「なにしはりますねん、 ダイエット やめとくれやす」
とタツが抗議し、
「やめてえ」
「やめろ、 やめろ」
と秋子や春雄が口々に叫び、 小さい子らは泣き出す騒ぎ。
互いが誤解から生じた事態にさらに誤解を重ねて、 動きの取れない状況に嵌まり込んでしまったのだが、 ダイエット タツらには、 まだ何が原因でこんなことになったのか、 わからない。
柳子や龍一も、 「ううんううん、 -肥満治療 うんこらしょ」という唸り声なのか掛け声なのかわからない声が歇んで間もなく、 なんだか騒々しくなって、 騒ぎが持ち上がった気配を感じたから、 なのごとかと不審に思って出てくる。
人間どもの異様な雰囲気に驚いて、 右往左往する馬を、 黒人たちのなかにいた一人の青年が宥めながら手綱を取って、 飛び乗り、 駆け出してゆく。
樹の切り株で腰を痛めたらしい監督を、 両脇から抱えて助け起こすものたち、 茂を押さえつけたものの、 あとをどうしていいのかわからなくて困った顔をしている数人の黒人たち、 周囲に輪を作って様子を見ているものたちも、 コーヒー樹のあいだからぞろぞろ出てきて殺気立った顔をしている日本人たちの不穏な雰囲気に危険を感じて、 監督をかばう恰好で身構える。
ガイジン労働者の輪のなかに監督がへたり込み、 茂が数人の黒人たちに押え込まれている状況は、 事の起こりを知らない龍一や柳子には、 監督と茂が争って、 監督に加勢したガイジン労働者によって、 日本人が迫害されている図に観えた。そして、 日本人のなかでは口達者なタツでも、 ガイジン相手ではどうにもならないらしく、 立ち往生をしているように視えた。
いつまで経っても、 理由の解明はできないから、 春雄が、
「お父ちゃんが苛められてる」
と泣き顔になって訴えると、 周囲の日本人は民族的な憤慨を覚えるのがとうぜん。
「しっ、 しっ」
龍一が犬を追うような声と手つきで、 ガイジンたちに抗議をしても、 埒は明かない。
「ロッコ、 ロッコって言ってるわよ」
柳子が、 周囲を見回す。
「ロッコってなんだ」
龍一が、 誰かわかるものはいないのかと思って、 性感染症 ぐるりを見る。
「気違い言うとんねん」
春雄が言う。
「あほっ」
夏子が春雄の頭を叩いて、
「なんでそれ、 早う言わへんのよ」
と詰る。
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「なにしはりますねん、 ダイエット やめとくれやす」
とタツが抗議し、
「やめてえ」
「やめろ、 やめろ」
と秋子や春雄が口々に叫び、 小さい子らは泣き出す騒ぎ。
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いつまで経っても、 理由の解明はできないから、 春雄が、
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発毛剤 まだまだええ目でけたんだすさかいな
「そこだすがな、 わてが小便しょう思うて畦道に出ていったら、 なににびっくりしたんか馬が立ち上がったもんだすさかい、 監督はんが馬から落ちて落馬しはりましたんだす。そこさ運悪う樹ぃの切り株おましてな、 腰打ってしまはりましたさかい、 わてが助け起こしたげまひょう思うて寄っていきますとだすな、 監督はんが変な声出しはりましてな、 大声上げはりますさかい、 よっぽどきつう打ちはって悲鳴上げてる思いましてな、 どうしはりましたんだす、 だいじょうぶだすか言うて、 強精 わてが近寄ると」
「お父ちゃん、 そないに同じことなんべんも言わんかて」
秋子が、 しゃべり出して止まらない父の説明に楔を打つ。
熊野が、 茂の言ったことをブラジル語にして、 監督のほうに訊ねると、 強打した腰がまだ痛くて顔を歪めていたが、 また長々と説明をしはじめる。
支配人と熊野のふたりが笑い出したので、 周囲のものが呆気に取られる。
「小森しゃん、 あんたが変な格好して、 オケケケエちゅうて掴み掛かってきたばってん、 てっきり気が狂うたちゃ思うたと、 監督ば言うとるたい」
熊野が押さえ切れないおかしさのまま、 監督の言ったことを茂に伝える。
「ほな、 なんだすかあ、 わてが助け起こそう思うて行ったんが、 気ぃ狂うて掴み掛かってきたと」
「誤解、 誤解」
「五階も六階もありますかいな、 あほらしいて開いた口ふさがりまへんわ」
タツが怒って、 吐き捨てるように言う。
「なんせ、 その恰好じゃけ。はじめ監督ばタマンドアかと思うて、 よう見たら変な恰好した男ば、 奇声ば発して大手広げて来るんじゃけ、 誰でも気ば狂うた思うじゃろうたい」
やっと誤解が解けて、 なんでもなく収まりそうだと安心して、 柳子が笑い出し、 秋子や夏子も泣き顔を笑い顔に変えると、 周囲のものも笑い出して、 笑いの渦が舞い上がる。
ガイジンの青年のなかには、 地面に足踏み鳴らして、 転げそうになって笑うものもいた。
「ほら見なはれ、 笑いもんにされて、 いい恥じ晒して、 いちびって変な格好した罰だす」
夫を阿呆呼ばわりするタツも、 いまは笑いながら言う。
「へえ、 どうも、 お騒がせしまして」
荷台の上でひょろひょろ立ち上がって、 ぺこりと頭を下げる茂を見て、 笑い声がいっそう高くなる。
ガイジンの労務者も、 茂が道化役者のように見えて笑ったのだろうけれど、 腰を抜かした監督が慌て者だったのだ、 と言うものもあって、 日ごろ威張っている監督を嗤うものもいた。
危うく精神病院に入れられそうになったところを、 持続力up 熊野に救われたと思う気持ちは、 タツひとりではなく、 受けたショックが大きかっただけに、 その反動で小森の家族全員が、 熊野に対する感謝の念を高めたのが、 柳子の眼にもわかった。
それまでにも、 タツが熊野に取り入ろうとしているのは、 誰の眼にもわかるほどだったのが、 気違い騒ぎがあったあと、
「熊野はんは、 恩人だすさかいな」
とタツは言って、 公明正大な理由ができたのを幸いに、 いっそう熊野を奉るような態度になった。
「ケッタイナことになったわねえ」
柳子が、 こんなときには大阪弁のほうがいろんな意味を含めて言える便利さがあるのを知って、 使用する。
どういう意味に取ったのか、 秋子がぱっと顔を赤らめて、 あいまいな表情になる。
柳子は、 秋子の立場が微妙になるのを気の毒がって、 同情して言ったのだけれど、 秋子の心情はもっと複雑だった。
そんなある日、
「ウチね、 お母ちゃんに、 思い切って鷹彦さんと結婚したい言うたんよ」
秋子が、 なんの前触れもなく、 話のついででもなく、 唐突に言ったから、 育毛剤 柳子が驚いて、
「へえ、 そしたらあ」
とタツの反応を聴きたくて急かせると、
「エライコト、 怒られてしもた」
と秋子の応えは柳子の予想通り、 がっかりさせるものだったのに、 秋子の表情には少しも落胆した様子も見られなくて、 むしろやれやれといった安堵の色が見えたから、 柳子のほうがおかしな感じを受けた。
しかしそのあとにつづいた秋子の話で、 おかしな感じはすぐ解消された。
「あんた、 ええ加減にしなはれ。あんなへなちょこの文学青年といっしょになったら、 先がどうなるかわかってまっしゃろ。三度のご飯にもことかいて、 ひもじい思いさされるのんが関の山だす。一生はいっぺんだけだっせ、 ええ目せんと損だす。ええ目さしてくれはるのんは学問ちゃいます、 理屈で世の中渡られしまへん、 腕だす、 力だす、 世の中要領よう立ち回る才覚だす、 そんなこと言わんかて、 あんたはとうに知ってる思うてましたけど。お父ちゃんが、 へませえへんかったら、 わてらこんなとこに来いへんでも、 発毛剤 まだまだええ目でけたんだすさかいな。ここで資本こさえて、 もういっぺん、 大阪で花咲かさなあきまへん。そのためにはちょっとくらい嫌なことでも目ぇ瞑って辛抱せんとあきまへんでえ。よろしいな、 オナゴはカダラだっせ、 せっかく別嬪に生まれたんだすさかいに、 それだいじに使うて、 こんなとこでもちょっとはええ目でけたら思うて、 お母ちゃんはいっしょけんめいなってますねんがな。なにが得か損かよう考えて物言いなはれ。二度とお母ちゃんの耳に、 そんなアホなこと聴かさんといとくれやすや。言うて、 長い長い説教されてしもた」
語尾はすこし投げ遣りな感じに聴こえたけれど、 それですっきりしたような顔になっていたから、 秋子も、 薬で治らない恋の虫下りて、 鷹彦のことを忘れるきっかけになったんだろう、 と柳子は思った。
柳子がそう思ったのを立証するように、
「やっと、 秋子に憑いてたケツネが落ちたようだす」
とタツが言い、
「お母ちゃんの哲学は、 しょうしょうくらい手癖が悪うても、 生活力旺盛な男はんやなかったらあきまへん。おんな遊びは男はんの甲斐性だすさかいな、 言うのやさかい」
と秋子が言って、 おかしくもないのに、 くすくす笑ったので、 近頃秋子の、 熊野に対する態度が変わった原因がわかった気がしていたのだが、 こんどの気違い騒ぎで、 いっそう株を上げた熊野は、 タツと秋子にとって、 現在の生活ではもっとも重要な存在になったことは確かなようだった。
それにしても、 死ぬほど好きになっていた鷹彦から秋子の心情が雲散霧消するはずはないだろうから、 きっとその辺を浮遊しているに違いない、 と柳子は、 人の心の変化するのをまざまざと見せられた思いと、 ある種の執念というものを、 究極のところで観察したいものだ、 と興味の対象をずらせる。
タツの言うことは、 もっとも低俗な、 もっとも常識的な処世術なのだろうが、 女性みずからが女性を蔑視している矛盾に満ちたものだということを、 女性解放運動に携わっていた雅子叔母の感化を受けている柳子にはわかった。
そういう仕組みになっている日本の社会だから、 女が積極的に発言すると、 お転婆だと決め付けられてしまうのだけれど、 秋子のように、 生まれたときから花より団子の合理的精神のなかで育てられてきたものを、 一刀両断に非難するわけにはいかない気もする。
母からひどく叱られたから考えを変えたのではなくて、 秋子の心のなかにすでにあった考え方に戻っていったということだろう。
女同士として悲しいことだし、 友情としては寂しいことだけれど、 まだまだ女は弱い立場にあるのだから、 生きるためには我慢しなければならないことかも知れなかった。
貧しさのために、 娘を売る親が日本にもたくさんいるのだから、 まだまだ女性は売物の域を抜け出せないのだ、 と否定すべきことを肯定しなければならなかった。
「お父ちゃん、 そないに同じことなんべんも言わんかて」
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秋子が、 なんの前触れもなく、 話のついででもなく、 唐突に言ったから、 育毛剤 柳子が驚いて、
「へえ、 そしたらあ」
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「エライコト、 怒られてしもた」
と秋子の応えは柳子の予想通り、 がっかりさせるものだったのに、 秋子の表情には少しも落胆した様子も見られなくて、 むしろやれやれといった安堵の色が見えたから、 柳子のほうがおかしな感じを受けた。
しかしそのあとにつづいた秋子の話で、 おかしな感じはすぐ解消された。
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柳子がそう思ったのを立証するように、
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タツの言うことは、 もっとも低俗な、 もっとも常識的な処世術なのだろうが、 女性みずからが女性を蔑視している矛盾に満ちたものだということを、 女性解放運動に携わっていた雅子叔母の感化を受けている柳子にはわかった。
そういう仕組みになっている日本の社会だから、 女が積極的に発言すると、 お転婆だと決め付けられてしまうのだけれど、 秋子のように、 生まれたときから花より団子の合理的精神のなかで育てられてきたものを、 一刀両断に非難するわけにはいかない気もする。
母からひどく叱られたから考えを変えたのではなくて、 秋子の心のなかにすでにあった考え方に戻っていったということだろう。
女同士として悲しいことだし、 友情としては寂しいことだけれど、 まだまだ女は弱い立場にあるのだから、 生きるためには我慢しなければならないことかも知れなかった。
貧しさのために、 娘を売る親が日本にもたくさんいるのだから、 まだまだ女性は売物の域を抜け出せないのだ、 と否定すべきことを肯定しなければならなかった。
滋養強壮 熊野は
柳子が、 支配人のところに駆け寄って、 手を振って抗議する。
支配人は、 柳子のほうに見向きもせず、 まっすぐ頸を立てて、 茂を荷台で押さえつけている黒人青年三人を乗せたまま、 精力剤 車を急発進させる。もうもうと砂煙が立って、 周囲に居たガイジンたちも日本人たちも、 いっせいに後退り、 鼻と口を手で覆う。
しばらく日本人は呆然としていたが、
「おい、 みんな、 熊野だ、 熊野のところへ行くんだ」
と叫んだ龍一の声に、 はっと目覚めたように、 ちょっと身構えたあと、 どどどっ、 と駆け出してゆく。
自動車は広い道を走らなければならないけれど、 人はコーヒー畑のなかを突っ切って行けるから、 熊野のところに行き着くのはどちらが早いともいえない。
細くて小さくて敏捷な柳子は、 即効勃起薬 コーヒー樹のあいだを掻い潜るようにして走る。
走りながら柳子は、 急いでブラジル語を覚えなければならない。鷹彦さんから特訓を受けなければならない。ペドロをもっともっと活用しなければならない、 としきりに思う。
こんどのことで、 痛切に言葉の必要性を感じたのだ。言葉が通じないばかりに、 小森のおじさんが狂人にされてしまっているのだから。
コーヒー畑を斜めに突っ切って走る人たちよりも、 自動車のほうが早くて、 ほかのものを大きく引き離して走ってきた柳子が、 熊野の家に着いたときには、 もう支配人が車から降りるところだった。
熊野も、 なにごとが起こったのかと思ったのだろう、 戸口に顔を見せていた。
柳子が息せき切って到着すると、 支配人が熊野を叱責していて、 熊野が、 弁解がましいというのではなくて、 案外に横柄な口調で言い返していたから、 へええ、 熊野さんてわりかし偉いところがあるんだなあ、 と思いながら聴いていた。
聴くといっても、 ふたりの会話のほとんどは理解できないのだけれど、 「コモリ」とか「ジャポネイス」とか、 さきほど覚えたばかりの「ロッコ」だとか、 馬の世話をしてもらうときにペドロから教えてもらう断片的なブラジル語を拾い集めて、 単語と単語のあいだは判断でつなぎ合わせて、 支配人が小森を気違い病院に入れると主張し、 熊野が小森は気違いではないと主張しているらしいのが、 おぼろげながらわかってくる。
そこに小森の子供たちにつづいて、 龍一もやっと到着して、
「どうなった」
と喘ぎ喘ぎ、 柳子に訊ねる。
「支配人と熊野さんが言い争っているだけでわからない」
柳子の言うのを聴いて、 龍一は呆れる。呆れながら支配人と熊野のあいだに頸を入れて、
「熊野さん、 ふたりが言い争っていても埒があくものですか、 どうして監督と小森さんを
突き合わせて尋問しないんですか」
と詰る。
当然そうすべきなのを、 支配人が頭から熊野の怠慢だの、 すぐに気違い病院に小森を入れるだの、 新移民の監視を厳しくするなどと、 一方的な言い分で抑えてくるから、 自分自身の立場を擁護するためにだけ懸命になっていたのを、 熊野は反省する。
支配人は、 農場労働者の不満が募ってストライキに入られたり、 暴動に発展することを怖れて、 監督と労働者のあいだに争いが起こると、 言い訳などを聞いておらず、 直ちに労働者を追放したり、 こんどのような状況のときには精神異常と決め付けたほうが早期解決になると考えているから、 そのことだけに捉われていたのだ。
とくに精神異常者は、 農場から速やかに排除しなければ、 ほかの労働者に不安材料を与える要因になるし、 支配人自身の立場を脅かす原因になるから、 事情聴取などという無駄な時間を惜しんだ。
イタリア人やドイツ人労働者は、 リーダーを立てて交渉に当たることに慣れていたが、 日本人はまだそういう労働争議の解決方法を採らず、 個人的な問題として、 夜逃げをしたり、 ペニス増大 契約違反の罰金を支払って出てゆくものが多かった。
その点で、 熊野のように、 幼児のときに来て、 二世と同じようにブラジルの習慣を身につけているものは、 上下関係を意識しすぎる日本人にはできないことだが、 ガイジンとの話し合いにおいて、 雇用主と使用人とが対等な立場に立って物が言えた。
龍一の提案を支配人に伝え、 苦々しい顔をする支配人に構わず、 滋養強壮 熊野は、 荷台の底に惨めな恰好でくず折れている茂を助け起こし、
「ほれ小森しゃん、 しっかりせんね、 あんたどぎゃんしてこういうことになったんか、 説明ばしてやらんね」
と、 やさしい声をかける。
「どぎゃんして、 言われて、 わてにもさっぱりわからしまへん、 どこでどう間違うたんやら。そやけど、 あんまりひどおまっせ、 なんでわてを寄ってたかってぎゅうぎゅう押さえつけて苛めなあきまへんのんだっしゃろ」
「あんた、 気違いにされとるばってん、 暴れんように押さえつけとるたい」
「なんでわてが気違いにされなあきまへんのんだす」
「それを訊いとるばい、 なんで気違いにされたんたいね」
「そやさかい、 わても訊いてますねんがな、 なんでわてが気違いにされなあきまへんのかて」
「あんたらええ加減にしなはらんかいな、 ふたりがなんでや、 なんでや訊き合いしとっていつになったら埒あきまんのや、 あほらしい」
茂と熊野のどちらもが、 なぜこういうことになったのかと、 訊ね合ってる、 ばからしい問答に痺れを切らして、 タツが非難する。
「監督が腰を抜かして起き上がれないようになった原因はなになんです」
龍一が、 ひとつの事例を出して、 説明する糸口を与える。
支配人は、 柳子のほうに見向きもせず、 まっすぐ頸を立てて、 茂を荷台で押さえつけている黒人青年三人を乗せたまま、 精力剤 車を急発進させる。もうもうと砂煙が立って、 周囲に居たガイジンたちも日本人たちも、 いっせいに後退り、 鼻と口を手で覆う。
しばらく日本人は呆然としていたが、
「おい、 みんな、 熊野だ、 熊野のところへ行くんだ」
と叫んだ龍一の声に、 はっと目覚めたように、 ちょっと身構えたあと、 どどどっ、 と駆け出してゆく。
自動車は広い道を走らなければならないけれど、 人はコーヒー畑のなかを突っ切って行けるから、 熊野のところに行き着くのはどちらが早いともいえない。
細くて小さくて敏捷な柳子は、 即効勃起薬 コーヒー樹のあいだを掻い潜るようにして走る。
走りながら柳子は、 急いでブラジル語を覚えなければならない。鷹彦さんから特訓を受けなければならない。ペドロをもっともっと活用しなければならない、 としきりに思う。
こんどのことで、 痛切に言葉の必要性を感じたのだ。言葉が通じないばかりに、 小森のおじさんが狂人にされてしまっているのだから。
コーヒー畑を斜めに突っ切って走る人たちよりも、 自動車のほうが早くて、 ほかのものを大きく引き離して走ってきた柳子が、 熊野の家に着いたときには、 もう支配人が車から降りるところだった。
熊野も、 なにごとが起こったのかと思ったのだろう、 戸口に顔を見せていた。
柳子が息せき切って到着すると、 支配人が熊野を叱責していて、 熊野が、 弁解がましいというのではなくて、 案外に横柄な口調で言い返していたから、 へええ、 熊野さんてわりかし偉いところがあるんだなあ、 と思いながら聴いていた。
聴くといっても、 ふたりの会話のほとんどは理解できないのだけれど、 「コモリ」とか「ジャポネイス」とか、 さきほど覚えたばかりの「ロッコ」だとか、 馬の世話をしてもらうときにペドロから教えてもらう断片的なブラジル語を拾い集めて、 単語と単語のあいだは判断でつなぎ合わせて、 支配人が小森を気違い病院に入れると主張し、 熊野が小森は気違いではないと主張しているらしいのが、 おぼろげながらわかってくる。
そこに小森の子供たちにつづいて、 龍一もやっと到着して、
「どうなった」
と喘ぎ喘ぎ、 柳子に訊ねる。
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柳子の言うのを聴いて、 龍一は呆れる。呆れながら支配人と熊野のあいだに頸を入れて、
「熊野さん、 ふたりが言い争っていても埒があくものですか、 どうして監督と小森さんを
突き合わせて尋問しないんですか」
と詰る。
当然そうすべきなのを、 支配人が頭から熊野の怠慢だの、 すぐに気違い病院に小森を入れるだの、 新移民の監視を厳しくするなどと、 一方的な言い分で抑えてくるから、 自分自身の立場を擁護するためにだけ懸命になっていたのを、 熊野は反省する。
支配人は、 農場労働者の不満が募ってストライキに入られたり、 暴動に発展することを怖れて、 監督と労働者のあいだに争いが起こると、 言い訳などを聞いておらず、 直ちに労働者を追放したり、 こんどのような状況のときには精神異常と決め付けたほうが早期解決になると考えているから、 そのことだけに捉われていたのだ。
とくに精神異常者は、 農場から速やかに排除しなければ、 ほかの労働者に不安材料を与える要因になるし、 支配人自身の立場を脅かす原因になるから、 事情聴取などという無駄な時間を惜しんだ。
イタリア人やドイツ人労働者は、 リーダーを立てて交渉に当たることに慣れていたが、 日本人はまだそういう労働争議の解決方法を採らず、 個人的な問題として、 夜逃げをしたり、 ペニス増大 契約違反の罰金を支払って出てゆくものが多かった。
その点で、 熊野のように、 幼児のときに来て、 二世と同じようにブラジルの習慣を身につけているものは、 上下関係を意識しすぎる日本人にはできないことだが、 ガイジンとの話し合いにおいて、 雇用主と使用人とが対等な立場に立って物が言えた。
龍一の提案を支配人に伝え、 苦々しい顔をする支配人に構わず、 滋養強壮 熊野は、 荷台の底に惨めな恰好でくず折れている茂を助け起こし、
「ほれ小森しゃん、 しっかりせんね、 あんたどぎゃんしてこういうことになったんか、 説明ばしてやらんね」
と、 やさしい声をかける。
「どぎゃんして、 言われて、 わてにもさっぱりわからしまへん、 どこでどう間違うたんやら。そやけど、 あんまりひどおまっせ、 なんでわてを寄ってたかってぎゅうぎゅう押さえつけて苛めなあきまへんのんだっしゃろ」
「あんた、 気違いにされとるばってん、 暴れんように押さえつけとるたい」
「なんでわてが気違いにされなあきまへんのんだす」
「それを訊いとるばい、 なんで気違いにされたんたいね」
「そやさかい、 わても訊いてますねんがな、 なんでわてが気違いにされなあきまへんのかて」
「あんたらええ加減にしなはらんかいな、 ふたりがなんでや、 なんでや訊き合いしとっていつになったら埒あきまんのや、 あほらしい」
茂と熊野のどちらもが、 なぜこういうことになったのかと、 訊ね合ってる、 ばからしい問答に痺れを切らして、 タツが非難する。
「監督が腰を抜かして起き上がれないようになった原因はなになんです」
龍一が、 ひとつの事例を出して、 説明する糸口を与える。
性病 熊野だ
「ロッコって気違いのことなのぉ」
「小森さんが気違いにされとるのか」
「気違いやてえ、 そんなあほな」
わいわい日本人たちが、 不満を言い交わすのを聴いて、 ガイジンたちはいっそう不気味に思うのだろう、 彼らの眼が落ち着きをなくす。
睨み合った状態がしばらくつづくと、 双方ともに殺気立ってきて、 周囲の空気が重く沈澱し、 息苦しくなる。
「なにかの間違いだと言ってやりなさい」
龍一がそんな雰囲気を嫌って、 意識して静かに言う。
「間違いはどう言うんだったあ、 春雄くん」
柳子が春雄のほうに振り返ると、 春雄は怒った顔で、 頬を膨らませて言う。
「エラードや」
「春雄くん、 抗菌薬 よく知ってるんだから言ったら」
柳子は自信がないから、 場所を春雄に譲るように少し身を引く。
「エラードやでえ」
春雄が震える声で頼りなく言ったが、 通じたのか通じなかったのか、 ガイジンたちはなんの反応も示さない。
「通じなかったのかしら」
柳子ががっかりした顔で龍一のほうを見る。
お父ちゃ、 なんとかしてあげてよ、 という表情なのは龍一にもわかったが、 売店で買い物をするときのようにいかないのはわかっているから、
「いやあ、 こういうときには言葉が分からないのは致命傷だなあ」
と尻込みするしかない。
すると柳子が、 持ち前の人怖じしない性格で、
「ねえ、 あんたたち、 エラードよ。この人ロッコ、 ノンよ、 ノン。わかる。エラード、 間違い、 わからないの、 ばかねえ」
と茂を指差したり、 細い人差し指を真っ直ぐ立てて大きく横に振ったり、 手振り身振りでいっしょけんめい言うのだけれど、 日本語も混ぜて言うから、 ガイジンたちにわかるはずはなかった。
「ねえ、 性感染症 抗菌薬 お父ちゃ、 手振り身振りは世界共通語だって言うけど、 通じない相手もいるのよ」
柳子は地団太踏みたい気分になる。
そうこうしているうちに、 監督の馬に乗って駆け去った黒人の青年から報告を受けた支配人が、 幌付きの小型自動車で、 もうもうと砂塵を上げて駆けつける。
ざざざあ、 と地面を斜めにすべって急停車した車から降り立った支配人は、 日本人のほうをまったく無視して、 まだへたり込んだままの監督に、 早口の怒声を含んだ声で話し掛ける。
支配人と監督が話す言葉のなかに、 なんどもロッコという言葉が行き交うのだけが、 聴き覚えたばかりの日本人の耳にもわかる。そして、 やはり茂は狂人にされているらしい、 と誰もが思う。
もうひとつ龍一に、 はっと気づかせた言葉があった、 「クマノ」という言葉だった。
あっ、 どうして熊野のことを失念していたのだろう。普段ならすぐに熊野を思い出して救援を求めただろうのに、 と自分自身の迂闊さが信じられないほどだった。
「おい、 柳子、 性病 熊野だ、 熊野を呼んで来い」
龍一の叫ぶのを聴いて、 日本人全員がはっとする。
ほんとだ、 どうして熊野がいないんだ、 こんなときに。
熊野のことを忘れていた自分らの迂闊さよりも、 熊野がここにいないことを非難がましく思う。
支配人がまわりのガイジンたちに指図して、 黒人青年が三人がかりで大男の監督を担ぎ上げ、 小型自動車の助手席に乗せ、 押さえつけていた茂の腕を後ろ手にねじ上げながら、 荷台に押し上げる。
それを見たタツが、 金切り声を上げて、 支配人に食って掛かる。
「なにしはりますねん、 あんたら、 うちの人どこさ連れてゆくつもりだす」
タツが掴みにきた手を邪険に払った支配人は、 渋面をつくって運転席に乗り込む。
「ノーノーノー」
「小森さんが気違いにされとるのか」
「気違いやてえ、 そんなあほな」
わいわい日本人たちが、 不満を言い交わすのを聴いて、 ガイジンたちはいっそう不気味に思うのだろう、 彼らの眼が落ち着きをなくす。
睨み合った状態がしばらくつづくと、 双方ともに殺気立ってきて、 周囲の空気が重く沈澱し、 息苦しくなる。
「なにかの間違いだと言ってやりなさい」
龍一がそんな雰囲気を嫌って、 意識して静かに言う。
「間違いはどう言うんだったあ、 春雄くん」
柳子が春雄のほうに振り返ると、 春雄は怒った顔で、 頬を膨らませて言う。
「エラードや」
「春雄くん、 抗菌薬 よく知ってるんだから言ったら」
柳子は自信がないから、 場所を春雄に譲るように少し身を引く。
「エラードやでえ」
春雄が震える声で頼りなく言ったが、 通じたのか通じなかったのか、 ガイジンたちはなんの反応も示さない。
「通じなかったのかしら」
柳子ががっかりした顔で龍一のほうを見る。
お父ちゃ、 なんとかしてあげてよ、 という表情なのは龍一にもわかったが、 売店で買い物をするときのようにいかないのはわかっているから、
「いやあ、 こういうときには言葉が分からないのは致命傷だなあ」
と尻込みするしかない。
すると柳子が、 持ち前の人怖じしない性格で、
「ねえ、 あんたたち、 エラードよ。この人ロッコ、 ノンよ、 ノン。わかる。エラード、 間違い、 わからないの、 ばかねえ」
と茂を指差したり、 細い人差し指を真っ直ぐ立てて大きく横に振ったり、 手振り身振りでいっしょけんめい言うのだけれど、 日本語も混ぜて言うから、 ガイジンたちにわかるはずはなかった。
「ねえ、 性感染症 抗菌薬 お父ちゃ、 手振り身振りは世界共通語だって言うけど、 通じない相手もいるのよ」
柳子は地団太踏みたい気分になる。
そうこうしているうちに、 監督の馬に乗って駆け去った黒人の青年から報告を受けた支配人が、 幌付きの小型自動車で、 もうもうと砂塵を上げて駆けつける。
ざざざあ、 と地面を斜めにすべって急停車した車から降り立った支配人は、 日本人のほうをまったく無視して、 まだへたり込んだままの監督に、 早口の怒声を含んだ声で話し掛ける。
支配人と監督が話す言葉のなかに、 なんどもロッコという言葉が行き交うのだけが、 聴き覚えたばかりの日本人の耳にもわかる。そして、 やはり茂は狂人にされているらしい、 と誰もが思う。
もうひとつ龍一に、 はっと気づかせた言葉があった、 「クマノ」という言葉だった。
あっ、 どうして熊野のことを失念していたのだろう。普段ならすぐに熊野を思い出して救援を求めただろうのに、 と自分自身の迂闊さが信じられないほどだった。
「おい、 柳子、 性病 熊野だ、 熊野を呼んで来い」
龍一の叫ぶのを聴いて、 日本人全員がはっとする。
ほんとだ、 どうして熊野がいないんだ、 こんなときに。
熊野のことを忘れていた自分らの迂闊さよりも、 熊野がここにいないことを非難がましく思う。
支配人がまわりのガイジンたちに指図して、 黒人青年が三人がかりで大男の監督を担ぎ上げ、 小型自動車の助手席に乗せ、 押さえつけていた茂の腕を後ろ手にねじ上げながら、 荷台に押し上げる。
それを見たタツが、 金切り声を上げて、 支配人に食って掛かる。
「なにしはりますねん、 あんたら、 うちの人どこさ連れてゆくつもりだす」
タツが掴みにきた手を邪険に払った支配人は、 渋面をつくって運転席に乗り込む。
「ノーノーノー」
2011年11月23日星期三
ペニス短小 いまのところ
日曜日のほうが忙しい秋子と、 日曜日には遊ぶだけの柳子が話す時間がないから、 平日の昼の休みと、 夕食後のひとときには、 柳子と秋子はべったりくっついて情報の交換をするようになっていた。
「そういえば中村さんのところは、 日本にいたときから神戸と山形で同じかたちの別居生活していたって言ってたんじゃなかったぁ」
それをそれほど変には思っていないような柳子の言い方で、
「その習慣がついてるんじゃないかしら」
とつづけた。
それにしても二十三歳の中村義一と二十歳の松二だから、 早漏 普通なら青年らしい溌剌とした感じがなくてはならないのに、 常に俯いて歩き、 ときおりじろっと斜めに掬い上げるような眼つきで見るのは、 秋子の言う「欝陶しい人」という感じそのままだった。
そんな青年たちと母親がいつもくっついて親子の情愛を暖めているように視えるのは、 親子だからそれでいいのだろうけれど、 そして須磨子と父親とが仲睦まじいのも父娘だから当然なのだけれど、 夫婦のなかと姉と弟のあいだが非常によそよそしい感じに視えるから、 歪つな家族だ、 と見る人に奇異な感じを与えるのだった。
「ひょっとしたら、 あの人ら、 ほんまの夫婦や姉弟やなしに、 なんかの都合でつくってきた家族構成ちゃうかしら」
そう言えばそうかもしれないと思わせる、 秋子の穿った想像だった。
事実、 移民のなかには、 嘘の家族構成を無理してつくって、 ブラジルに来てから、 虚偽の家族構成を元のかたちに解体して、 別れて行くものもいたのだ。
入植した日の自己紹介の折り、 須磨子が説明した通り、 貿易商社に勤めていたという父と須磨子が同居をしていて、 母と息子たちは山形でほそぼそ農業していた、 という変則的な生活も、 つくった話かもしれなかった。
なんとなく暗い感じを受けるのは、 嘘があるからではないのだろうか。
真偽のほどはともかくも、 そういう変則的な生活をブラジルにきてからも、 そのままつづけているのだから、 夫婦のあいだにも、 姉弟のあいだにも、 肉親とは思えない冷たさが流れているのが、 他人の眼にも視えるのだろうけれど、 そう見られていることなど承知しているからだろう、 彼らが日常的な挨拶も交わさないのは。
それならば、 ひとつ不審な点があった。弟たちが揃って、 自己紹介のときに、 姉の自慢をしたことだった。よほど密着していた家族でないものが言えない科白だったから、 ブラジルに来る直前には、 いっしょに暮らしていたのだろう。
とにかく中村の家族は、 体力の衰え ふたつの殻に閉じこもって、 外部との接触を断っているように視えるのも事実だった。
そんな付き合いの悪い人なのに、 なぜそういうことを考えついたのか、 ある日曜日の朝早く、 柳子のところに須磨子が訪ねてきて、
「教会に行きましょう」
と誘った。
「えっ」
柳子はいっしゅん、 須磨子が何を言いにきたのか理解できなかった。表現が非常に一方的で、 押し付けがましい言い方だったから、 反撥を覚えた。
「教会に行きませんか」とか、 もっとほかに言い方があるように思うのだけれど、 相手の意向も考えず、 いきなり「行きましょう」と、 柳子がとうぜん承諾してついてくるものと思っているような、 高飛車な言い方だったのだから。
いや、 もっとひどいのは、 柳子が教会に行くときの服装まで干渉したのだ。
「これを着て行かれるといいでしょう。わたしが縫ったの。あなたの背格好を見て寸法取らなくても目分量で縫ったんだけど、 ちゃんと着られるようにできてると思います」
そう言って、 持ってきた白いブラウスと黒いスカートを差し出すのだから、 柳子は唖然とするしかなかった。なんという自信。いや自信などというものではない、 呆れるほどの傲慢さだ、 と。
いったいこの人の神経はどうなってるのかしら、 わたしはお転婆で突飛なことをすると人から言われているけれど、 この人の行為は突飛などと言うものではなく、 異常だと思う。
日常的な交際をしないから、 人間の交際の仕方も知らないのではないのだろうか。すべて世の中は、 中折れ 自分自身が考える範囲のなかで動いているとでも思っているのではないのだろうか。
こちらが、 教会に行くとも行かないとも返事もしていないのに、 こちらの意向を無視して、 教会に行くのにふさわしい服装だからと押しつけてくるに及んで、 柳子はかちんと反撥を覚えずにはおれなかった。
「キリスト教信者のなかには、 非常に常識を逸脱したものの考え方をする人が多いよ」
良三叔父が言ったのを想いだす。
そういえば父も、 いつだったか、 「ひとつの宗教に凝ると、 呆れるほどのエゴイストになって、 他人の思惑など無視して、 自分本意な考え方を押しつけてくるものがある」と言っていたが、 これほど独断的な人もめずらしいのではないだろうか。
まったく狂信者の典型だわ、 と呆然とするほどだったが、 ここで呆然としていては、 相手の強引さに引き摺り込まれてしまう。
「わたし、 ペニス短小 いまのところ、 教会に行く気などないのですけど」
柳子が、 かっとなった気持ちを抑えて、 むしろ冷たい感じに言い放つのにも、 須磨子は意に解することなどなく、
「柳子さんはまだ世の中の汚れに染まっていないから、 いまのうちにキリストの教えをよく勉強なさって、 まっすぐな道を歩まれたらいいと思ってお誘いするんです。人間はこの世に生を享けたとき、 すでに罪を背負ってくるのですから、 神に許しを乞わなければなりません。神に祈ることによって、 日々の罪深い行いを償えますし、 日々の労働の辛さからも救われます」
と宗教への勧誘をはじめる。
大きなお世話だ、 と柳子はむっとする。むっとした感情を露わにして、
「そういえば中村さんのところは、 日本にいたときから神戸と山形で同じかたちの別居生活していたって言ってたんじゃなかったぁ」
それをそれほど変には思っていないような柳子の言い方で、
「その習慣がついてるんじゃないかしら」
とつづけた。
それにしても二十三歳の中村義一と二十歳の松二だから、 早漏 普通なら青年らしい溌剌とした感じがなくてはならないのに、 常に俯いて歩き、 ときおりじろっと斜めに掬い上げるような眼つきで見るのは、 秋子の言う「欝陶しい人」という感じそのままだった。
そんな青年たちと母親がいつもくっついて親子の情愛を暖めているように視えるのは、 親子だからそれでいいのだろうけれど、 そして須磨子と父親とが仲睦まじいのも父娘だから当然なのだけれど、 夫婦のなかと姉と弟のあいだが非常によそよそしい感じに視えるから、 歪つな家族だ、 と見る人に奇異な感じを与えるのだった。
「ひょっとしたら、 あの人ら、 ほんまの夫婦や姉弟やなしに、 なんかの都合でつくってきた家族構成ちゃうかしら」
そう言えばそうかもしれないと思わせる、 秋子の穿った想像だった。
事実、 移民のなかには、 嘘の家族構成を無理してつくって、 ブラジルに来てから、 虚偽の家族構成を元のかたちに解体して、 別れて行くものもいたのだ。
入植した日の自己紹介の折り、 須磨子が説明した通り、 貿易商社に勤めていたという父と須磨子が同居をしていて、 母と息子たちは山形でほそぼそ農業していた、 という変則的な生活も、 つくった話かもしれなかった。
なんとなく暗い感じを受けるのは、 嘘があるからではないのだろうか。
真偽のほどはともかくも、 そういう変則的な生活をブラジルにきてからも、 そのままつづけているのだから、 夫婦のあいだにも、 姉弟のあいだにも、 肉親とは思えない冷たさが流れているのが、 他人の眼にも視えるのだろうけれど、 そう見られていることなど承知しているからだろう、 彼らが日常的な挨拶も交わさないのは。
それならば、 ひとつ不審な点があった。弟たちが揃って、 自己紹介のときに、 姉の自慢をしたことだった。よほど密着していた家族でないものが言えない科白だったから、 ブラジルに来る直前には、 いっしょに暮らしていたのだろう。
とにかく中村の家族は、 体力の衰え ふたつの殻に閉じこもって、 外部との接触を断っているように視えるのも事実だった。
そんな付き合いの悪い人なのに、 なぜそういうことを考えついたのか、 ある日曜日の朝早く、 柳子のところに須磨子が訪ねてきて、
「教会に行きましょう」
と誘った。
「えっ」
柳子はいっしゅん、 須磨子が何を言いにきたのか理解できなかった。表現が非常に一方的で、 押し付けがましい言い方だったから、 反撥を覚えた。
「教会に行きませんか」とか、 もっとほかに言い方があるように思うのだけれど、 相手の意向も考えず、 いきなり「行きましょう」と、 柳子がとうぜん承諾してついてくるものと思っているような、 高飛車な言い方だったのだから。
いや、 もっとひどいのは、 柳子が教会に行くときの服装まで干渉したのだ。
「これを着て行かれるといいでしょう。わたしが縫ったの。あなたの背格好を見て寸法取らなくても目分量で縫ったんだけど、 ちゃんと着られるようにできてると思います」
そう言って、 持ってきた白いブラウスと黒いスカートを差し出すのだから、 柳子は唖然とするしかなかった。なんという自信。いや自信などというものではない、 呆れるほどの傲慢さだ、 と。
いったいこの人の神経はどうなってるのかしら、 わたしはお転婆で突飛なことをすると人から言われているけれど、 この人の行為は突飛などと言うものではなく、 異常だと思う。
日常的な交際をしないから、 人間の交際の仕方も知らないのではないのだろうか。すべて世の中は、 中折れ 自分自身が考える範囲のなかで動いているとでも思っているのではないのだろうか。
こちらが、 教会に行くとも行かないとも返事もしていないのに、 こちらの意向を無視して、 教会に行くのにふさわしい服装だからと押しつけてくるに及んで、 柳子はかちんと反撥を覚えずにはおれなかった。
「キリスト教信者のなかには、 非常に常識を逸脱したものの考え方をする人が多いよ」
良三叔父が言ったのを想いだす。
そういえば父も、 いつだったか、 「ひとつの宗教に凝ると、 呆れるほどのエゴイストになって、 他人の思惑など無視して、 自分本意な考え方を押しつけてくるものがある」と言っていたが、 これほど独断的な人もめずらしいのではないだろうか。
まったく狂信者の典型だわ、 と呆然とするほどだったが、 ここで呆然としていては、 相手の強引さに引き摺り込まれてしまう。
「わたし、 ペニス短小 いまのところ、 教会に行く気などないのですけど」
柳子が、 かっとなった気持ちを抑えて、 むしろ冷たい感じに言い放つのにも、 須磨子は意に解することなどなく、
「柳子さんはまだ世の中の汚れに染まっていないから、 いまのうちにキリストの教えをよく勉強なさって、 まっすぐな道を歩まれたらいいと思ってお誘いするんです。人間はこの世に生を享けたとき、 すでに罪を背負ってくるのですから、 神に許しを乞わなければなりません。神に祈ることによって、 日々の罪深い行いを償えますし、 日々の労働の辛さからも救われます」
と宗教への勧誘をはじめる。
大きなお世話だ、 と柳子はむっとする。むっとした感情を露わにして、
性交痛塗り薬 めずらしく顔を硬張らせる
「お父ちゃん、 あんな人らと比べんといてほしいわ。あの人らは出稼ぎなんかとちがうんやし、 女性精力剤 奴隷で連れてこられた人の子孫やさかいに。まあウチらもおんなじようなもんやけどね、 好きで来たんちゃうさかい」
「あれえ、 秋子。えらい言い方するやないか。ウチらもおんなじや言うて、 わてがいつあんたらを奴隷扱いしましてん」
なんでも冗談にしてしまう茂も、 性交痛塗り薬 めずらしく顔を硬張らせる。
「あんたがそのつもりでのうても、 結果はおんなじだすがな。ひどい生活さされてますさかいな」
タツの甲高い声が割り込むと、 せっかく角が取れてきている、 と柳子らに思わせたのも束の間で、 またことばが尖って目尻が釣り上がる。
迂闊に吐いたことばが、 ひょんな拍子にこじれてしまって、 思いもよらなかった険悪な空気になったから、 茂の顏がひょっとこのように歪む。
柳子はそれを見て、 悲哀とおかしさを同時に感じた表情の処理に困る。
「ものごとは結果だけを天秤にかけるもんやおまへんで。もう片一方に原因の錘乗せてもらわな困りますがな。わて一人のせいにせんといとくれやすや。わても好き好んで破産さしたんやおまへんがな。わてとこだけやのうて、 ぎょうさんの工場潰れてますねん。世界じゅうが傾いてますねんで。よう覚えといとくれやすや。わてがなんぼ頑張ったかて、 どないもならしまへんかったんだす。そんなこといまさら言わんかて、 あんたらも知ってることや思うてましたけどな」
茂の言うとおりで、 タツも秋子もそれはわかっていたのだけれど、 あまりに境遇が急変したために、 神経が尖ってしまって、 思い遣りがついて行かなかったのだ。
「お父ちゃん堪忍してぇ、 ウチがちょっと苛々してて言い過ぎたんやさかい」
あっさり秋子がみずからの非を認めて謝ったから、 ダイエット ぼやが大きくならずに済んだ。
どうなることかと心配していた柳子も、 捻れさせていた気持ちを元に戻す。
近ごろ、 小森の家族の精神状態が平穏になってきていると見えたのは、 表層だけのことで、 ちょっとしたことばの引っ掛かりで、 それが大きく裂けて波風が立ち、 白い歯を剥きだすのを思い知らされた感じだった。
まだまだみんな、 心の底には理不尽な環境に追い込まれたことへの忿懣が燻っていて、 いつ爆発するか予想のつかない海底火山のようなものなのだ、 と思った。
ここで最低級の賃金労働者として、 ただ食うためにだけ働いている環境から、 這い上がって出て行ける日が来るまでは、 ほんとうの平安な生活を迎えることなどないのだ、 と柳子にもわかった。
そんなある朝のことだった。柳子は、 なんの気なしに炊事場の板壁の隙間から隣の炊事場を覗いて、 タツの夫への底意地の悪さを目撃する。
柳子が思わず、 へええっ、 と息を呑んだほどの、 陰湿なタツの行為だった。
タツが、 メリケン粉を水で溶いただけの、 キリストが十二使徒に分かち与えたのと同じ型のパンを焼いていて、 フライパンの上で引っ繰り返すときに手元が狂って、 フライパンから飛び出し、 土間に落ちた。
上女中や下女中や賄婦など、 いわゆる大阪弁で言う「おなごしはん」をぎょうさん使うてましたんやけど、 と自慢していたタツだから、 炊事場のことをする手が鈍っていたのだろう。パンがフライパンから飛び出したのだが、 これくらいは日常茶飯事、 周章てる様子もなく、 土間に落ちたパンを拾い上げ、 ぱんぱんとパンについた土埃を手で払って、 すでに焼いて皿に盛ってあるパンの下に潜り込ませる。
むかしなら、 土間に落ちて土のついたパンなどさっさと惜し気もなく捨ててしまったかもしれないだろうが、 現在の生活ではそうもできないのはわかる。もったいないから、 あとでタツ自身がそれを食べるのだろう。
詮索好きな柳子でも、 それを意地悪い眼で追っていたわけではなかったが、 ちょうど土間に落としたパンが最後に焼いたパンだったらしく、 食卓に運んで行って、 食卓を敲いて待っている子どもたちの前の皿に、 重ねたパンを上から順に配ってゆき、 主人のところまでくると、 さきほど土間に落としたパンを皿の底から引っ張りだして、 夫の前の皿に乗せるのを、 はっきり視たのだ。
ふうん、 なるほど、 そういう意地の悪いことをして、 日頃の欝憤を霽らすのか、 と柳子は呆れながら感心する。
「またかいな」
すぐに家長が不満を口にしたから、 そういう意地の悪いことをするのは、 いまはじめてのことではなく、 すでに何度か土のついたパンを食べさせられていたのに違いなかった。
これはまた、 夫婦喧嘩のはじまりそうな雲行きだな、 と柳子が興味をそそられて様子を窺っていると、
「ほんまに黄粉まぶしたみたいだすな」
と言いながら、 茂はパンをぱたぱた叩いてから千切って、 口に入れる。
そのいかにも不味そうな顔で食べるのを見て、 柳子は、 気の毒だけれど、 おかしくて、 おかしさを堪えるのに涙が出そうになった。
「それくらい辛抱しなはれ。わてらあんたのオイドについてきて、 暑いさなかに文句も言わんと働いてあげてますねんで」
文句たらたら言いながらなのに、 文句も言わんとなどと平気で言って、 そのうえ自分自身のことでもあるのに、 働いてあげてますねん、 と恩着せがましく言うのを聴いて、 ダイエット 柳子のほうが呆れる。
女房が働くのは当たりまえのことだとしても、 娘や息子に辛い思いをさせているのを充分心得ている茂だから、 多勢に無勢、
「へえ、 さよか、 それはどうも、 よう働いてもろうて、 おおけにおおけに」
と逆らわずに恩に着て、 やんわり体を躱している。
そういう彼らの内部事情を垣間見て、 本人たちはいざ知らず、 傍から見ている分には、 小森の家庭はなんでも言いたい放題に言って口喧嘩しているように見えても、 それが近親相姦的な戯れ合いに思えて、 一人娘で戯れ合う相手のいない柳子には、 嫉妬を覚えるほどの親しみに見えるのだから、 ふしぎだった。
我が家の静けさとはぜんぜん異質な小森の家庭の明るさだった。
こちらは柳子ひとりがなんだかだと言うけれど、 龍一もチヨも口数が少ないから、 一家団欒という雰囲気からは、 非常に掛け離れている。
とくに、 チヨは冗談口を好まないし、 父はこの頃なにを考えているのか、 呑気そうには見えていても、 日本での女遊びから脱却して何も考えていないはずはなく、 赤道を越えるときに変身したのだという分だけ真面目になった反面、 少し陰気臭くもなっていた。
その朝、 目撃したことを、 柳子がチヨに話すと、 チヨは、 へええ、 と呆れて眼を丸くしただけだったが、 龍一は、
「あの女は底意地の悪い女じゃ。旦那がへえこら言うもんじゃから、 男を蔑ろにしとる」
などと、 まるで謹厳居士のような顔をして、 男の主権の回復を促すようなことを言った。
隣の噂をしているときに、 隣から呼ぶ声がして、 どきっとする。秋子だった。
隣との境の、 板壁のいちばん隙間の大きなところに目玉を持っていって柳子が覗くと、 ばったり秋子の目玉と合って、 もう一度どっきりさせられた。
「柳ちゃん、 ちょっと」
隣を覗いたり、 隣の家族の噂をしていた疚しさがあったから、 秋子の「ちょっと」に油断なく身構える恰好になって、
「どうしたのぉ」
とおずおず訊く。
「あれえ、 秋子。えらい言い方するやないか。ウチらもおんなじや言うて、 わてがいつあんたらを奴隷扱いしましてん」
なんでも冗談にしてしまう茂も、 性交痛塗り薬 めずらしく顔を硬張らせる。
「あんたがそのつもりでのうても、 結果はおんなじだすがな。ひどい生活さされてますさかいな」
タツの甲高い声が割り込むと、 せっかく角が取れてきている、 と柳子らに思わせたのも束の間で、 またことばが尖って目尻が釣り上がる。
迂闊に吐いたことばが、 ひょんな拍子にこじれてしまって、 思いもよらなかった険悪な空気になったから、 茂の顏がひょっとこのように歪む。
柳子はそれを見て、 悲哀とおかしさを同時に感じた表情の処理に困る。
「ものごとは結果だけを天秤にかけるもんやおまへんで。もう片一方に原因の錘乗せてもらわな困りますがな。わて一人のせいにせんといとくれやすや。わても好き好んで破産さしたんやおまへんがな。わてとこだけやのうて、 ぎょうさんの工場潰れてますねん。世界じゅうが傾いてますねんで。よう覚えといとくれやすや。わてがなんぼ頑張ったかて、 どないもならしまへんかったんだす。そんなこといまさら言わんかて、 あんたらも知ってることや思うてましたけどな」
茂の言うとおりで、 タツも秋子もそれはわかっていたのだけれど、 あまりに境遇が急変したために、 神経が尖ってしまって、 思い遣りがついて行かなかったのだ。
「お父ちゃん堪忍してぇ、 ウチがちょっと苛々してて言い過ぎたんやさかい」
あっさり秋子がみずからの非を認めて謝ったから、 ダイエット ぼやが大きくならずに済んだ。
どうなることかと心配していた柳子も、 捻れさせていた気持ちを元に戻す。
近ごろ、 小森の家族の精神状態が平穏になってきていると見えたのは、 表層だけのことで、 ちょっとしたことばの引っ掛かりで、 それが大きく裂けて波風が立ち、 白い歯を剥きだすのを思い知らされた感じだった。
まだまだみんな、 心の底には理不尽な環境に追い込まれたことへの忿懣が燻っていて、 いつ爆発するか予想のつかない海底火山のようなものなのだ、 と思った。
ここで最低級の賃金労働者として、 ただ食うためにだけ働いている環境から、 這い上がって出て行ける日が来るまでは、 ほんとうの平安な生活を迎えることなどないのだ、 と柳子にもわかった。
そんなある朝のことだった。柳子は、 なんの気なしに炊事場の板壁の隙間から隣の炊事場を覗いて、 タツの夫への底意地の悪さを目撃する。
柳子が思わず、 へええっ、 と息を呑んだほどの、 陰湿なタツの行為だった。
タツが、 メリケン粉を水で溶いただけの、 キリストが十二使徒に分かち与えたのと同じ型のパンを焼いていて、 フライパンの上で引っ繰り返すときに手元が狂って、 フライパンから飛び出し、 土間に落ちた。
上女中や下女中や賄婦など、 いわゆる大阪弁で言う「おなごしはん」をぎょうさん使うてましたんやけど、 と自慢していたタツだから、 炊事場のことをする手が鈍っていたのだろう。パンがフライパンから飛び出したのだが、 これくらいは日常茶飯事、 周章てる様子もなく、 土間に落ちたパンを拾い上げ、 ぱんぱんとパンについた土埃を手で払って、 すでに焼いて皿に盛ってあるパンの下に潜り込ませる。
むかしなら、 土間に落ちて土のついたパンなどさっさと惜し気もなく捨ててしまったかもしれないだろうが、 現在の生活ではそうもできないのはわかる。もったいないから、 あとでタツ自身がそれを食べるのだろう。
詮索好きな柳子でも、 それを意地悪い眼で追っていたわけではなかったが、 ちょうど土間に落としたパンが最後に焼いたパンだったらしく、 食卓に運んで行って、 食卓を敲いて待っている子どもたちの前の皿に、 重ねたパンを上から順に配ってゆき、 主人のところまでくると、 さきほど土間に落としたパンを皿の底から引っ張りだして、 夫の前の皿に乗せるのを、 はっきり視たのだ。
ふうん、 なるほど、 そういう意地の悪いことをして、 日頃の欝憤を霽らすのか、 と柳子は呆れながら感心する。
「またかいな」
すぐに家長が不満を口にしたから、 そういう意地の悪いことをするのは、 いまはじめてのことではなく、 すでに何度か土のついたパンを食べさせられていたのに違いなかった。
これはまた、 夫婦喧嘩のはじまりそうな雲行きだな、 と柳子が興味をそそられて様子を窺っていると、
「ほんまに黄粉まぶしたみたいだすな」
と言いながら、 茂はパンをぱたぱた叩いてから千切って、 口に入れる。
そのいかにも不味そうな顔で食べるのを見て、 柳子は、 気の毒だけれど、 おかしくて、 おかしさを堪えるのに涙が出そうになった。
「それくらい辛抱しなはれ。わてらあんたのオイドについてきて、 暑いさなかに文句も言わんと働いてあげてますねんで」
文句たらたら言いながらなのに、 文句も言わんとなどと平気で言って、 そのうえ自分自身のことでもあるのに、 働いてあげてますねん、 と恩着せがましく言うのを聴いて、 ダイエット 柳子のほうが呆れる。
女房が働くのは当たりまえのことだとしても、 娘や息子に辛い思いをさせているのを充分心得ている茂だから、 多勢に無勢、
「へえ、 さよか、 それはどうも、 よう働いてもろうて、 おおけにおおけに」
と逆らわずに恩に着て、 やんわり体を躱している。
そういう彼らの内部事情を垣間見て、 本人たちはいざ知らず、 傍から見ている分には、 小森の家庭はなんでも言いたい放題に言って口喧嘩しているように見えても、 それが近親相姦的な戯れ合いに思えて、 一人娘で戯れ合う相手のいない柳子には、 嫉妬を覚えるほどの親しみに見えるのだから、 ふしぎだった。
我が家の静けさとはぜんぜん異質な小森の家庭の明るさだった。
こちらは柳子ひとりがなんだかだと言うけれど、 龍一もチヨも口数が少ないから、 一家団欒という雰囲気からは、 非常に掛け離れている。
とくに、 チヨは冗談口を好まないし、 父はこの頃なにを考えているのか、 呑気そうには見えていても、 日本での女遊びから脱却して何も考えていないはずはなく、 赤道を越えるときに変身したのだという分だけ真面目になった反面、 少し陰気臭くもなっていた。
その朝、 目撃したことを、 柳子がチヨに話すと、 チヨは、 へええ、 と呆れて眼を丸くしただけだったが、 龍一は、
「あの女は底意地の悪い女じゃ。旦那がへえこら言うもんじゃから、 男を蔑ろにしとる」
などと、 まるで謹厳居士のような顔をして、 男の主権の回復を促すようなことを言った。
隣の噂をしているときに、 隣から呼ぶ声がして、 どきっとする。秋子だった。
隣との境の、 板壁のいちばん隙間の大きなところに目玉を持っていって柳子が覗くと、 ばったり秋子の目玉と合って、 もう一度どっきりさせられた。
「柳ちゃん、 ちょっと」
隣を覗いたり、 隣の家族の噂をしていた疚しさがあったから、 秋子の「ちょっと」に油断なく身構える恰好になって、
「どうしたのぉ」
とおずおず訊く。
不感症 茂男にしてはどちらかというと白すぎた膚も
変な家庭環境をつくって、 人との交際もまともにしない家族構成のなかにいても、 それだけでは人間生きてゆくのにあまりにも淋しすぎるのだろう。なんとか外部との接触をつくりたいし、 同性の友人も欲しいのにちがいない。
そういう同情は持ったけれど、 どうしても須磨子と親しくする気にはなれなかった。ぜったいこんな人とは交際したくないというほどの嫌悪感からではなく、 なんとなく好きになれないという程度の嗜好範囲のことだったが、 それは彼女があまりにも熱心なキリスト教信者だと思う違和感が心の底にあるからだろう。彼女のものの考え方や生き方に、 人に影響を与えたがる、 思い上がった独善性があるのが、 こちらの心の琴線に触れるから反撥してしまうのだ、 と惟う。
「ブラジル語は、 鷹彦さんが教えてくれることになってますから」
柳子が意識して冷淡に振る舞ったのは、 これ以上なんだかだと接近を図ってこられてはいやだと思ったからだった。
「あら、 そうだったの。あの人もスペイン語を勉強してきているのね」
「こちらの新聞が読めるらしいですよ」
「そう、 じゃあ」
須磨子が少しは表情をずらせたけれど、 案外うるさく言わないで、 すたすたと教会への坂道を上っていったから、 柳子はほっとするとともに、 なにかしら彼女の心の底にわだかまっているものが視えるような気がして、 気味悪かった。
須磨子は、 まるで何かに向かって挑戦するかのように、 まっすぐ背を立てて、 一歩一歩ぐいぐいと押し出すような歩き方をする。それが見ているものに畏敬の念を起こさせる。
須磨子が向かって行く方角に、 高台に建っている教会の塔の、 三角錐の屋根の上にある十字架が、 ここからも視えるのだけれど、 視る日によって、 その十字架が白く光ったり金色に輝いたり、 ちがって視えるのは、 その日の天気と視たときの太陽の位置によるのだろう。
いまは白金に光っていて、 じっと視ておれない威圧感を感じさせる。その居丈高な十字架の様子に反撥を覚えたとき、 ああそうか、 キリスト教会が、 須磨子にあんな態度を取らせていたのだ、 と柳子は気づく。
そして、 あの傲慢さに挫けない姿勢をこちらも持ちつづけなければならないと思う。
「若いうちだけだ。相手を恐れず率直にものが言えるのは。歳取ると自分自身を欺いても人と迎合して生きて行かなければならなくなるんだから」
こういうことを言う父を、 柳子はもののわかった人だと思う。ただ、 のうのうと女遊びをしていただけではないのだろう。そういう自堕落だった生活のなかで、 人間関係の機微に触れることもあったのだろう。
まだ十字架は眩い光を放っていたが、 十字架の先端を燃え立たせている太陽の位置がずれてゆくのを、 柳子は意地になって待ちつづける。じっと視線を固定させていると、 太陽のほうが根負けして折れ曲がり、 ゆるゆると揺れながら逃げてゆくから、 勝ち誇った気分になれる。
須磨子がこんなことを知ったら、 「あなたはなんという強情な子なんだろう」と言うだろう、 と思っておかしくなる。
柳子は、 鷹彦とはちがって、 人との交際を煩わしいと思ったことはなかった。須磨子のように、 相手の気持ちを考慮せず、 自己主張ばかりする人は、 こちらの言いたいことを聴いてくれる心の広さがないから、 つまらないと思うから嫌なのだ。
だから、 須磨子の偏った個性に影響されるよりは、 鷹彦の知性に触れていたほうがいいと思う。
そのほかに、 時間のあるかぎりこの農場のなかを散策しているほうが、 いままで知らなかったいろいろなことを知って、 ブラジルにきたことの意味をみつけられる、 と思う。
まだまだ目新しいことが、 その辺りにいっぱいあるのだから。
お母さんが胆を潰すような、 淫猥なことも多いけれど、 と柳子はくすんと笑って、 広大な風景のなかへ溶解して行くときの恍惚感に浸る。
日曜日も祭日もお構いなしに働く日本人たちは、 でき得るかぎり人生を楽しんで生きようとするブラジル人気質には、 特異な人種に見えるらしいが、 自給用の畑を耕し、 種を播き、 野菜を作って、 食生活を豊かにするという意味が、 彼らにも徐々に理解されてきて、 働き蜂とキリギリスのイソップ物語を思い出したのだろうか、 北伯からの内国移民の労働者のなかにも、 避妊薬 日本人を真似て、 余暇に土を耕し、 種を播くものがではじめる。
彼らはキアボといい、 媚薬女性用精力剤 日本人はオクラと呼称するものの種を播くものが多かった。
もうブラジル第一回移民の笠戸丸からおおかた三十年のあいだに、 日本人が農業の神様だという称賛の声はブラジルじゅうに広がっていて、 ここのブラジル人たちも知っていた。
新しくこの農場に入ってきた日本人移民の働きぶりも例外ではなかった。
川田と竜野と中村は、 日本で使っていた鍬や鋤をそのまま持ってきていたし、 内藤も主に養蚕をしていたといっても代々農家で、 チヨなどは家事のほかに、 野菜畑もつくっていたのだから、 性欲欠乏症 小森以外のものは、 みなお手のものなのだ。
いや、 まったくの都市生活者で、 鍬を手にしたことがなかったという小森も、 そう遠くない先祖は河内の百姓だったのだから、 日本人本来の農耕民族の血は受け継いでいる。
その血が伝統的な農作業について、 本家帰りをしたのにちがいなかった。身体的に労働に慣れ、 精神的な動揺もどうやら落ち着いてくると、 地にしっかり足がつき、 腰を据える様子が彼らにも見えてくる。
それはあながち諦めだけではなく、 なんとしてでも頑張ってやらなければ、 たとえ金を残せなくても、 食生活を維持して行けないのだからという必死さが、 意気込みになって、 筋肉に顕われてきているふうだった。
十一月には「ビッコ・ド・バット」といって、 コーヒー樹の畦間に二十五センチほどの深さの切り込みを縦横に通す作業があった。
そうすることによって旧根が切断され、 そこから新しい根が発生して旺盛な地下水の吸収作用を起こすから、 コーヒー樹の葉が一段と濃いみどりになるのだ、 と植物の生態に詳しくないものも、 教えられて納得する。
「まあ、 同じことですね、 盆栽なぞと」
龍一は、 放逸な生活をしているのに、 若いときから盆栽をいじる趣味があって、 親を苦笑させていたから、 コーヒー樹の根切りから連想したのだろう。
十二月に入ると、 その効果が顕われて、 いっそう葉のみどりが目に沁みるようになっていた。
そして、 ぼつぼつ雨季に入って、 まだ小さかったコーヒーの実が、 日毎に膨らんできているのがわかるほどだった。
自然現象の芽吹きや結実は人体にも影響してくるのにちがいなく、 娘たちのこころの華やぎを誘って、 徐々に調子づいてきている作業のなかに、 彼女らの笑い声が弾けたりする。
龍一の黒い口髭が、 それほど目立たなくなるほどに顏が日焼けしてきていたし、 不感症 茂の、 男にしてはどちらかというと白すぎた膚も、 火傷して爛れたように赤褐色になっていた。
「まあまあ、 柳ちゃんもこんがりとケツネ色に焼けはって」
タツからそう言われた柳子が、 タツの言う「ケツネ色」が何色なのかわからなくて、 狐につままれたように怪訝な表情をする。
「お父ちゃ、 ケツネ色ってどんな色なのぉ」
龍一もいっしゅん考えてから、
「ああ、 パンがちょうどいい色に焼けたときの色だろ」
と教える。
「なんだぁ、 狐色のことじゃないのぉ」
柳子が騙されたような気がして言うと、
「おんなじことだすがな」
とタツは、 自身の発音の訛りには気がつかない。
そういうタツの声から、 ついこのあいだまでの刺々しさがなくなっているのに、 チヨは気づいた。
いつも苛々していて、 なにごとにつけても夫に楯突き、 自分一人が女王のように振る舞っていた尖った声の、 角が落ちているばかりではなく、 狐顔の目尻の釣り上がったきつい感じの美人だったのが、 陽に灼けた顔色がそのきつさを和らげてもいた。
「秋子も夏子も、 羽二重餅みたいな肌しとったのに台無しやな」
声に、 台無しという悲哀感は篭もっていなくて、 むしろそれを悦んでいるような、 楽しそうな声に聴こえた。
柳子が観る感じでは、 秋子や夏子の陽灼けした顏は、 台無しというよりも、 ちょうどいい具合に輪郭がついてきたように思える。
むしろそういうタツのほうが、 気の毒なほど陽灼けがつよくて、 せっかくの妖艶さが翳ってしまっている。
太陽は、 美人でも不美人でも、 肥っていても痩せていても、 平等に灼きつけてくる。
それなのに、 人は同等に灼け焦げない。それぞれの肌の色素がちがうからか、 竜野や中村の家族は一様に、 すぐに黒人に近い色になったけれど、 川田の家族はそれほど陽に灼けた感じがなく、 鷹彦などは青白いままのように見えた。まあ強いて言えば、 鼻の頭が赤くなった程度だろうか。
内藤の家族は狐色で、 小森の家族が火傷色という灼け方だった。
いよいよブラジルの夏がまっ盛りになってきて、 大地にあるもののすべてを灼き尽くそうと、 ありったけの太陽熱で焙りつづける。
灼かれた大地は、 その熱を最大限に利用して、 照り返し、 太陽に協力して、 物皆すべてを天火のなかに放りこみ、 消滅させるべく努力する。
それでもまだタツや秋子や夏子の美貌は、 陽灼けなりにその美形を保っていて、 相対的な芸術的均整を崩すことはなかった。
ここの農場の貧しい労働者の女たちのなかにも、 ミケランジェロやダ・ヴィンチが彫刻したように、 見事な姿態を露わにしている。白人女の豊満な乳房。黒人女の隆起した臀部などは、 日本人の男を、 どぎまぎさせ、 油を塗ったような黒人男の筋肉の盛り上がりには、 女たちが魅せられて、 視線の遣り場に困る。
そんな日本人の眼にやさしいのは、 しっくりした美を保っている小森の女たちの、 大和絵の伝統的な美形だった。
子供の時に移民してきて、 そんな日本の伝統を知らなくても、 血にそれを持っているからだろう、 熊野は、 小森の女たちに目移りがして、 足繁く彼女らが働く畑に通ってくる。
ガイジンの女に食傷していて、 秋子らに新鮮な食欲をそそられるからだろうが。黒くなったといっても、 黒人の女たちと比べると、 まだまだ透明な釉薬をかけた有田焼を想わせる秋子らの肌が、 いっそう魅力的だったからに違いなかった。
「まあなんぼ黒うなっても、 アフリカから出稼ぎにきてはる黒い人らよりは、 すこしはましだすがな」
茂が冗談のように言ったことばのどこが気に刺さったのか、 虫の居所が悪かったのだろうか、 いつもはおとなしい秋子が変に引っ掛かって、 本気になって言う。
そういう同情は持ったけれど、 どうしても須磨子と親しくする気にはなれなかった。ぜったいこんな人とは交際したくないというほどの嫌悪感からではなく、 なんとなく好きになれないという程度の嗜好範囲のことだったが、 それは彼女があまりにも熱心なキリスト教信者だと思う違和感が心の底にあるからだろう。彼女のものの考え方や生き方に、 人に影響を与えたがる、 思い上がった独善性があるのが、 こちらの心の琴線に触れるから反撥してしまうのだ、 と惟う。
「ブラジル語は、 鷹彦さんが教えてくれることになってますから」
柳子が意識して冷淡に振る舞ったのは、 これ以上なんだかだと接近を図ってこられてはいやだと思ったからだった。
「あら、 そうだったの。あの人もスペイン語を勉強してきているのね」
「こちらの新聞が読めるらしいですよ」
「そう、 じゃあ」
須磨子が少しは表情をずらせたけれど、 案外うるさく言わないで、 すたすたと教会への坂道を上っていったから、 柳子はほっとするとともに、 なにかしら彼女の心の底にわだかまっているものが視えるような気がして、 気味悪かった。
須磨子は、 まるで何かに向かって挑戦するかのように、 まっすぐ背を立てて、 一歩一歩ぐいぐいと押し出すような歩き方をする。それが見ているものに畏敬の念を起こさせる。
須磨子が向かって行く方角に、 高台に建っている教会の塔の、 三角錐の屋根の上にある十字架が、 ここからも視えるのだけれど、 視る日によって、 その十字架が白く光ったり金色に輝いたり、 ちがって視えるのは、 その日の天気と視たときの太陽の位置によるのだろう。
いまは白金に光っていて、 じっと視ておれない威圧感を感じさせる。その居丈高な十字架の様子に反撥を覚えたとき、 ああそうか、 キリスト教会が、 須磨子にあんな態度を取らせていたのだ、 と柳子は気づく。
そして、 あの傲慢さに挫けない姿勢をこちらも持ちつづけなければならないと思う。
「若いうちだけだ。相手を恐れず率直にものが言えるのは。歳取ると自分自身を欺いても人と迎合して生きて行かなければならなくなるんだから」
こういうことを言う父を、 柳子はもののわかった人だと思う。ただ、 のうのうと女遊びをしていただけではないのだろう。そういう自堕落だった生活のなかで、 人間関係の機微に触れることもあったのだろう。
まだ十字架は眩い光を放っていたが、 十字架の先端を燃え立たせている太陽の位置がずれてゆくのを、 柳子は意地になって待ちつづける。じっと視線を固定させていると、 太陽のほうが根負けして折れ曲がり、 ゆるゆると揺れながら逃げてゆくから、 勝ち誇った気分になれる。
須磨子がこんなことを知ったら、 「あなたはなんという強情な子なんだろう」と言うだろう、 と思っておかしくなる。
柳子は、 鷹彦とはちがって、 人との交際を煩わしいと思ったことはなかった。須磨子のように、 相手の気持ちを考慮せず、 自己主張ばかりする人は、 こちらの言いたいことを聴いてくれる心の広さがないから、 つまらないと思うから嫌なのだ。
だから、 須磨子の偏った個性に影響されるよりは、 鷹彦の知性に触れていたほうがいいと思う。
そのほかに、 時間のあるかぎりこの農場のなかを散策しているほうが、 いままで知らなかったいろいろなことを知って、 ブラジルにきたことの意味をみつけられる、 と思う。
まだまだ目新しいことが、 その辺りにいっぱいあるのだから。
お母さんが胆を潰すような、 淫猥なことも多いけれど、 と柳子はくすんと笑って、 広大な風景のなかへ溶解して行くときの恍惚感に浸る。
日曜日も祭日もお構いなしに働く日本人たちは、 でき得るかぎり人生を楽しんで生きようとするブラジル人気質には、 特異な人種に見えるらしいが、 自給用の畑を耕し、 種を播き、 野菜を作って、 食生活を豊かにするという意味が、 彼らにも徐々に理解されてきて、 働き蜂とキリギリスのイソップ物語を思い出したのだろうか、 北伯からの内国移民の労働者のなかにも、 避妊薬 日本人を真似て、 余暇に土を耕し、 種を播くものがではじめる。
彼らはキアボといい、 媚薬女性用精力剤 日本人はオクラと呼称するものの種を播くものが多かった。
もうブラジル第一回移民の笠戸丸からおおかた三十年のあいだに、 日本人が農業の神様だという称賛の声はブラジルじゅうに広がっていて、 ここのブラジル人たちも知っていた。
新しくこの農場に入ってきた日本人移民の働きぶりも例外ではなかった。
川田と竜野と中村は、 日本で使っていた鍬や鋤をそのまま持ってきていたし、 内藤も主に養蚕をしていたといっても代々農家で、 チヨなどは家事のほかに、 野菜畑もつくっていたのだから、 性欲欠乏症 小森以外のものは、 みなお手のものなのだ。
いや、 まったくの都市生活者で、 鍬を手にしたことがなかったという小森も、 そう遠くない先祖は河内の百姓だったのだから、 日本人本来の農耕民族の血は受け継いでいる。
その血が伝統的な農作業について、 本家帰りをしたのにちがいなかった。身体的に労働に慣れ、 精神的な動揺もどうやら落ち着いてくると、 地にしっかり足がつき、 腰を据える様子が彼らにも見えてくる。
それはあながち諦めだけではなく、 なんとしてでも頑張ってやらなければ、 たとえ金を残せなくても、 食生活を維持して行けないのだからという必死さが、 意気込みになって、 筋肉に顕われてきているふうだった。
十一月には「ビッコ・ド・バット」といって、 コーヒー樹の畦間に二十五センチほどの深さの切り込みを縦横に通す作業があった。
そうすることによって旧根が切断され、 そこから新しい根が発生して旺盛な地下水の吸収作用を起こすから、 コーヒー樹の葉が一段と濃いみどりになるのだ、 と植物の生態に詳しくないものも、 教えられて納得する。
「まあ、 同じことですね、 盆栽なぞと」
龍一は、 放逸な生活をしているのに、 若いときから盆栽をいじる趣味があって、 親を苦笑させていたから、 コーヒー樹の根切りから連想したのだろう。
十二月に入ると、 その効果が顕われて、 いっそう葉のみどりが目に沁みるようになっていた。
そして、 ぼつぼつ雨季に入って、 まだ小さかったコーヒーの実が、 日毎に膨らんできているのがわかるほどだった。
自然現象の芽吹きや結実は人体にも影響してくるのにちがいなく、 娘たちのこころの華やぎを誘って、 徐々に調子づいてきている作業のなかに、 彼女らの笑い声が弾けたりする。
龍一の黒い口髭が、 それほど目立たなくなるほどに顏が日焼けしてきていたし、 不感症 茂の、 男にしてはどちらかというと白すぎた膚も、 火傷して爛れたように赤褐色になっていた。
「まあまあ、 柳ちゃんもこんがりとケツネ色に焼けはって」
タツからそう言われた柳子が、 タツの言う「ケツネ色」が何色なのかわからなくて、 狐につままれたように怪訝な表情をする。
「お父ちゃ、 ケツネ色ってどんな色なのぉ」
龍一もいっしゅん考えてから、
「ああ、 パンがちょうどいい色に焼けたときの色だろ」
と教える。
「なんだぁ、 狐色のことじゃないのぉ」
柳子が騙されたような気がして言うと、
「おんなじことだすがな」
とタツは、 自身の発音の訛りには気がつかない。
そういうタツの声から、 ついこのあいだまでの刺々しさがなくなっているのに、 チヨは気づいた。
いつも苛々していて、 なにごとにつけても夫に楯突き、 自分一人が女王のように振る舞っていた尖った声の、 角が落ちているばかりではなく、 狐顔の目尻の釣り上がったきつい感じの美人だったのが、 陽に灼けた顔色がそのきつさを和らげてもいた。
「秋子も夏子も、 羽二重餅みたいな肌しとったのに台無しやな」
声に、 台無しという悲哀感は篭もっていなくて、 むしろそれを悦んでいるような、 楽しそうな声に聴こえた。
柳子が観る感じでは、 秋子や夏子の陽灼けした顏は、 台無しというよりも、 ちょうどいい具合に輪郭がついてきたように思える。
むしろそういうタツのほうが、 気の毒なほど陽灼けがつよくて、 せっかくの妖艶さが翳ってしまっている。
太陽は、 美人でも不美人でも、 肥っていても痩せていても、 平等に灼きつけてくる。
それなのに、 人は同等に灼け焦げない。それぞれの肌の色素がちがうからか、 竜野や中村の家族は一様に、 すぐに黒人に近い色になったけれど、 川田の家族はそれほど陽に灼けた感じがなく、 鷹彦などは青白いままのように見えた。まあ強いて言えば、 鼻の頭が赤くなった程度だろうか。
内藤の家族は狐色で、 小森の家族が火傷色という灼け方だった。
いよいよブラジルの夏がまっ盛りになってきて、 大地にあるもののすべてを灼き尽くそうと、 ありったけの太陽熱で焙りつづける。
灼かれた大地は、 その熱を最大限に利用して、 照り返し、 太陽に協力して、 物皆すべてを天火のなかに放りこみ、 消滅させるべく努力する。
それでもまだタツや秋子や夏子の美貌は、 陽灼けなりにその美形を保っていて、 相対的な芸術的均整を崩すことはなかった。
ここの農場の貧しい労働者の女たちのなかにも、 ミケランジェロやダ・ヴィンチが彫刻したように、 見事な姿態を露わにしている。白人女の豊満な乳房。黒人女の隆起した臀部などは、 日本人の男を、 どぎまぎさせ、 油を塗ったような黒人男の筋肉の盛り上がりには、 女たちが魅せられて、 視線の遣り場に困る。
そんな日本人の眼にやさしいのは、 しっくりした美を保っている小森の女たちの、 大和絵の伝統的な美形だった。
子供の時に移民してきて、 そんな日本の伝統を知らなくても、 血にそれを持っているからだろう、 熊野は、 小森の女たちに目移りがして、 足繁く彼女らが働く畑に通ってくる。
ガイジンの女に食傷していて、 秋子らに新鮮な食欲をそそられるからだろうが。黒くなったといっても、 黒人の女たちと比べると、 まだまだ透明な釉薬をかけた有田焼を想わせる秋子らの肌が、 いっそう魅力的だったからに違いなかった。
「まあなんぼ黒うなっても、 アフリカから出稼ぎにきてはる黒い人らよりは、 すこしはましだすがな」
茂が冗談のように言ったことばのどこが気に刺さったのか、 虫の居所が悪かったのだろうか、 いつもはおとなしい秋子が変に引っ掛かって、 本気になって言う。
コンドーム べつに反対する理由もなかったから
「宗教なんてどれもみな凶々しいもんだけどキリスト教ほど凶々しいものはないね」
良三が、 柳子に教えたことは大雑把だが、 徹底的に異教を誹謗するものだった。
「エジプトの奴隷だったユダヤ人が、 イスラエルへ向かって大移動するなかで、 集団行動の倫理としてつくられたものだから、 当時の状況のなかでは実際に必要な規律だったんだろうけど、 コンドーム 迫害されつづけてきた血みどろの歴史のなかで、 歪つな復讐心に練り固められてできた新約聖書は、 異教徒と戦って勝つことを至上とする神の意志として受け継がれてきたものだから、 非常に独善的で排他性に富んでいてね、 そういう点では日蓮と似ているよ。西洋人はなんでも合理的にものごとを考えるというけれど、 キリスト誕生なんぞ、 不合理の見本のようなもので、 あの嘘八百の処女懐胎を千年以上むかしの無知な民衆ならいざしらず、 二十世紀の現代人がありがたがってるなんぞは呆れるだけさ。日本神話のおのごろ島のほうが、 よっぽど合理的な自然の摂理にかなった話だよ」
「おのごろ島ってどこにあるのぉ」
「神話のなかの島だよ。イザナギがイザナミとまぐわって矛の先から滴り落ちた潮が凝結してできた島というのは、 人間誕生の比喩としてつくられた話だから、 よほど理に叶ったものなんだよ。マリアの不義密通を糊塗するためにつくられた処女懐胎より、 うんと説話として筋が通っているし、 詩的だよね」
「ふうん、 日本人て昔から知的だったんですねぇ」
結局は民族主義の自画自賛になっておわったのだけれど、 あのとき、 良三叔父が、 まだ十五歳だった柳子に、
「人間も動物の一種だから、 性行為によってしか子を生まないんだよ。天皇陛下でも変わりはないんだ」
と教えはじめたものだから、 雅子叔母からすごく睨まれて、 頭を掻きながら話すのを止めたのを懐い出して、 柳子はひとりで思い出し笑いをした。
龍一も、 須磨子にはああ言ったけれど、 善光寺などに参ったことは一度もなかった。神仏を信心する気持ちなど持ったことはなかったし、 宗教が日常生活のなかで必要になるのは、 おおかたの日本人と同じで、 冠婚葬祭の儀式に神主か坊主を招くのを宗教的なものとは思わず、 生活に形をつけるだけのものと思ってきただけだった。
神といえば、 それは天皇陛下のことで、 それは常に考えているわけではなかったが、 日本人として当然そこに帰結してゆく無意識な精神があって、 疑問を持ったり詮索できない絶対的な存在だから、 コンドーム なぜ日本人が西洋の神を信仰するようになるのか、 とふしぎに思えるくらいだった。西洋の視えない神よりも、 日本の現人神のほうが信用できるはずなのに、
「神はこの世にただお一人、 キリスト様だけです」というのは、 万系一系の天皇と拮抗する不敬罪に相当するのではないのか。アカに等しい思想的反逆罪だ、 と龍一は思うくらいだった。
「あの女は危険思想を持っているから、 あまり付き合わんほうがいいぞ。川田鷹彦という男もそうだが、 一定の宗教や思想に凝ると、 視える範囲が狭くなって、 世の中のことを平均的に観られなくなるから、 偏屈な人間になるんだ。あいつらは非国民だ。そのうち自分の姿勢も歪むだけでなく、 罰が当たるさ」
龍一は、 自分自身が天皇教の無意識な狂信者になっていることには気づいていないで、 避妊薬 鷹彦と須磨子を悪し様に言う。
宗教や思想に関心がなく、 とくに天皇陛下を敬う心を強く持っていない柳子は、 父の言うことに賛成もしないし、 コンドーム べつに反対する理由もなかったから、 聞き流していたが、 あれほどあからさまに宗教の勧誘にきて断られたことを、 それほど気にしていないらしい須摩子には、 柳子も感心した。あれはキリスト教の博愛精神というものなのかなあ、 と。
なぜそう思ったかというと、 あれから幾日も経たないうちに、 案外に平気な顔をして、
「わたしが勉強してきたスペイン語は、 ポルトガル語と同じブラジル語に共通することばだから、 あなたに教えて上げます」
と、 こんどは語学を介して柳子に接近することを図ってきたから、 柳子のほうが呆気に取られたのだ。
どうもこの人は、 なぜかしら非常にわたしへの関心を持っていて、 宗教や語学などは、 わたしに接近するための口実であるみたいだ、 と柳子は惟う。
良三が、 柳子に教えたことは大雑把だが、 徹底的に異教を誹謗するものだった。
「エジプトの奴隷だったユダヤ人が、 イスラエルへ向かって大移動するなかで、 集団行動の倫理としてつくられたものだから、 当時の状況のなかでは実際に必要な規律だったんだろうけど、 コンドーム 迫害されつづけてきた血みどろの歴史のなかで、 歪つな復讐心に練り固められてできた新約聖書は、 異教徒と戦って勝つことを至上とする神の意志として受け継がれてきたものだから、 非常に独善的で排他性に富んでいてね、 そういう点では日蓮と似ているよ。西洋人はなんでも合理的にものごとを考えるというけれど、 キリスト誕生なんぞ、 不合理の見本のようなもので、 あの嘘八百の処女懐胎を千年以上むかしの無知な民衆ならいざしらず、 二十世紀の現代人がありがたがってるなんぞは呆れるだけさ。日本神話のおのごろ島のほうが、 よっぽど合理的な自然の摂理にかなった話だよ」
「おのごろ島ってどこにあるのぉ」
「神話のなかの島だよ。イザナギがイザナミとまぐわって矛の先から滴り落ちた潮が凝結してできた島というのは、 人間誕生の比喩としてつくられた話だから、 よほど理に叶ったものなんだよ。マリアの不義密通を糊塗するためにつくられた処女懐胎より、 うんと説話として筋が通っているし、 詩的だよね」
「ふうん、 日本人て昔から知的だったんですねぇ」
結局は民族主義の自画自賛になっておわったのだけれど、 あのとき、 良三叔父が、 まだ十五歳だった柳子に、
「人間も動物の一種だから、 性行為によってしか子を生まないんだよ。天皇陛下でも変わりはないんだ」
と教えはじめたものだから、 雅子叔母からすごく睨まれて、 頭を掻きながら話すのを止めたのを懐い出して、 柳子はひとりで思い出し笑いをした。
龍一も、 須磨子にはああ言ったけれど、 善光寺などに参ったことは一度もなかった。神仏を信心する気持ちなど持ったことはなかったし、 宗教が日常生活のなかで必要になるのは、 おおかたの日本人と同じで、 冠婚葬祭の儀式に神主か坊主を招くのを宗教的なものとは思わず、 生活に形をつけるだけのものと思ってきただけだった。
神といえば、 それは天皇陛下のことで、 それは常に考えているわけではなかったが、 日本人として当然そこに帰結してゆく無意識な精神があって、 疑問を持ったり詮索できない絶対的な存在だから、 コンドーム なぜ日本人が西洋の神を信仰するようになるのか、 とふしぎに思えるくらいだった。西洋の視えない神よりも、 日本の現人神のほうが信用できるはずなのに、
「神はこの世にただお一人、 キリスト様だけです」というのは、 万系一系の天皇と拮抗する不敬罪に相当するのではないのか。アカに等しい思想的反逆罪だ、 と龍一は思うくらいだった。
「あの女は危険思想を持っているから、 あまり付き合わんほうがいいぞ。川田鷹彦という男もそうだが、 一定の宗教や思想に凝ると、 視える範囲が狭くなって、 世の中のことを平均的に観られなくなるから、 偏屈な人間になるんだ。あいつらは非国民だ。そのうち自分の姿勢も歪むだけでなく、 罰が当たるさ」
龍一は、 自分自身が天皇教の無意識な狂信者になっていることには気づいていないで、 避妊薬 鷹彦と須磨子を悪し様に言う。
宗教や思想に関心がなく、 とくに天皇陛下を敬う心を強く持っていない柳子は、 父の言うことに賛成もしないし、 コンドーム べつに反対する理由もなかったから、 聞き流していたが、 あれほどあからさまに宗教の勧誘にきて断られたことを、 それほど気にしていないらしい須摩子には、 柳子も感心した。あれはキリスト教の博愛精神というものなのかなあ、 と。
なぜそう思ったかというと、 あれから幾日も経たないうちに、 案外に平気な顔をして、
「わたしが勉強してきたスペイン語は、 ポルトガル語と同じブラジル語に共通することばだから、 あなたに教えて上げます」
と、 こんどは語学を介して柳子に接近することを図ってきたから、 柳子のほうが呆気に取られたのだ。
どうもこの人は、 なぜかしら非常にわたしへの関心を持っていて、 宗教や語学などは、 わたしに接近するための口実であるみたいだ、 と柳子は惟う。
避妊薬 とぼけているのかわからなかった
「わたしは何も悪いことなぞした覚えはないわ。わたしが生まれたときから罪を背負っているということは、 わたしの両親が悪人だということになるようですけど」
と強い口調で言い返す。
「そういう意味ではありません。人間はみな罪深いものなのです。原罪を背負っているのです。だから常に悩み多く苦しみ悶えて生きているから神に救いを求めるのです」
「わたしは悪いことなぞしませんし、 生活を楽しんでいますし、 神さんなんかなくても生きられます」
「それを傲慢というのです。思い上りです。あなたはまだほんとうの苦しみを知らないからそういうことを言うのです。いまに神を求めるような苦難に遭遇するでしょう。そのときになってからでは遅いのです。いまから信仰を深めて地獄に落ちる」と言ったところで、 須磨子はすばやく胸に十字を切ってから、 あとをつづける。「ようなことにならないように祈りつづけなければなりません」
たしかにこの人は幸せな人にちがいないだろう。祈ることで救われると思っているのだから。
ああ、 そうだ、 長野のお祖母さんが同じようなことを言ってたなあ、 と憶い出す。
「念仏を唱えておると、 どんな苦痛もやすまるでなあ」と。
須磨子の言っていることも、 お祖母さんが言ってたように単純だし、 それを単純に信じられる人たちも幸せな人たちなのはわかるけれど、 柳子にはまだ苦痛の実態がわからないのだから、 どうしても抽象的に聴こえる。
「この世の中が善人ばかりになってしまうと退屈するんじゃありませんかぁ。悪人ばかりが右往左往しているからおもしろいんだと思いますけど」
そのときふと、 皮肉に言った良三叔父のことばが脳裡に浮かんだから、 柳子はそのまま口移しにして言う。
そして言ったあとで気がつく。ああ、 そうだ。この人自身が大きな罪の意識を背負っているから神に許しを乞わなければならないのだ、 と。
「須磨子さんはご自分が罪深いことをなさってるから、 クリスチャンになられたんじゃないですかぁ」
柳子は、 須磨子の痛いところを抉ったつもりだったが、
「そうですわ。わたしは罪深い女ですから、 神に許しを乞わなければならないのです」
とあっさり彼女が認めたから、 拍子抜けしてしまう。
「そこがわたしにはわからないんですけど、 罪を犯して神に助けを求めるより、 罪を犯さないようになさったらいいと思うんですけどねぇ」
「人間は弱いものですから、 罪だとわかっていても犯してしまうのです」
「そうでしょうねぇ、 射精障害 弱いんでしょうねぇ。わたしには須磨子さんがそんなに弱い人には視えないんですけど。わたしは祈るよりも格闘します。自分の弱さや醜さと戦ってゆくほうが生活に充実感があると思うんです」
「そういう考えも傲慢なのですよ。そう思って生きられる人は幸せです。いや、 不幸ですよ」
「どちらなんですかぁ」
「どちらもです。無知の幸せと知り得たものの不幸です」
「わたしのお父さんも同じこと言ってます。クリスチャンじゃないですけど。知らぬが仏だって」
「仏と神とはちがいます。神はこの世にただお一人だけです。ほかの信仰は邪教です」
それまで黙って聴いていた龍一が、 避妊 むっとする。周章ててチヨが止めようとしたけれど遅かった。
「儂らは先祖代々、 定額山善光寺の信者ですから、 宗旨替えはしません。あそこは宗派を超越した心の広いお寺です。キリストのような自分だけが神だなんぞというほうが、 よほど傲慢で独善でしょう。柳子にもそういう心の狭い宗教は信仰させませんので、 どうぞお引き取りください」
ぴしっと龍一に言われて、 須磨子はいっしゅん顏を青くさせたが、
「ご不幸なご家庭です」
と捨て台詞を吐いて背を向けたから、
「あんたらの家庭ほどじゃない。人のことを言うより自分の家庭をまともにしなされ」
と龍一はことばを浴びせた。
「お父ちゃ、 そんねん向きになって言わなくてもいいずらに」
チヨが、 後ろから夫を引っ張る。
「変な人ねぇ」
須磨子がまだ梯子段を下り切らないうちに柳子が言ったから、 彼女の耳に届いたかもしれなかった。
「ふん、 人の家庭に不愉快を撒きにきやがって、 なにがご不幸か。ご不幸はそっちのことじゃ。夫婦がいっしょに寝ていない家庭のほうがよっぽど不幸じゃないか」
龍一は憤懣やる方なく、 独り言のようにぶつぶつ言いつづけていた。
「お父ちゃ、 いま言ったことほんとうなのぉ」
柳子が、 性欲欠乏 父の言葉尻を捉えて訊ねる。
「いま言ったことってなんだ。儂がなに言った」
龍一は自身がなにを言ったのかも覚えていなった。
「夫婦がいっしょに寝ていないって言ったじゃないのぉ」
「そんなこと言ったか」
ほんとうに覚えていないのか、 避妊薬 とぼけているのかわからなかった。
「言ったわよぉ」
「そうか、 じゃあ聴かなかったことにしろ」
「どうして聴かなかったことにするのよぉ」
「人の無責任な噂だからだ」
「まあ、 お父ちゃって勝手ねぇ、 自分が言っておいて、 わたしに聴かなかったことにしろだなんて」
「みんな自分の都合のいいように生きとるんだ」
「呆れたぁ。でも、 そういえば、 キリスト教も自分の都合のいいように捏ち上げたものだって、 良三叔父さんが言ってた」
柳子が良三の名を不用意に口にしたから、 龍一が、 ちょっと顔色を動かせたが、 なにも言わなかった。
と強い口調で言い返す。
「そういう意味ではありません。人間はみな罪深いものなのです。原罪を背負っているのです。だから常に悩み多く苦しみ悶えて生きているから神に救いを求めるのです」
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たしかにこの人は幸せな人にちがいないだろう。祈ることで救われると思っているのだから。
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「どちらなんですかぁ」
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それまで黙って聴いていた龍一が、 避妊 むっとする。周章ててチヨが止めようとしたけれど遅かった。
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「ご不幸なご家庭です」
と捨て台詞を吐いて背を向けたから、
「あんたらの家庭ほどじゃない。人のことを言うより自分の家庭をまともにしなされ」
と龍一はことばを浴びせた。
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須磨子がまだ梯子段を下り切らないうちに柳子が言ったから、 彼女の耳に届いたかもしれなかった。
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柳子が良三の名を不用意に口にしたから、 龍一が、 ちょっと顔色を動かせたが、 なにも言わなかった。
2011年11月22日星期二
抗菌薬 と苦しいときの神頼みで
それでも柳子は物好きに、 歯を磨きながら、 ずっと顏を上に向けていたから、 自身の寝巻がべったり肌にはりついて、 小さいながらも膨らみのある乳房が、 透けて見えるのには気づかなかった。
ああ、 と柳子が吐いた嘆息が、 暗がりのなかに滲んでゆく。
「柳子姉ちゃん、 お早ようさん」
背中に息がかかるほどの距離で、 春雄の声がしたから、
「きゃっ」
と叫んで、 柳子が飛び上がる。
挨拶した春雄のほうが、 びっくりして仰け反る。
「ばかっ。びっくりするじゃないの」
「ぼくのほうがびっくりしたよ。柳子姉ちゃんが、 あんまりびっくりしすぎたさかい」
「どこに隠れてたのよぉ」
柳子は、 てっきり春雄がいたずらに、 こちらを驚ろかすために隠れていたのだと思った。
「隠れてなんかいてへんで。姉ちゃんよりさきに、 ここにきてたんやけど、 姉ちゃんがあんまり気持ちよさそうに空向いてるさかい、 声かけるのん悪い思うて」
春雄は、 先に来ていたのだが、 柳子が出てくるのが視えたから、 井戸の向こう側に隠れていて、 脅かすつもりだったのだが、 暗がりでも、 そっと覗くと、 寝巻を透かして顕わになっている柳子の乳房が気になって、 視線のやり場に困っていたのだ。
春雄の視線を、 まったく柳子は感じていなかったから、
「あったかい雨って気持ちいいわねぇ」
と言いながら、 両手をいっぱいに広げて伸びをする。
薄暗がりのなかでも、 -肥満治療 柳子の乳房がいっそう盛り上がるのが、 透けて視えた。
「うん、 ええ気持ちや」
雨よりも、 柳子の乳房が顕わに見えるのを、 視線をちらちらさせて見るほうが、 春雄にはもっと気持ちのいいことだった。
柳子が目醒めて、 性感染症 雨だという隣の声を聴いたときには、 なんとなくそういう気配だなあと思った程度の、 しめやかな降りようだったが、 勝手口を出て外を窺ったときには、 もうまちがいなく大粒の雨になって、 粗雑な感じでばらばらと降っていた。その粗雑さが井戸端で歯を磨いているうちに、 徐々に密度を増して、 春雄が声をかけたときには、 ばらばらでもなく、 ぼとぼとでもなく、 ざあざあと降るようになっていた。
どんなに激しい雨でもいい、 と思う。雨が降るのをこんなにうれしいと思ったことはかつてなかった。
雨は心地よく降りつづける。雨の音だけが間断なく農場を支配する。それを前奏曲にして、 暁の幕が徐々に引き上げられてゆく。
雨が南半球の夜明けを遅らせることはあっても、 決して閉ざしてしまうことはなかった。
薄暗がりの遥かな彼方で、 もぞもぞと透かし見るようにしたあと、 そっと曙が覗き見てから、 夜の幔幕の裾を引き上げ、 いったん幕を揚げかかると、 もう我慢仕切れなくなった朝は、 急速に萌葱色の光を雨に滲ませながら横へ引いてゆき、 ここが大地と空との境目だよといいたげに、 押し広げてくる。
ここで雨が降っていても、 陽が昇るところは晴れているのだ。陽光は濡れていないし、 黒かった雨粒を真珠色に耀かせはじめる。
雨は、 すぐに上がりそうにはなかった。この大地のどのくらいの範囲が雨雲に覆われているのかしらないが、 大平原の一部だけだろうと思わせるのは、 この辺りに降っている雨の向こう側に太陽が昇ってきて、 鈍いながらも陽光の輝度を増してきているのがわかるから、 すこし離れたところは晴れていて、 炎のような太陽熱を降り注いでいるのにちがいなかった。
いつだったか、 遥かな地平の彼方で演じられていた、 そういう天候の違いを、 広い視界のなかを一駒一駒区割りにした絵のように眺めたことがあったから、 いまもそうだろうと想像する。
雨が降っているのはこの辺りだけで、 だんだん移動して行って、 つぎには丘の向こう側が降り、 こちら側は晴れてくるのかもしれなかったが、 どうぞいつまでも、 ここで降りつづいてくださいますように、 抗菌薬 と苦しいときの神頼みで、 手を合わせる気持ちになる。
雨が降っているとわかったときすぐ、 春雄くんが、 「今日は仕事休みやな」と儚い望みを吐き出したように、 性感染症 ほんとうに農作業が休みになってくれたら、 と柳子も拝む気持ちになっていたのだ。
ああ、 と柳子が吐いた嘆息が、 暗がりのなかに滲んでゆく。
「柳子姉ちゃん、 お早ようさん」
背中に息がかかるほどの距離で、 春雄の声がしたから、
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と叫んで、 柳子が飛び上がる。
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春雄の視線を、 まったく柳子は感じていなかったから、
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雨は心地よく降りつづける。雨の音だけが間断なく農場を支配する。それを前奏曲にして、 暁の幕が徐々に引き上げられてゆく。
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性交痛塗り薬 はじめて降る雨らしい雨だった
「雨や、 お父ちゃん。雨降ってるで」
隣から春雄の弾んだ声が、 よろこびを如実に顕わにして聴こえてくる。
柳子自身は、 なんの物音で目醒めたのかわからなくて、 まだぼんやりしている頭のなかで考えているときにそれを聴いたから、 夢のなかでどこかの水道の蛇口から水が洩れている音を延々と聴いていたのは、 雨の音だったのかと気づいて、 こんな水道もないところで、 どうして蛇口から水が洩れている音を眠っているなかで感覚していたのだろうか、 とおかしくなる。
春雄の声は弾んではいても、 乾燥している木の葉のようではなく、 水を含んだゴム鞠が跳ねてくるように聴こえた。
まだ外は昏い。朝の気配が部屋のなかに浸透してきていなかった。しかし、 それは陽が昇っていないから昏いのか、 厚い黒雲にどっぷりと覆われているから昏いのかはわからない。
何ん時ごろだろう。柳子は手探りで枕元の腕時計をまさぐって、 手に触れたとたんに時計が床に落ちてしまって、 舌打ちをする。
「どれどれ」
隣で小森のおじさんが言って、 女性精力剤 勝手口のほうに出てゆく様子が、 暗がりのなかで感覚できる。
床に落とした時計はそのままにして、 柳子はベッドから起きてゆこうかどうしようか、 と思案している。
炊事場で母がもう、 味噌汁を作っている匂いが、 こちらまで流れてくる。
「こら本格的な雨やがな」
感慨深げな茂の声は、 まだベッドの上でぐずぐずしている柳子を引っ張り起こす力があった。
柳子ひとりではなく、 隣の家族全員もそうらしく、 がたがたと騒がしく起きて勝手口のほうに行く物音がつづいた。
みんなが雨に感激する心境は、 柳子自身がそうだから、 よく納得できる。
ブラジルにきてから、 性交痛塗り薬 はじめて降る雨らしい雨だった。毎日毎日、 陽照りがつづいて、 「炎熱地獄てこのことだすな」と、 ダイエット 茂がなんどか眩暈を起こしてぶっ倒れそうになったと言うほどだったのだから、 感慨一入なのはとうぜんだった。
「去年から今年にかけて長い旱魃だった」と、 通訳の熊野が入植したころに言っていたから、 よほど酷い炎天つづきにちがいなかった。
まだベッドでくずくずしている柳子には見えなかったが、 大地も久しぶりの雨をごくごくと呑み込んでいることだろう、 と童話的に想像する。
ああ、 やれやれ。これで罅割れそうだった皮膚も救われるだろう。かさかさになっていた唇にも艶が戻るだろう。なにはおいても、 酷暑のなかでの農作業をしなくてよくなったということだけで、 生き返った気分になる。
だけど、 おかしいなあ、 ブラジルの雨季には、 夕方ざっと降って、 さっと上がるスコールがきて、 「あと、 すうっとするけ」と熊野も言っていたのだけれど。
そういえば、 遠い風景として、 そんな光景を眺めていたのに、 どうしてここだけは、 朝からびしょびしょ、 日本の長雨のような降り方をするのだろう。
「お父ちゃん、 これやったら仕事休みになるのんちゃうか」
春雄の浮き浮きした様子が、 見えるような声だった。あっ、 そうだ。と柳子もそれを思って急いで寝室を飛び出す。
「まあ、 柳ちゃ、 どうしたんな」
チヨがびっくりするほどの勢いだった。
「お母ちゃ、 仕事休みになるってぇ」
「さあ、 どうずらかね」
「でも朝から雨降ってるのよ、 仕事できないんじゃないぃ」
「さあ、 どうずらね」
「なによ、 お母ちゃ、 さあどうずらねばかり言って、 どうなのよぉ」
「そんなこと、 あたしにゃわからなんに」
反応の鈍い母を相手にしているよりは、 まず自分自身の眼で確かめなければと思って、 ダイエット 柳子は勝手口から、 まだ昏い外を透かし見る。
しかし、 今日はコーヒー畑の黒々と盛り上がった影も見えないほど、 べったりとした暗さだった。
たとえ畑が見えたところで、 仕事があるのかないのかなど、 わかろうはずはなかったのだけれど。
チヨが雨のなかを、 井戸端まで水を汲みに行く。
雨が降りだしたのを知っているのか、 龍一は起きてこない。
とにかく朝から、 ぼとぼと、 歇みそうにもない雨が降っているのだから、 おそらく仕事は休みになるだろう、 と柳子は勝手に決めて、 そう決めたとたんに躰が鈍るのではなく、 しゃんとしてきて、 目蓋がはっきりと眠りから醒めたからふしぎだった。
いま雨が降るということは、 絶対的に言って、 無条件に恵みの雨なのだ。そう称賛してあげていい。おお、 雨よ。母なる雨よ。柳子の感性は、 いつも物語り的であり、 芝居がかった表現で思考する。
こんなうれしいことが、 またとあろうか。ひとりでに躰が浮き上がるほどだった。
暗がりのなかを、 大きなバケツを提げて、 小さいチヨがびっしょり濡れて戻ってくる。
「お母ちゃ、 ずいぶん手間取ってたじゃないの」
「ぬくといもんな、 この雨。お湯が降ってるみたいだに」
チヨが、 変に感激したような顔をしている。
亜熱帯の雨だからぬくといというわけではないだろうと思うけれど、 いつも早朝には、 夜のうちに気温が下がっていて、 空気がひんやりしているのだから、 雨が温いというのは特殊な現象に思われる。
そういえば、 いつもの朝とちがって、 今朝は空気も生暖かいようだった。
「そうぉ、 じゃあわたしも井戸端で顏洗ってこよう」
「水汲んできたに」
「ぬくとい雨のなかで、 歯を磨きたいのよ」
「おかしな子だな」
「お母ちゃだって、 温い雨浴びてきたんじゃないのぉ」
「わたしは、 仕方なくしたのさよ」
「じゃあ、 わたしも仕方なく、 雨の下で歯を磨くことにするわ」
母が言うことのどこまでが真実か、 確かめたいと思う。生温い雨が気持ちのいいはずはないと思ったのだけれど、 雨に打たれてみるとほんとうに、 なんとなく、 うっとりするような快い感触だった。雨は冷たいものという先入観念があったから、 よけいにそれを感覚するのだろうか。
柳子は、 ひたすら暗くて見えない空を仰いで歩く。そして、 まともに顏を叩く雨粒の大きなのにおどろく。
日本で、 こんなに大きな雨粒を見たことはなかった。ぼたぼたと牡丹雪のような大きさに思える。しかし、 雪とはぜんぜんちがう痛いほどの衝撃だった。
隣から春雄の弾んだ声が、 よろこびを如実に顕わにして聴こえてくる。
柳子自身は、 なんの物音で目醒めたのかわからなくて、 まだぼんやりしている頭のなかで考えているときにそれを聴いたから、 夢のなかでどこかの水道の蛇口から水が洩れている音を延々と聴いていたのは、 雨の音だったのかと気づいて、 こんな水道もないところで、 どうして蛇口から水が洩れている音を眠っているなかで感覚していたのだろうか、 とおかしくなる。
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「どれどれ」
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柳子ひとりではなく、 隣の家族全員もそうらしく、 がたがたと騒がしく起きて勝手口のほうに行く物音がつづいた。
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「去年から今年にかけて長い旱魃だった」と、 通訳の熊野が入植したころに言っていたから、 よほど酷い炎天つづきにちがいなかった。
まだベッドでくずくずしている柳子には見えなかったが、 大地も久しぶりの雨をごくごくと呑み込んでいることだろう、 と童話的に想像する。
ああ、 やれやれ。これで罅割れそうだった皮膚も救われるだろう。かさかさになっていた唇にも艶が戻るだろう。なにはおいても、 酷暑のなかでの農作業をしなくてよくなったということだけで、 生き返った気分になる。
だけど、 おかしいなあ、 ブラジルの雨季には、 夕方ざっと降って、 さっと上がるスコールがきて、 「あと、 すうっとするけ」と熊野も言っていたのだけれど。
そういえば、 遠い風景として、 そんな光景を眺めていたのに、 どうしてここだけは、 朝からびしょびしょ、 日本の長雨のような降り方をするのだろう。
「お父ちゃん、 これやったら仕事休みになるのんちゃうか」
春雄の浮き浮きした様子が、 見えるような声だった。あっ、 そうだ。と柳子もそれを思って急いで寝室を飛び出す。
「まあ、 柳ちゃ、 どうしたんな」
チヨがびっくりするほどの勢いだった。
「お母ちゃ、 仕事休みになるってぇ」
「さあ、 どうずらかね」
「でも朝から雨降ってるのよ、 仕事できないんじゃないぃ」
「さあ、 どうずらね」
「なによ、 お母ちゃ、 さあどうずらねばかり言って、 どうなのよぉ」
「そんなこと、 あたしにゃわからなんに」
反応の鈍い母を相手にしているよりは、 まず自分自身の眼で確かめなければと思って、 ダイエット 柳子は勝手口から、 まだ昏い外を透かし見る。
しかし、 今日はコーヒー畑の黒々と盛り上がった影も見えないほど、 べったりとした暗さだった。
たとえ畑が見えたところで、 仕事があるのかないのかなど、 わかろうはずはなかったのだけれど。
チヨが雨のなかを、 井戸端まで水を汲みに行く。
雨が降りだしたのを知っているのか、 龍一は起きてこない。
とにかく朝から、 ぼとぼと、 歇みそうにもない雨が降っているのだから、 おそらく仕事は休みになるだろう、 と柳子は勝手に決めて、 そう決めたとたんに躰が鈍るのではなく、 しゃんとしてきて、 目蓋がはっきりと眠りから醒めたからふしぎだった。
いま雨が降るということは、 絶対的に言って、 無条件に恵みの雨なのだ。そう称賛してあげていい。おお、 雨よ。母なる雨よ。柳子の感性は、 いつも物語り的であり、 芝居がかった表現で思考する。
こんなうれしいことが、 またとあろうか。ひとりでに躰が浮き上がるほどだった。
暗がりのなかを、 大きなバケツを提げて、 小さいチヨがびっしょり濡れて戻ってくる。
「お母ちゃ、 ずいぶん手間取ってたじゃないの」
「ぬくといもんな、 この雨。お湯が降ってるみたいだに」
チヨが、 変に感激したような顔をしている。
亜熱帯の雨だからぬくといというわけではないだろうと思うけれど、 いつも早朝には、 夜のうちに気温が下がっていて、 空気がひんやりしているのだから、 雨が温いというのは特殊な現象に思われる。
そういえば、 いつもの朝とちがって、 今朝は空気も生暖かいようだった。
「そうぉ、 じゃあわたしも井戸端で顏洗ってこよう」
「水汲んできたに」
「ぬくとい雨のなかで、 歯を磨きたいのよ」
「おかしな子だな」
「お母ちゃだって、 温い雨浴びてきたんじゃないのぉ」
「わたしは、 仕方なくしたのさよ」
「じゃあ、 わたしも仕方なく、 雨の下で歯を磨くことにするわ」
母が言うことのどこまでが真実か、 確かめたいと思う。生温い雨が気持ちのいいはずはないと思ったのだけれど、 雨に打たれてみるとほんとうに、 なんとなく、 うっとりするような快い感触だった。雨は冷たいものという先入観念があったから、 よけいにそれを感覚するのだろうか。
柳子は、 ひたすら暗くて見えない空を仰いで歩く。そして、 まともに顏を叩く雨粒の大きなのにおどろく。
日本で、 こんなに大きな雨粒を見たことはなかった。ぼたぼたと牡丹雪のような大きさに思える。しかし、 雪とはぜんぜんちがう痛いほどの衝撃だった。
不感症 鷹彦の鬱病はそれ以前からあったのだった
「お祝いですから、 ひと滴だけでも」
「それじゃあ、 本年もみなさんが健康でありますように」
龍一が、 盃を上げると、 一同がそれに倣って盃を捧げ持つ。
龍一が盃に口をつけると、 みなも口をつける。
季夫は何も考えずに飲んでしまって、 ぺっ、 と吐き出す。
タツが周章てて季夫の背をさする。
如月は少し口をつけただけで、 口に含まなかったけれど、 口を歪めてタツのほうを見上げた。
「飲まんかてよろし、 お祝いやさかい真似だけしたらよろしますねん」
タツがそう言ったから、 如月は安心して盃をテーブルのうえに返す。
柳子が、 チヨから言われて、 昨夜のうちに作ってあった祝儀袋を、 こどもたちに配る。
「うわっ、 お年玉や。おおきに」
春雄が飛び上がるようにしてよろこぶ。
季夫と如月がきょとんとしているのを見て、
「はよう、 お礼言いなはらんかいな」
とタツは言ったが、 彼女の眸には、 明らかに嫉妬の色が揺らめいていた。
チヨが、 豪華な椀で出した雑煮は、 見ただけで庶民の食べ物とは思えないほどだった。
「急に思いついて拵えたものですから揃うておりませんが、 どうぞおせち料理を取ってください」
チヨが言いながら、 九谷焼の皿を配る。
とうてい間に合わせに急いで作ったものとは思えない料理が、 輪島の重箱に体裁よく入れられていた。
工夫をしたあとが歴然としている乾し鱈を戻して煮込んだ甘煮。金平牛蒡や雑魚の田作もある。潰したばかりの新鮮な鶏肉と胡瓜の味噌和えなどは、 いかにも上品に見えた。
先ほどタツの眸の奥にゆらめいた、 嫉妬の炎が、 小火に終わらず燃え上がった。
「いやあ、 もうことばがおまへん。内藤はんとこは、 みんな手品師だすな。こんなもんどこから集めてきはりましたんだす。奥さんかて、 なんとかかんとか呪文唱えて拵えはったんちがいますか」
茂は軽口を叩きながら、 涙ぐんでしまう。
せっかくの座が白けてしまいそうになるのを気遣って、
「お父ちゃん」
と秋子がなにか言おうとして、 こちらも鼻を詰まらせてしまう。
小森の家族は、 全員が感激しやすい性質な
のだ。
「お父ちゃん、 お屠蘇に洟水垂らしたら塩辛なってしまうやんけ」
春雄がその場の空気を掻き混ぜて、 なんとか救いにかかる。
さすが春雄くんや、 と柳子はこの子の機知や頓智には、 いつも感心させられる。
「暑い正月やさかいな、 洟水やあらへん汗だすがな。いや、 たとえ涙やったとしても、 熱い涙でっせ。南回帰線の上突っ走る感激の涙だす」
泣き笑いの顏になって茂が言い返すと、
「活動写真の弁士みたいなこと言いはって、 なんだすのん」
とタツが漫才夫婦の本領を発揮して言ったから、 哄笑が起こって、 ちょっと白けかかった座がもとの明るさに戻る。
龍一と茂が、 ほろ酔い気分になって、 互いの妻に差し障りのない、 もっと若いときの悪戯話に花咲かせるようになると、 チヨとタツが、 かつてなかった打ち解けようで、 こちらも夫に差し障りのない愚痴をこぼしにかかる。
柳子や秋子らは、 ブラジルにきてからはじめて、 トランプ遊びのばば抜きをして、 笑い興じていた。
鱈腹食った如月と季夫が、 裸の腹にタオル・ケットをかけただけの恰好で、 ぐっすり昼寝をしている上に、 大きなバナナの葉の影が揺れていて、 いかにも涼しそうに見え、
「ほんまにブラジルの正月だすな」
タツが感慨深げに言う声が、 ぼうっと外の熱気のなかに溶けてゆき、 蒸発する様子が見えるようだった。
川田鷹彦は、 新聞を読ませてもらうだけではなく、 親身に心配してくれる薬局の主人横山だけには、 何を措いても新年の挨拶をしておかなければならないと思って、 出掛ける。
「そんな気ぃば遣わんでもよかよ。ぼくはブラジル人だから、 日本の風習なぞ知らんけに」
日本人との交際よりも、 妻の側のイタリア人との交際のほうを密にしているという横山だった。
もうすでにブラジルには、 日本人の顔をしたブラジル人もいたんだ、 と鷹彦は再認識して、 日本を捨ててきたと自覚しているはずのみずからが、 日本の風習にこだわっていることに苦笑する。
「せっかくきてもらって悪いけど、 ぼくのところはクリスマスのフェスタは盛大にするけど、 正月のフェスタはしないしね、 ぼくの嫁さん、 こども連れて親のところに帰ってしもて、 ぼく新年早々からソルテイロじゃけ」
横山はそう言って、 明るく笑う。
この人はいつも屈託のない人だなあ、 と感心して、 なんでも悲観的に考えてしまうみずからを意識させられる。
「そうですか、 たまに独身を楽しむのもいいんじゃないですか」
鷹彦は、 横山の明るさに引き摺られて、 少しは憂欝さを緩めなければいけないと思う。
「楽しいことないよね、 みなが休む日にはいっしょに休んだほうがええように、 この頃思うばってん。因果な商売はじめたから年中休みなしなのよね」
「ほかに店員はおかないんですか」
「あ、 あんた、 ここの店員になりたい」
大学出の店員なぞ考えられなかったが、 鷹彦の病状を心配していた横山は、 畑で働くよりはここにおいたほうがいいだろうと、 とっさに口が滑ったのだけれど、
「いやいや、 そんなつもりは毛頭ありませんけど、 避妊薬 夫婦のどちらかが店番しなければならないのもたいへんだなあと思って」
と鷹彦が言ったから、 横山はやれやれと思う。
「嫁さんの兄弟がときどき手伝いにきてくれるから、 骨休めはできるんだけどね、 媚薬女性用精力剤 店員はおけないの」
「どうして、 そんな規則があるんですか」
「規則やないの。ぼくたちどちらもやきもち妬きで、 女の店員入れると嫁さんがやきもち妬くし、 男の店員いれるとぼくがやきもち妬くし」
横山の開けっ広げな話に、 鷹彦は笑ってしまう。
そこに、 ガイジンの女が駆け込んできて、 腹痛を訴える。
「ほれね、 これだからね」
横山は日本語で言って、 肩を竦めて、 女を薬局の一郭に作ってある診察室に入らせる。
「クリスマスに変なソーセージ食べすぎたんだろ、 腹痛だか腰痛だかわかったもんじゃないからなあ」
鷹彦にも聴かすつもりなのか、 横山は大きな声で女をからかいながら、 腹を押さえているようだった。
「アキイ、 アキイ」
女の患部を探している声がする。
横山夫婦が嫉妬深いというのは、 こちらを笑わせるためにつくった話だろう、 と鷹彦は思う。ほんとうに嫉妬深いのなら、 夫を独りにして実家に帰れるはずはないだろう。こういうふうに女が自由に出入りして、 人から怪しまれない環境なのだから、 浮気をするつもりなら容易にできる状態を、 わざわざつくることなどできるものではないのだから。
まあ、 横山夫婦にかぎらず、 どこの世界でも、 男女が性にまつわる疑心暗鬼のために、 戦々恐々となっていることだけは事実なのだけれど。
そんなことを思って、 かえって人間社会の生臭さと微笑ましさに、 なんとなく心を暖めながら、 横山が出してくれてあった新聞を広げはじめると、 十二月二十四日付けの『聖州新報』の二面に、 せっかく緩めた緊張をまた捻り上げるような記事があった。
「植民地の不統制から小學校遂に閉鎖 退植者續出の共榮植民地」という見出し文字の内容は、 「日本語の先生になればどうか」と横山から奨められて、 鷹彦が、 日本人の心の狭さを危惧し、 君子危うきに近寄らず、 だと躊躇した理由が、 そのままの形で表面化していることを報じたものだった。
あのとき鷹彦は、 日本語学校の先生という職業には誘惑を覚えたのだけれど、 いま、 先見の明があった、 と自分自身の臆病さを称賛する。
「パ延長線フェルナン・ディアス驛共榮植民地では學校問題を中心として常に先生對植民者の間にゴタゴタが絶へず三年間に三人も先生が交代するといふ工合で揉めてゐるが、 これで(は)こどもの教育さへ滿足に出來ぬと早くも同地に見限りをつけて退耕する者も多いと云われてゐる。之は植民者の意見が常に不一致の爲來る先生達の缺点を指摘してその度に更迭するといふ風で學務委員も有名無實、 植民者が勝手に振る舞ふ爲屡々休校した事すらあるが現在では全く閉鎖の形にあり子弟教育に甚だ面白からざる傾向として心ある植民者を悲しませてゐるといふ」
まさに鷹彦が胸撫で下ろすのも宜なるかなという、 愚かな事件だった。
なんとも御し難い輩の多いことか、 と鷹彦は改めて嘆息する。
こんな心のなかを隙間風が通るような話題と比べると、 横山夫婦の嫉妬深いという生臭い話がなんとなく暖かく感じられるほどだった。
その上、 ご丁寧にも、 日本人の愚かな村社会根性を嘲笑するかのような、 皮肉な記事が眼についた。
十二月二十七日付けの新聞で、 「聖市 リオの諸新聞一齊に外國人經營の小學校問題を論議 新移民法には嚴重な規定挿入か」という眉を顰めざるを得ない報道だった。
しかし、 これは共栄植民地の学校閉鎖に至った紛争を原因とするものでは全くなくて、 ヴァルガス大統領が強力に推進するブラジルの民族主義に阿るものの発言で、 性欲欠乏症 ブラジル国内に外国移民が持ち込む外国の民族意識への反撥から起こっている問題なのだ。
おそらく、 と鷹彦は推測する。この外国人学校への干渉は、 これを火種として燃え上がり、 早晩実際に起こり得る問題だろう、 と。
そうすれば、 同胞のなかで醜い争いを起こした挙げ句の学校閉鎖ではなく、 大きな政治的圧力で閉鎖させられる憂き目に合う日が早晩くるにちがいなかった。そして、 もしもそういう事態になるとすれば、 それは学校問題だけに留まる事柄ではないはずだった。
ヴァルガス大統領の偏狭な民族主義によって、 外国人移民への圧迫が増大し、 暗く憂欝な日々が現出することになるだろう、 と懸念するに至る。
横山に礼を言って、 新聞を返し、 外に出ると、 まるで鷹彦の心象風景ででもあるかのような、 まっ黒い雲が、 天を這い回る龍になってうねっていた。何頭もの龍が雌雄を決する闘争をしている感じがした。絡み合い縺れ合いする黒い雲は、 つぎつぎに細胞分裂をして勢力範囲を拡大してくる。それでもまだ雨に変身して大地を襲うことをせず、 地上のものたちに恐怖感を与えて楽しんでいるふうだった。
視線を転ずると、 まだところどころに青空が残っていて、 それは恐竜の目玉になって光っている。
雨季は確実に迫っていた。
気圧がどんどん凝縮してきて、 頭を締め付けられる圧迫感があった。
鷹彦は、 またここで鬱病が再発するのを懼れる。
あれは長い長い煩悶の歳月だった。大学を出てから、 郷里に帰って小学校の教師になる話に頭を悩ませているときに発病した鬱病だった。
尋彦叔父は、 構成家族をつくるために鷹彦に救いを求めたように言うけれど、 ほんとうは鷹彦のほうが憂欝な状況から救われたくてブラジル移民のなかに逃げ込んだのだ。
表面的には嫂との不倫からの逃亡になっていたのだが、 不感症 鷹彦の鬱病はそれ以前からあったのだった。
嫂との関係は、 二人を引き離すことで解決できても、 鬱病は、 ブラジルに逃げてきたからといって解決できる性質のものではなかった。
鷹彦にとって、 こういう季節はもっとも苦手だった。心臓の動悸が不規則になり、 弱まったり強くなったり、 途切れがちになったり速くなったりするから、 発作が起こると、 じっと立っておられなくなる。
そんな躰の不調は、 もちろん鷹彦の神経質な性格も影響するのだが、 自分自身の力の及ばない社会情勢や世界的な状況にまで気を揉む、 思想的な煩悶も大きく関係するのに違いなかった。
いま頭上で闘争している竜巻雲の様相に似た戦雲が、 世界に拡大しそうな形勢だった。
新聞報道によると、 日本が支那を侵略する戦争を起こして、 底無し沼に嵌まり込んで行く一方で、 欧州でも風雲急を告げる情勢になっているという。
ブラジルが戦火に巻き込まれることまで考えられなかったが、 ヴァルガス大統領の性格は、 その危険性を多分に含んでいるだろう。こんな多民族社会で敵味方に別れたときの混乱を想像すると、 鷹彦は、 ひ弱い個人の意志が踏み躙られる日が、 すぐ目前に迫っているかのように恐怖を覚える。
ああ、 世界のどこにも、 俺の求める平安はなかったのだ、 と悲観論が先に立つ。生きていることが嫌になる。
まだ遠い風景だと観ていた雨季が、 どんどん迫って、 鷹彦はそれに巻き込まれ、 ずぶ濡れになり、 よれよれに崩れてゆく自身の姿を視ている自分自身を幻影に描く。
鷹彦の視ている幻影を、 より鮮明にする稲妻が、 昧い空間を貫き通す。
「それじゃあ、 本年もみなさんが健康でありますように」
龍一が、 盃を上げると、 一同がそれに倣って盃を捧げ持つ。
龍一が盃に口をつけると、 みなも口をつける。
季夫は何も考えずに飲んでしまって、 ぺっ、 と吐き出す。
タツが周章てて季夫の背をさする。
如月は少し口をつけただけで、 口に含まなかったけれど、 口を歪めてタツのほうを見上げた。
「飲まんかてよろし、 お祝いやさかい真似だけしたらよろしますねん」
タツがそう言ったから、 如月は安心して盃をテーブルのうえに返す。
柳子が、 チヨから言われて、 昨夜のうちに作ってあった祝儀袋を、 こどもたちに配る。
「うわっ、 お年玉や。おおきに」
春雄が飛び上がるようにしてよろこぶ。
季夫と如月がきょとんとしているのを見て、
「はよう、 お礼言いなはらんかいな」
とタツは言ったが、 彼女の眸には、 明らかに嫉妬の色が揺らめいていた。
チヨが、 豪華な椀で出した雑煮は、 見ただけで庶民の食べ物とは思えないほどだった。
「急に思いついて拵えたものですから揃うておりませんが、 どうぞおせち料理を取ってください」
チヨが言いながら、 九谷焼の皿を配る。
とうてい間に合わせに急いで作ったものとは思えない料理が、 輪島の重箱に体裁よく入れられていた。
工夫をしたあとが歴然としている乾し鱈を戻して煮込んだ甘煮。金平牛蒡や雑魚の田作もある。潰したばかりの新鮮な鶏肉と胡瓜の味噌和えなどは、 いかにも上品に見えた。
先ほどタツの眸の奥にゆらめいた、 嫉妬の炎が、 小火に終わらず燃え上がった。
「いやあ、 もうことばがおまへん。内藤はんとこは、 みんな手品師だすな。こんなもんどこから集めてきはりましたんだす。奥さんかて、 なんとかかんとか呪文唱えて拵えはったんちがいますか」
茂は軽口を叩きながら、 涙ぐんでしまう。
せっかくの座が白けてしまいそうになるのを気遣って、
「お父ちゃん」
と秋子がなにか言おうとして、 こちらも鼻を詰まらせてしまう。
小森の家族は、 全員が感激しやすい性質な
のだ。
「お父ちゃん、 お屠蘇に洟水垂らしたら塩辛なってしまうやんけ」
春雄がその場の空気を掻き混ぜて、 なんとか救いにかかる。
さすが春雄くんや、 と柳子はこの子の機知や頓智には、 いつも感心させられる。
「暑い正月やさかいな、 洟水やあらへん汗だすがな。いや、 たとえ涙やったとしても、 熱い涙でっせ。南回帰線の上突っ走る感激の涙だす」
泣き笑いの顏になって茂が言い返すと、
「活動写真の弁士みたいなこと言いはって、 なんだすのん」
とタツが漫才夫婦の本領を発揮して言ったから、 哄笑が起こって、 ちょっと白けかかった座がもとの明るさに戻る。
龍一と茂が、 ほろ酔い気分になって、 互いの妻に差し障りのない、 もっと若いときの悪戯話に花咲かせるようになると、 チヨとタツが、 かつてなかった打ち解けようで、 こちらも夫に差し障りのない愚痴をこぼしにかかる。
柳子や秋子らは、 ブラジルにきてからはじめて、 トランプ遊びのばば抜きをして、 笑い興じていた。
鱈腹食った如月と季夫が、 裸の腹にタオル・ケットをかけただけの恰好で、 ぐっすり昼寝をしている上に、 大きなバナナの葉の影が揺れていて、 いかにも涼しそうに見え、
「ほんまにブラジルの正月だすな」
タツが感慨深げに言う声が、 ぼうっと外の熱気のなかに溶けてゆき、 蒸発する様子が見えるようだった。
川田鷹彦は、 新聞を読ませてもらうだけではなく、 親身に心配してくれる薬局の主人横山だけには、 何を措いても新年の挨拶をしておかなければならないと思って、 出掛ける。
「そんな気ぃば遣わんでもよかよ。ぼくはブラジル人だから、 日本の風習なぞ知らんけに」
日本人との交際よりも、 妻の側のイタリア人との交際のほうを密にしているという横山だった。
もうすでにブラジルには、 日本人の顔をしたブラジル人もいたんだ、 と鷹彦は再認識して、 日本を捨ててきたと自覚しているはずのみずからが、 日本の風習にこだわっていることに苦笑する。
「せっかくきてもらって悪いけど、 ぼくのところはクリスマスのフェスタは盛大にするけど、 正月のフェスタはしないしね、 ぼくの嫁さん、 こども連れて親のところに帰ってしもて、 ぼく新年早々からソルテイロじゃけ」
横山はそう言って、 明るく笑う。
この人はいつも屈託のない人だなあ、 と感心して、 なんでも悲観的に考えてしまうみずからを意識させられる。
「そうですか、 たまに独身を楽しむのもいいんじゃないですか」
鷹彦は、 横山の明るさに引き摺られて、 少しは憂欝さを緩めなければいけないと思う。
「楽しいことないよね、 みなが休む日にはいっしょに休んだほうがええように、 この頃思うばってん。因果な商売はじめたから年中休みなしなのよね」
「ほかに店員はおかないんですか」
「あ、 あんた、 ここの店員になりたい」
大学出の店員なぞ考えられなかったが、 鷹彦の病状を心配していた横山は、 畑で働くよりはここにおいたほうがいいだろうと、 とっさに口が滑ったのだけれど、
「いやいや、 そんなつもりは毛頭ありませんけど、 避妊薬 夫婦のどちらかが店番しなければならないのもたいへんだなあと思って」
と鷹彦が言ったから、 横山はやれやれと思う。
「嫁さんの兄弟がときどき手伝いにきてくれるから、 骨休めはできるんだけどね、 媚薬女性用精力剤 店員はおけないの」
「どうして、 そんな規則があるんですか」
「規則やないの。ぼくたちどちらもやきもち妬きで、 女の店員入れると嫁さんがやきもち妬くし、 男の店員いれるとぼくがやきもち妬くし」
横山の開けっ広げな話に、 鷹彦は笑ってしまう。
そこに、 ガイジンの女が駆け込んできて、 腹痛を訴える。
「ほれね、 これだからね」
横山は日本語で言って、 肩を竦めて、 女を薬局の一郭に作ってある診察室に入らせる。
「クリスマスに変なソーセージ食べすぎたんだろ、 腹痛だか腰痛だかわかったもんじゃないからなあ」
鷹彦にも聴かすつもりなのか、 横山は大きな声で女をからかいながら、 腹を押さえているようだった。
「アキイ、 アキイ」
女の患部を探している声がする。
横山夫婦が嫉妬深いというのは、 こちらを笑わせるためにつくった話だろう、 と鷹彦は思う。ほんとうに嫉妬深いのなら、 夫を独りにして実家に帰れるはずはないだろう。こういうふうに女が自由に出入りして、 人から怪しまれない環境なのだから、 浮気をするつもりなら容易にできる状態を、 わざわざつくることなどできるものではないのだから。
まあ、 横山夫婦にかぎらず、 どこの世界でも、 男女が性にまつわる疑心暗鬼のために、 戦々恐々となっていることだけは事実なのだけれど。
そんなことを思って、 かえって人間社会の生臭さと微笑ましさに、 なんとなく心を暖めながら、 横山が出してくれてあった新聞を広げはじめると、 十二月二十四日付けの『聖州新報』の二面に、 せっかく緩めた緊張をまた捻り上げるような記事があった。
「植民地の不統制から小學校遂に閉鎖 退植者續出の共榮植民地」という見出し文字の内容は、 「日本語の先生になればどうか」と横山から奨められて、 鷹彦が、 日本人の心の狭さを危惧し、 君子危うきに近寄らず、 だと躊躇した理由が、 そのままの形で表面化していることを報じたものだった。
あのとき鷹彦は、 日本語学校の先生という職業には誘惑を覚えたのだけれど、 いま、 先見の明があった、 と自分自身の臆病さを称賛する。
「パ延長線フェルナン・ディアス驛共榮植民地では學校問題を中心として常に先生對植民者の間にゴタゴタが絶へず三年間に三人も先生が交代するといふ工合で揉めてゐるが、 これで(は)こどもの教育さへ滿足に出來ぬと早くも同地に見限りをつけて退耕する者も多いと云われてゐる。之は植民者の意見が常に不一致の爲來る先生達の缺点を指摘してその度に更迭するといふ風で學務委員も有名無實、 植民者が勝手に振る舞ふ爲屡々休校した事すらあるが現在では全く閉鎖の形にあり子弟教育に甚だ面白からざる傾向として心ある植民者を悲しませてゐるといふ」
まさに鷹彦が胸撫で下ろすのも宜なるかなという、 愚かな事件だった。
なんとも御し難い輩の多いことか、 と鷹彦は改めて嘆息する。
こんな心のなかを隙間風が通るような話題と比べると、 横山夫婦の嫉妬深いという生臭い話がなんとなく暖かく感じられるほどだった。
その上、 ご丁寧にも、 日本人の愚かな村社会根性を嘲笑するかのような、 皮肉な記事が眼についた。
十二月二十七日付けの新聞で、 「聖市 リオの諸新聞一齊に外國人經營の小學校問題を論議 新移民法には嚴重な規定挿入か」という眉を顰めざるを得ない報道だった。
しかし、 これは共栄植民地の学校閉鎖に至った紛争を原因とするものでは全くなくて、 ヴァルガス大統領が強力に推進するブラジルの民族主義に阿るものの発言で、 性欲欠乏症 ブラジル国内に外国移民が持ち込む外国の民族意識への反撥から起こっている問題なのだ。
おそらく、 と鷹彦は推測する。この外国人学校への干渉は、 これを火種として燃え上がり、 早晩実際に起こり得る問題だろう、 と。
そうすれば、 同胞のなかで醜い争いを起こした挙げ句の学校閉鎖ではなく、 大きな政治的圧力で閉鎖させられる憂き目に合う日が早晩くるにちがいなかった。そして、 もしもそういう事態になるとすれば、 それは学校問題だけに留まる事柄ではないはずだった。
ヴァルガス大統領の偏狭な民族主義によって、 外国人移民への圧迫が増大し、 暗く憂欝な日々が現出することになるだろう、 と懸念するに至る。
横山に礼を言って、 新聞を返し、 外に出ると、 まるで鷹彦の心象風景ででもあるかのような、 まっ黒い雲が、 天を這い回る龍になってうねっていた。何頭もの龍が雌雄を決する闘争をしている感じがした。絡み合い縺れ合いする黒い雲は、 つぎつぎに細胞分裂をして勢力範囲を拡大してくる。それでもまだ雨に変身して大地を襲うことをせず、 地上のものたちに恐怖感を与えて楽しんでいるふうだった。
視線を転ずると、 まだところどころに青空が残っていて、 それは恐竜の目玉になって光っている。
雨季は確実に迫っていた。
気圧がどんどん凝縮してきて、 頭を締め付けられる圧迫感があった。
鷹彦は、 またここで鬱病が再発するのを懼れる。
あれは長い長い煩悶の歳月だった。大学を出てから、 郷里に帰って小学校の教師になる話に頭を悩ませているときに発病した鬱病だった。
尋彦叔父は、 構成家族をつくるために鷹彦に救いを求めたように言うけれど、 ほんとうは鷹彦のほうが憂欝な状況から救われたくてブラジル移民のなかに逃げ込んだのだ。
表面的には嫂との不倫からの逃亡になっていたのだが、 不感症 鷹彦の鬱病はそれ以前からあったのだった。
嫂との関係は、 二人を引き離すことで解決できても、 鬱病は、 ブラジルに逃げてきたからといって解決できる性質のものではなかった。
鷹彦にとって、 こういう季節はもっとも苦手だった。心臓の動悸が不規則になり、 弱まったり強くなったり、 途切れがちになったり速くなったりするから、 発作が起こると、 じっと立っておられなくなる。
そんな躰の不調は、 もちろん鷹彦の神経質な性格も影響するのだが、 自分自身の力の及ばない社会情勢や世界的な状況にまで気を揉む、 思想的な煩悶も大きく関係するのに違いなかった。
いま頭上で闘争している竜巻雲の様相に似た戦雲が、 世界に拡大しそうな形勢だった。
新聞報道によると、 日本が支那を侵略する戦争を起こして、 底無し沼に嵌まり込んで行く一方で、 欧州でも風雲急を告げる情勢になっているという。
ブラジルが戦火に巻き込まれることまで考えられなかったが、 ヴァルガス大統領の性格は、 その危険性を多分に含んでいるだろう。こんな多民族社会で敵味方に別れたときの混乱を想像すると、 鷹彦は、 ひ弱い個人の意志が踏み躙られる日が、 すぐ目前に迫っているかのように恐怖を覚える。
ああ、 世界のどこにも、 俺の求める平安はなかったのだ、 と悲観論が先に立つ。生きていることが嫌になる。
まだ遠い風景だと観ていた雨季が、 どんどん迫って、 鷹彦はそれに巻き込まれ、 ずぶ濡れになり、 よれよれに崩れてゆく自身の姿を視ている自分自身を幻影に描く。
鷹彦の視ている幻影を、 より鮮明にする稲妻が、 昧い空間を貫き通す。
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